5 告白

 街のいたるところがクリスマスムードに染まっていた。明日に来たるイブに向けて、どんな業種の店もかきいれ時だと言わんばかりに盛り上がりをみせている。由香のバイト先のコンビニも、従業員は皆サンタ帽をかぶらされ、強制的にイベントに参加させられていた。


 颯との約束を明日に控え、由香はまだやりきれない思いを抱えたまま、赤い帽子を脱いだ。バックヤードの小さな窓から寂れた駅のロータリーにカラフルな電飾が灯っているのが見える。退勤作業をしながら奈緒美のことを考えた。


 文化祭のあとくらいから、少しずつ話すようになり、帰りも一緒に帰ることが増えた。それでも奈緒美の表情は、これまで通り暗く悲しげなものに由香は思えていた。奈緒美は何も言わないが、颯とずっと練習していたことを気づいているんじゃないか、と由香は考えている。


 制服から私服へと着替え店を出た。冷たく尖った風が頬を刺激する。チクリと針で刺されたような痛みが、細い由香の体躯を震わせた。


 自転車の鍵を取り出そうと、由香はポケットに手を入れる。手編みの手袋が、ふいに鍵を滑らせた。凍ったようなアスファルトに、鍵は跳ね返り金属の嫌な音をたてる。


 少し顔をしかめながら身を屈めた。コートが地面につかないように手で抑えながら拾い上げる。鍵についたクマのキーホルダーが少しだけ剥げていた。また、一瞬の強い風が通り過ぎる。思わず、肘を抱え込み小さくなった。小さく吐いた息は、白く弱々しく乾燥しきった空気に溶けいった。


「由香?」


 そう名前を呼ばれて振り返る。見上げた先には、奈緒美が心配そうにこちらを覗き込んでいた。


「大丈夫?」


 コンビニの眩い灯りが、揺れたポニーテールの影をアスファルトに映す。その明かりで少しだけ彼女の表情は明るく見えた。


「大丈夫だよ。ほら、ただ鍵落としただけだから」


 慌てて由香は立ち上がる。手に持った鍵を奈緒美に見せて、心配ないと言うように口端を上げてみせる。


「あ。そのクマ懐かしいな。私が中学の時、あげたやつやん」


 由香の手のひらを指さしながら、奈緒美は懐かしそうな表情を浮かべた。


「え?そうだっけ?」


「えーひどっ。忘れたん? ほら、神戸の元町もとまち行った時やん。パンダのキーホルダーがほしいな、って言っててんけど、全然見つからんくて。結局、クマのキーホルダーにしたんやんか」


 少しぶっきらぼうに振る舞うその表情が、とてつもなく懐かしいものに思えた。ついこの夏頃まで感じていた普段の彼女の姿だ。でもそれは、精一杯の強がりなんだと分かっている。


 気まずかったことを申し訳なく思っているから、奈緒美はなんとかして関係を取り戻そうとしているに違いない。それなら、自分も勇気を出して、きっと言わなくちゃいけない。由香はそう心の中で決意した。


「もう。せっかくプレゼントしたんやから、ちゃんと覚えといてよ。…… ちゃうわ。そんなことより、年始のシフトを出しに来たんやった」


 奈緒美は、気まずさを振り払うように、由香に手を振り店の中へ入ろうとした。由香は、とっさに奈緒美の腕を掴んだ。毛糸の手袋越しに、奈緒美のコートの感触が伝わる。ゴワゴワとしたその厚手の生地の奥に、確かに彼女の肌の温もりがあった。


「え? どうしたん?」


「実はね。奈緒美に言わないといけない事があるの」


「何? 急に?」


 奈緒美は、作為的に眉を上げ笑顔を浮かべた。傷つけないでね。そう書かれた彼女の口元から、小刻みに白い吐息が漏れる。彼女の鈍色のマフラーが強い風で大きく靡いて、由香の顔の辺りを撫でた。


 わずかな間が空いた。真面目な顔をした由香に、奈緒美が固唾を飲み込む。その瞳は、わずかに揺らぐ。その滑らかな水晶の奥で、うごめく無数の感情が光になってチラチラと瞬いていた。


