4 恋する二人のソナタ

 妙に部屋が静かになっていることに気がつく。ゆっくりと瞼を開くと、向かいの席で颯が本を開いて座っていた。


 由香は、自分の肩に掛かったコートに手をやる。見覚えのない黒いダッフルコートの襟元あたりから、ほのかなシャンプーのいい匂いがした。


「私、寝てましたか?」


 由香は、まだ意識がはっきりしないまま颯に問いかけた。静かに空調の音だけが、部屋に流れる。颯は、目を覚ました由香の方に目をやると、読んでいた本を閉じた。


「ちょっとだけね。あまりに気持ちよさそうだったから、起こせなかったよ」


 どれくらい寝ていたのだろうか、と由香は部屋の掛け時計に目をやる。時計の短針は、わずかに進んでいた。


「30分くらいかな? よく眠れた?」


 昨日、会える嬉しさから舞い上がって寝れなかったせいだ。まだ眠り足りないショボショボする目を指でこすりながら、由香は包まったコートを抱き寄せた。


「もう少し、寝ていてもいいよ」


 イタズラに微笑む颯の顔を見て、由香は首を横に振る。ふいに出た大きなあくびを噛み殺せば、瞼から涙がこぼれそうになった。


「眠そうだね。受験勉強?」


 至極まともな言い訳を相手から渡され、由香は大きく首を縦に振った。暖かかったからか、緊張からか、喉がカラカラになっている。椅子の下に置いたカバンから水を取り出し口に含むと、冷えた水が体のあちこちをめぐり、由香を目覚めさせた。それと同時になんと失礼なことをしたのだと罪悪感が襲ってきた。


「私、寝ちゃってごめんなさい」


 慌てて目を開く由香を、颯はおかしそうな顔で見つめた。


「漸く、お目覚めだね」


 からかわれ、由香は頬を赤らめる。わざとらしくムスッとした顔で立ち上がると、肩に掛けられたコートが床に落ちた。


 あ、と互いの声が漏れた。慌てて由香がコートを拾おうと手を伸ばすと、颯の手が肩に掛かった。思わず、由香は手を引っ込める。手の先が妙に熱い。その熱さが、次第に全身へと駆け巡った。


 颯は、床に落ちたコートを拾い上げると、壁のフックに掛かったハンガーへ手を伸ばした。軽くコートを払い、ハンガーに掛ける。颯のコートが由香の着てきたコートの横に並んだ。2つのコートは、まるで仲の良いカップルのように手の袖が重なり合っていた。


「ごめんなさい、コート落としちゃって」


「大丈夫だよ。起きてから謝ってばかりだね」


 申し訳なさそうにする由香を、颯がクスクスと声に出して笑う。それに釣られて由香の緊張が少し解けてきた。


「そうそう。それよりも、今日は、ピアノ二台の部屋用意してもらったから一緒に弾かない?」


 そう言いながら颯がピアノを指差す。二台のピアノがこの教室には設置されていた。颯が腰掛けた向かい側に、もう一台のピアノがこちらを向いて並んでいる。


「セッションですか?」


「ダメかな?」


 由香は、少しうつむいて手のひらを眺めた。ふと、『素直になったら楽なのに』という汐織の言葉が浮かぶ。素直かぁ、と心の中でつぶやいた。受付の人もそんなことを言っていた。「素直」そうもう一度、心で呟くと、由香は颯の座るピアノの対面へと腰掛けた。


「お願いします」


 ピアノの蓋を支える突き上げ棒越しに見える颯に向かい、軽くお辞儀する。


「そんなに改まらなくても」


 力を抜いてと言わんばかりに、颯が表情を緩めた。それに合わせて、由香はふっと、息をひと吐きした。


「それじゃ、お願い颯くん」


 親しげに言った由香に、颯は満足気に口端を緩める。


「なにを弾こうか? 由香ちゃんは、なにか弾きたい曲ある?」


「そうですね…… 私が弾けるやつで、ピアノ二台の曲か……モーツアルトとかどうですか?」


「『二台のピアノのためのソナタ』だね。なかなかの選曲だね」


 そう言われて、由香はハッとする。確かに、なかなかハードな曲を選んでしまったかも知れない。現役時代ならまだしも、鈍っている腕で弾けるのか、微妙なレベルの曲だ。楽譜は、多分、頭に入っている。それでも彼に合わせることが出来るのか、少しばかり自信がない。由香は、息を整え鍵盤に指を構えた。


 それを見て、颯も鍵盤に手を構える。互いの目が合った。視線で合図を送り合い、互いが弾き出す瞬間を、わずかな息遣いで分かり合う。まるで何度も合わせたことがあるような感覚になった。由香が強く腕を振り下ろした瞬間、強い音が部屋中に響いた。


