最終楽章
1 ピアノ(間奏曲・追憶)
――母の手は、いつもより温かく感じられた。
長く伸びた3つの影のうちのひとつが、随分とはしゃいでいる。その影が、自分の足元から伸びていることに由香は気がついた。由香が跳ねるたび、遠くへと離れては、また足元に戻ってくる。そんな影が可笑しくて、クスクスとひとり声を漏れした。
「楽しそうね」
母が左手に力を加え、由香の体が弾むのを助ける。母の手に引かれた体が、さっきよりも高く跳ね上がった。それに合わせて、影も遠くまで飛んでいく。母の影より背の伸びたそいつは、楽しげで愉快な気持ちを倍にしてまた足元へと戻ってきた。
「そんな格好で、はしゃいじゃダメだよ」
母の右手に掴まる美香は、よそ行き用の服に身を包んでいた。真っ赤なワンピースと低い子ども用のヒールが、普段よりも姉を大人っぽく見せる。母の小さなカバンを右手にぶら下げ、はしゃぐ由香を覗き込みながら注意した。
「だって、すごかったんだもん」
由香は、興奮気味だった。自分の着ている服が一体どれくらいの価値なのかなんて、幼い由香にはわからない。そんなことよりも、感じている気持ちを表現することが今の一番だった。
「そうね、美樹ちゃんすごい上手だったね。お姉ちゃんもピアノ始めればいいのにね」
母が話しているのは、姉の同級生の女の子のことだ。その美樹ちゃんがピアノ発表会に出るからと誘われた。ただ、同意しかねると由香は首を横に振った。
「あれ、
残念ながら、その美樹ちゃんという姉の同級生の演奏がどんなものだったのか、由香は覚えていなかった。
「それじゃ、誰がすごかったの?」
母の問いかけに由香は、正確に答えられない。弾いていたのは、どこの誰だとか、何の曲であったかということを由香は知りもしないからだ。それでも由香は、必死に母にあの男の子のことを伝えようとする。
「あのね、すっごく、上手でね。うまくてね。カッコよかったの。すっごく優しくて、明るい曲をしていた、おとこの子」
うーん、と母は首を捻らせる。
「誰のことかな? 明るい曲を演奏してた子なんていたかしら?」
美香の方に、母は視線を向けた。分からない、と言いたげに姉は首を横に振る。
由香は、不思議に思った。どうして、あんなに明るい感情を表現しながら演奏していたのに、分かってくれないのだろうかと。あの男の子が、あれほど悲しく切ない曲をあえて明るさを含ませて演奏していたというのに。
分かってもらえない苛立ちに、由香は下を向いた。あの男の子の演奏が頭の中でリフレインする。そのメロディを思い出すだけで、胸の鼓動が早くなっていった。次第に苛立ちの感情は消えてなくなっていく。
赤く照りつけるアスファルトの上に、澄んだ光が弾きかえる。抑えきれない、胸の弾みに似たその光を追いかけるように由香は足を早めた。
母の手を離し、少しだけ離れる。母の影の先ほどで、立ち止まると、由香は振り返った。黒いスカートがひらりと翻る。アイボリーのレースがイタズラにめくれ上がった。美香が、はしたないと言いたげに表情を歪め由香を睨んだが、気には留めない。
「私ね、」
由香の手に力が込められた。小さな足の指先から、肩まで伸びた髪の先まで、繊細な神経が張り巡らされて敏感に流れゆく空気を感じ取る。心臓の鼓動が全身を伝い、血流が隅々にまで行き渡っていった。吐き出そうとする言葉が、妙に喉の奥で引っかかり痛みを与える。
母と姉がふいに立ち止まった。沈みかけた夕陽が、二人をシルエットのように変える。
「――私ね、ピアノがやりたい」
息が荒くなる。はっはっ、と吐息が心臓の音に合わせるように口から漏れ出した。抑えきれない興奮が腹の奥で暴れまわる。
母は、どんな表情をしているのだろうか。逆光が照らすせいで、その表情を読み取ることは出来ない。
「由香、ピアノがやりたいの?」
「うん」
由香は大きく、はっきり首を縦に振った。頭につけられた大きなリボンが髪を引く。
「そうね。それじゃ今度、一緒にピアノ教室に行こうね」
母はそう言うと、姉と共に駆け寄り、由香の手を再び握りしめた。痛いくらいに強く握られた手を、由香は強く握り返した。ドクドクと、自分の血潮が手の中で脈を打つ。心臓の音が鳴り止まない。自分の気持ちを伝えることが、これほどのものであるということを、由香は初めて知った。
興奮と照れを抑えながら、由香は母の横顔をそっと覗いてみた。その顔は、いつもより優しく、いつもより温かく感じられた。
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