「ちょっと、場所変えよっか」


 奈緒美が、優しい手付きで由香の手を引いた。わずかに残った日焼けの色が、白い由香の手首を侵食する。


 コンビニから少し離れた公園へと二人は歩き始めた。


   ――――――――――


 真夜中の小さな公園は、寂しさが渦巻いていた。街頭がチカチカと公園の中心に灯る。隅の方にあったベンチに二人は腰掛けた。


「なんか温かいもの、買ってきたら良かったな」


 手持ち無沙汰からか、奈緒美はコートの袖をもじもじといじる。格子状の屋根を見上げながら、ブーツの踵をコツコツとレンガのタイルにぶつけた。


「うん」

 

 滑降部が二股に分かれた滑り台を由香は見つめた。塗装の剥げた部分に、街頭の灯りが鋭く反射する。わずかに体を動かせば、すぐ隣に座る奈緒美の体温をまじまじと感じた。


「なんか緊張するわ。こんな真面目な顔した由香はじめて見るもん」


「そんなことないでしょ? 普段から真面目な顔してるよ」


「普段は、ボヤッとアホみたいな顔してるやん」


「そんな顔してないよ」


 引きつった表情で、奈緒美はクスクスと声を漏らす。必死に笑みを作っているのが印象的で、由香は思わず視線を下に落とした。


 それを見た奈緒美が、小さく声を漏らす。


「ごめん、嘘」


 視界の端で奈緒美が口から漏れた吐息が、かすれて消えていく。その様子があまりに切なげで、由香は思わず見ないふりをした。


「それで話って?」


 奈緒美はつま先で、小さな石をコツンと蹴った。不細工な形の石が無規則に弾む。まばたきをすれば公園の砂利に紛れ、その石がどの石ころだったのか判別はつかなくなった。


「……」


「……ちゃんと話して」


 こちらを捉えた奈緒美の双眸をじっと見つめ返す。言わなくちゃいけない。そう自分に言い聞かせた。


「文化祭の少し前だったかな…… 本当に偶然だったんだけど。バイトの帰りにね、見ちゃったんだ」


 何を? と、奈緒美が首を傾げた。ただ、その声は少し震えていた。きっと寒さなどではない。確信めいた何かを感じている。


「雨の日だったよ。奈緒美が男の人と話してた。姿は見えなかったんだけど、声ですぐに奈緒美だって分かったんだ。盗み聞きするつもりじゃなかった…… 。けど、言い合いになってて……、それで、奈緒美が泣いちゃって、どうしたらいいか分からなくて……、」


 そこまで言って由香は言葉をつまらせた。そっか、と奈緒美が声を漏らすまで、どれくらい静寂が流れただろう。由香は、手袋の下で冷たくなった指先をこすり合わせた。

 冷え切った肌に感触はほとんどなく、冷たい皮膚との摩擦でパチパチと手袋に静電気が籠もった。その痛みがやけに心地よく思えるほど、空気は重く、憔悴した心の依拠する場所は見つからない。


「奈緒美って彼氏いたんだね」


 切迫した空気に耐えきれず、思わず冗談っぽく由香は声を出した。それがどれだけひどいことか自分でも良く分かる。はぐらかそうとする自分を、ひどく嫌いに思った。


「うん」


 一点を見つめた奈緒美の双眸は、わずかな揺らぎもなく佇んでいた。小さく頷くと、目尻からキラリと光る雫が彼女の頬を伝う。薄暗いせいで、それが涙だったのかどうか由香には分からなかったが、奈緒美の細い指が目尻を拭った。

 

「高二の時やったかな。部活で体外試合に行った別の高校の一個上の先輩やった。めっちゃ、テニスが上手くてな。カッコよかってん。すぐに好きになった。付き合ったんは、その年の夏頃やったかな? 先輩が大学に行ってからもよく会ってた。お弁当も出来るだけ作ってたし。でも、うちが引退してからくらいかな。部活がなくなって、私が会いたい会いたいって。わがままばっか言うようになって。それがアカンかったんかな」


「どうして?」


 単純な疑問だった。恋人なら会いたくなるのなんて当たり前じゃないか。そんな安易な質問が奈緒美をさらに追い詰める。


「たぶん、部活がなくなった寂しさを埋めてる、って思われたんとちゃうかな。それにだいぶんウザかったんやと思う」


「うざい?」


 由香の眉間に皺が寄る。友人が貶されたことに対する怒りが、自身の中で煮えたぎっていくのが分かった。

 

「メールとか電話とか、毎日して欲しかってん。始めの頃は、向こうもしてくれてたけど、大学生になって忙しくなったんかな。次第に、頻度が下がっていった。その頃やねん。私が部活を引退したんわ」