 リズミカルに音符が弾け飛ぶ。温もった部屋の空気を、楽しげなメロディが揺らす。その音はどこまでも響いていくように感じた。街に飾り付けられたサンタやトナカイといったクリスマスの装飾たちも踊りだすのではないだろうか。昼間の電飾たちが、思わず色鮮やかな光りを放ってしまうくらい、颯とのデュエットが楽しくて仕方がなかった。


 激しく楽譜の中で音符が競り合う。颯から由香へ、由香から颯へと華やかなメロディのラインが移り行く。鍵盤の向こうには、揺れる陽に包まれた颯が、感情的に体を揺らしているのが見えた。


 頭の中で必死に追っていた楽譜も、いつの間にか無心で指が動いていた。わずかミスもすべて颯がカバーしてくれている。少し間違えるたび、宥めるように、颯は微笑みを浮かべた。


 感情は、高ぶり激しさを増していく。曲の終わりに近づくにつれ、ピアノを始めた頃のことを由香は思い出していた。いつもこんな風に楽しく弾けていた気がする。ピアノを触るのが好きで、音を奏でるのが好きで。


 そうして、いつも楽しみにして教室へと来ていた気がする。ピアノから距離を置いていたのは、どうしてだろうか、ピアノをやめたきっかけは何だったんだろう。そんなことを無意識の中で考えていた。


 目に涙が浮かんでいることに気がついたのは、演奏を終えて颯に指摘されてからだ。


「ごめんなさい。別に悲しいことがあったとかじゃなくて」


 由香は、慌てて涙を拭った。セーターの糸が瞼の粘膜を刺激する。下瞼がヒリヒリと痛んだ。


「急に、ピアノを始めた頃のことを思い出して。昔は、大好きだったんです。でもいつの間にか、距離を置くようになって。それでやめちゃって。人前に立つのが辛くて…… 苦しくなって。どうしてそうなったのか…… 思い出せないんです」


 鼻をすすりながら、由香は鍵盤の上に落ちた涙を袖で拭き取る。


「そうか。でも、それでいいんじゃないかな?」


 颯は立ち上がると、ピアノを回り込み、由香の隣で腰を低くめた。由香の顔より、少し低いところで颯が笑顔を作る。由香は、颯の言いたいことが分からず首をかしげた。


「無理に思い出さなくてもいいよ。それより今、弾いていて楽しかった?」


 楽しくないわけがないと、由香は大きく頷いた。それを見て、颯の笑顔はより明るいものになる。


「それは良かった」


 ポン、と由香の頭の上に颯の手のひらが乗った。由香は、心臓が一瞬、止まったように感じた。とっさに何か言おうとしたが、喉の奥に言葉がすべて引っかかって出てこない。


「今、分からないなら無理に思い出すことなんてないよ。嫌いになった理由は分からなくても、こうしてまたピアノを弾いているんだから。僕は、由香ちゃんのピアノが聞けて本当にうれしいよ」


 優しい颯の手は、由香の頭から離れていった。わずかに寂しさを感じつつ、頭皮に残った彼の温もりを感じるよう、と由香は自分の頭を手で撫でる。


「きっと、心の奥に閉じ込めた思いみたいなのを、誰もが持っているんだよ。それは、音楽をする上ですごく大切なことなんだ。自分の中にありそれを表現することこそが音楽なんじゃないかな。そして、それをもしも思い出すことがあるなら、それは必然性があるんだよ。だから今は、その時じゃない。でもそれを思い出す時が来たなら、その時にどうするかが大切なんじゃないかな」


 颯の腕は、鍵盤に伸びていた。なんでもないフレーズを弾きながら、少し遠い目をする。その表情が、どうしても悲しげなものに由香には思えた。


「颯くんにもあるんですか?」


 その問いに颯の顔が一瞬、こわばる。いけない質問だったかも知れない。由香が顔を伏せてしまいそうになるが、颯が静かに頷いた。


「あるよ」


 陰った表情が一瞬、明るくなる。颯が何を思ったのか、由香にはわからない。真っ黒な瞳に含まれた悲しみが、柔らかな影に隠される。


「実は、ずっと悩んでいたんだ。でもすっかり気持ちに整理が出来たよ。由香ちゃんのお陰だよ」


「私のですか?」


 自分が一体、なんの役にたったのか。わけがわからない、と由香は困り顔をするが、颯はクスクスと笑い誤魔化した。


「もう少し、弾いていようか」



 颯が手のひらをピアノに向ける。由香は、はっきりと返事をした。鍵盤が涙でまだ少し湿っている。それをもう一度拭うと、隣に立つ颯に顔を向けた。


「あの、今度、どこか一緒にいきませんか」


 精一杯の言葉だった。出来る限り素直になってみせたつもりだ。真っ赤になっているであろう顔を、少しうつむいて隠してみる。


 恐る恐る、由香は視線を上げた。颯は、柔い表情を変えずに頷く。いつにしようか? と彼はポケットから小さな手帳を取り出した。

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