 奈緒美は、幅の広い木製のベンチの後ろ側に手をつき、体を反らした。枯れた蔦が絡む格子の屋根の隙間から、どんよりと曇った空を見上げて、彼女は白い吐息を吐き出す。


 由香は、その頬に水滴のあとを見つけ、思わず視線を反らした。砂場には、どこかの子どもが忘れたカラフルなシャベルが転がっていた。


「でも、好きな人ならメールとか電話とか。毎日したいものじゃないかな。それをウザいっていうのはひどいんじゃない?」


 慰めのつもりだったのかも知れない。抑揚のない言葉が、白く濁りながら空気に溶けていく。それを察したのか、奈緒美はクスリと声を出した。それが意図して作られたものだと、由香はすぐに分かった。


「どうやろか? 喧嘩の理由は、こっちが悪いんとちゃうかな。あの日、見たんやろ? うちってすぐカッとなっちゃうタイプやねん」


「奈緒美は優しいよ」


 嘘じゃない言葉だった。普段の奈緒美から、あの日の光景は想像できない。きっと相手がひどいことをしたんだ。そんな風に由香は思う。由香と奈緒美の視線がふいにぶつかった。あまりにも悲しげなその瞳に、思わず由香は息をのむ。



「女の子とメールしててん」

 


 長いまつ毛が、そのくっきりとした双眼を包み込む。その瞬きに合わせて、小さな街頭の灯りが潤んだ瞳に反射した。


「彼は、ゼミの子やって言うねんけどな。私にはあんまり連絡してくれへんくせに、その知らん女の子とは頻繁に連絡取ってんねん。授業のことでやり取りしてるんは分かってる。でも、不安になった。部活引退してからも、一人で帰ってたやろ? 毎日、彼の最寄り駅まで迎えに行ってな、一緒に帰っててん」


 恐ろしいほどその目は真っ直ぐで、自身の罪の深さと過ちなど加味していなかった。


 冷え切った手を由香は握りしめた。やりようのない思いが、奥歯を噛み締めさせる。ギシリと米噛あたりが痛んだ。言葉にできない思いが由香の中を駆け巡る。

 

 小さく反動をつけて奈緒美が立ち上がった。数段の小さな段差を下り、少し離れた由香の正面に立つ。ぼんやりとした影が由香の方に伸びた。チカチカと光る街頭に、影の輪郭が小刻みに揺れる。


「向こうのことなんか、なんも考えずに、あーして、こーしてって甘えてたし。嫌気がさしたんやろうな。構ってちゃん? メンヘラ? そんな風に言われたわ。由香もそう思うやろ?」

 

「そんなことない」


 衝動的に出たその言葉は、いくつもの嘘を孕ませていた。それでもその嘘は、偽れたと思えるほど、冷たさと静けさに満ちたトーンで由香の口から白い吐息にまじり吐き出された。


「嘘」


 悲しいほど大人びた表情が、由香の言葉を否定した。刹那の間隔でチラつく街頭が、由香の瞬きのリズムと合う。どうして、こうも自分は分かりやすいのだろう。失意に似た感情が全身の力を奪っていく。


「ごめん。たぶん慰めたかったんだと思う」


「うん、分かってる。きっと、由香のせいじゃない。全部、私やわ」


 彼女のコートの裾が若干下がった。力の抜けた様子で肩を落とす。


 友人からの言葉が、彼女に過ちを受け入れさせた。そう言えば、聞こえはいい。だがそれは、自身の言葉が奈緒美を傷つけたに過ぎない。


「それにな」


 細い奈緒美の指先が、眉にかかった前髪を弾く。


「由香に嫉妬もしてた。ここ最近、ずっと距離を感じてたやろ?」


 奈緒美は、その場で膝を抱えてしゃがみ込んだ。長いコートが土に着くことも気にとめず、枯れた木の棒を拾うと小さな小石をその先で弾いた。


「あれからもずっと男の子にピアノ教えて貰ってたんやろ?」


 コクリ、と鳴った喉が、それは真実だと彼女に告げた。奈緒美は、しゃがみ込んだまま意図のない線を枝の先で地面に描く。


「彼とおるところを見てもうてん。コーヒーショップで、一緒にお茶してるところ。私は振られたのに、由香だけズルいって。ほんましょうもない上に勝手よな。めちゃくちゃやわ。頭では分かってんねん。そんなことしたらアカンて。由香はなんも悪くないって。でも、いつも通り接するなんて出来ひんかった」


「でも最近は、ちょっとずつ話してくれてたじゃん」


「それは、汐織から由香が彼と会う理由を失ったって聞き出したから。あの子は、私が悩んでるって気づいてたから、渋ったけど、教えてくれた。良かった。由香も会えなくなったんやって。安心した。それで話すようになった。性格悪いよな。最低やわ」


 何かを欲しそうに奈緒美は由香を見つめた。それは、許しを乞うための罵声の言葉なのか、慰めなのか。ただ、「この辛さから逃れるすべを私に頂戴」そう書かれた瞳が真っ直ぐに由香の方を向いていた。


 重たく悲しい感情で澱んだ空気が、由香から言葉を奪い去っていく。


「付き合いが長いからかな? 分かるで。由香がどう思ってるか、本当のことを言ってほしい」


 楽になるため罵声を催促するその言葉が、由香の胸をえぐる。その言葉を言われたのは、二度目だ。でもあの時とは違う。


 由香の見つめた奈緒美の目には、零れ落ちそうなほど水滴が溜まっていた。


 きっと決壊するに違いない、由香はそんな確証がありながらも口を開いた。


「一人よがりだと思う」


 感じたことのない痛みが、胸のあたりを駆け巡った。ギザギザした靴で踏みつけられたような痛みは、計り知れないほどの苦痛になり、目頭を熱くする。それでも、由香は冷気ですり減る喉を必死に震わせながら言葉を続けた。


「私、奈緒美のこと何も分かってなかった。いつも大人っぽくて、素直で、素敵で、明るくてクラスの中心にいて、いい子なんだと思ってた。でも違った。本当は、子どもっぽくて甘えん坊で、自分勝手で、寂しがり屋で、構ってほしいばかりで、性格も悪くて最低で……」


 気づくと立ち上がっていた。ブーツが小さな砂利を踏み潰し、擦れた音をたてる。声を荒げたせいで、喉の奥がヒリヒリと痛んだ。啜った息に、しょっぱいさと鉄の味が混じる。



「そうやんな。私もそう思うわ。そりゃ、嫌われるやんな。由香も呆れ?いや、幻滅してるやんな」


 捲し立てられた罵倒に、満足とも不服とも取れない表情を浮かべて、奈緒美は視線を反らした。細い指を額に当て、自嘲するように声を漏らす。


「だけど――、」


 奈緒美をじっとみつめたまま、由香は声を張り上げた。乾いた空気を割くように響いたその声は次第に優しいものへと変わっていった。


「だけどね。私、奈緒美のこと好きだよ」


 ポニーテールが揺れた。不意の言葉に、奈緒美の表情がパッと開く。


 由香は、大きく手を広げた。自分の頬に温かいものが流れ落ちているのが分かったが、拭いはしなかった。


 奈緒美は、少し戸惑う。どういう反応をしたいいのかわからない様子で、彼女の目が不規則に揺れる。やがて、大粒の涙が彼女の瞳からこぼれ落ちた。こらえていたものが溢れ出るように、大きな声を出しながら泣きじゃくる。由香は、ギュッと奈緒美を抱きしめた。温かい彼女の体温が、胸の中でじんわりと広がっていく。


「私、奈緒美の友達だもん。幻滅なんてしないよ」


「やけど、自分のこういう性格が嫌やねん。勝手に友達巻き込んで傷つけて…… ひどいのは分かってるのに、どうもできへん」


「いいんだよ。もし、自分のことがイヤでも、少しずつ変わっていこう」

 

 息遣いと一緒に揺れるポニーテ―ルの上に、白い雪がひとつ舞い降りた。由香がそっと手で払えば、冷たい雫が毛糸の手袋を侵食する。


 「雪……」


 胸の中で奈緒美が呟いた。見える景色が白く染まっていく。街全体を包み込むように、粉雪が降り注いだ。

 ――綺麗。白い吐息が、声に出ていたことを告げる。寒さをこらえるように奈緒美が、由香にギュッとくっついた。甘い匂いが由香の鼻を通り抜ける。まるで幼子をあやすようにその頭を撫でた。


「ありがとう」


 かすれた小さな奈緒美の声が、なぜだか無性に恥ずかしくて、由香は聴こえないふりをした。

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