第三楽章

1 理解不能やわ

「由香ちゃんどうやった?」

 

 終了の合図に合わせて、前の席の汐織が由香の方へ顔を向けた。バイトの試験官らしき若い男性が、それを見て眉間に皺を寄せる。由香は慌てて、手で前を向くようにと指示を送った。


 見慣れない窓際の席から由香は外を見上げる。閉じられた窓を叩く飛行機の音が、随分と近く感じた。秋色の空は、高々と鱗雲を纏う。木々たちの多くは、その身の緑をすべて脱ぎ捨てていた。


 文化祭からひと月ほどが経った。十一月の後半にしては、異様に寒く、多くの生徒が真冬のような防寒具を身に着けていた。見慣れない制服に囲まれているのは、外部の模試を受けていた為だ。いつもの西宮西高校ではなく、伊丹市内の高校まで足を運んでいた。



 後ろから回って来たマークシートを汐織に渡すと、由香は机の横のカバンの上に置いたコートを手に取った。


 「今日は、寒いね」


 周りからそんな会話がちらほらとこぼれる。教室の扉が開き、外気に室内が侵食されると、刺すような寒さが素足を刺激した。


 隣では、汐織が小さな手でピンク色のマフラーを首に巻きつけていた。去年は見なかったものだ。新しくかったの? と由香が聞けば、嬉しそうに彼女は頷いた。


「それで由香ちゃんどうやった?」


 汐織が、模試の問題用紙を由香の前に突き出す。屈託のない笑みを浮かべて掲げるものではないな、と思ったが由香はその言葉を飲み込む。


「まぁまぁかな。それでも予備校には報告しないとだよ。点数悪いと怒られるし…… もう、来年には本番だし、怖いなぁ」


 文化祭が終わり、受験というものがより一層現実味を帯びてきた。志望校への合格ラインはギリギリ。追い込み時であることは、分かっているのだが、色々と身が入らないのが現状だった。


「由香ちゃんならいけるって!」


 毎度の根拠のない汐織の元気づけだが、最近は妙な説得力がある気がしてきた。彼女の応援は、不思議とやる気にしてくれる。チアガールのコスプレなんか似合うのではないだろうか。ふと想像した、汐織のチアガール姿は、由香の想像の中で異様に似合っていた。


「汐織は、余裕そうだもんね。志望校も、私なんかより上なのに予備校も行ってないんでしょ? 神様は、不平等だな」


 可愛いいし、と心の中で付け足す。随分、卑屈な表情をしていたせいか。汐織から激励の言葉が飛んできた。


「そんなベタなこと言ってへんと、本番に向けて自己採点する! うーん、今から由香ちゃんの家でやる?」


「え? うち?」


「そう、由香ちゃんち」


 むしろここからだと近いでしょ? と、汐織はおどけてみせる。


 確かに、ここから由香の家までは電車で一本だった。


「うーん、別にいいよけど。今日はバイトもないし」


「わーい。由香ちゃんちに行くの久しぶりや! 帰りにどっかでお菓子買っていかな」


 ピンク色のマフラーが、廊下から吹き込む風に煽られてふわりと持ち上がった。本当に勉強する気があるのかな、と由香は口端を緩ませる。ガタガタと教室の扉が音をたて、きゃっ、という女子の甲高い声がどこからか聞こえてきた。



 校門からバラバラの制服が出ていく。見慣れない制服たちと一緒に、見慣れない住宅街の一本道を通り、二人は駅を目指す。最寄りの駅は、ひとつしかなく人の流れに身を任されば迷うことはない。


 JR北伊丹駅の近くには、大きな公園があった。その一部は、ウォーターランドという巨大な水遊び施設になっていて、夏の時期なんかには随分と賑わうらしい。今は、期間外の為か入り口は閉鎖されており、枯れた木々たちが錆びれた様子を演出していた。


「こんなところにプールみたいなのがあったんだね」


「由香ちゃん知らんかったん?」

 

「うん、来たことない」


「えーそうなんや。由香ちゃんの家からそんなに遠くないのになぁ。まぁ、こっちに来たんが、五年生からやもんな。それやと、ここになかなか遊びには来んかなぁ」


 プールと言うには、少々こぢんまりとしていた。中学生の時、友人たちが話題にしなかったというのは、対象年齢が低いということかもしれない。


「プールとは少しちゃうんねんなぁ。流れるプールだとか波のプールとかはないんやけど、岩場とかウォータースライダーとかがあってすっごく楽しいで。幼稚園の時とか良くママに連れてきて貰ったわ。最近は、妹と毎年来てるけど」


 汐織の言う通り、駅のホームから見える柵の向こうには、公園の滑り台ほどの大きさのカラフルな岩場のようなものがいくつか見えた。その隙間から水が流れてくる仕掛けになっているのかも知れない。幼稚園や小学校の低学年には、確かにワクワクする施設なのだろう。しかし、汐織の妹さんはすでに中学生だった気がするのだが。


「まだ遊びに来てるんだ」


「由香ちゃんも来年一緒にいく?」


「いや、やめておくよ」


 そんなどことないノスタルジーも他所に、周りの学生たちはあの問題がどうだとか、あの問いの答えはどうだとか、なんともリアルな話をしていた。迫りくる受験という大きな壁を、自分は超えることが出来るのだろうか。不安な気持ちが胸の中を漂う。

 

 電車の接近メロディがホームに流れた。まっすぐと伸びる線路の向こうから、銀色の電車が近づいてくる。夕日に照らされた銀メッキが、激しく光沢を帯びて七色に輝いていた。多くの学生が、高槻行きの電車へと乗り込む。すでに座席は、埋まっており、二人は入り口の近くの手すりに持たれるように立った。


 外の気温が嘘のように車内は、随分と暑かった。思わず、コートを脱ぎたくなる。人の多さに息苦しい。「あったか~い」と、まるで自販機の煽りのような気の抜けた声を汐織が漏らした。


 そうだね、と由香は相槌を打つ。汗ばんだ背中に不快に感じていると、間髪入れずに気の抜けたまま汐織が言葉を続けた。


「そういえば、由香ちゃん。文化祭の時にいた男の子と、結局どうなったん?」


「ど、どうって?」


 背中に滲んだ汗が冷や汗に変わる。すーっ、と冷たいものが背筋を這っていった。


「好きやったんとちゃうの?」


「す、好きって何が?」


 とっさに声が大きくなった。隣でイヤフォンをしていた知らない男子生徒が、由香の方を振り向いた。


 背中とは真反対に、顔が、かぁっと熱くなる。


「好きっていうか、そうなのかな」


 小声になりながら汐織の方を見た。自分の気持が分からなくてどうするの? と汐織が呆れた顔をする。汐織のそんな表情に、ふいに胸が痛む。それは、彼女が普段から決して人を突き放すようなことをしないから。そんな表情にさせてしまった罪悪感に苛まれたせいかもしれない。 


「ピアノの指導をして貰ってただけで、颯くんに対してそういう風に思ったりは……好きなのかと言われれば。うーん、たぶん、そうなんだろうけど……」


 小さな声がさらにか細くなっていく。紅潮する由香に、汐織の鋭い眼光が襲いかかる。


「好きなら好き! 嫌いなら嫌い! はっきりする。もう、素直になったら楽やのに。なんでいつもでも、もじもじしてんの? 女々しいで」


「そりゃ女だもん」


 彼女の視線は、由香の顎の下あたりから飛んできている。おっとりしているように見えて、汐織は物事をはっきりとさせたがる。


「女性も、ドシっとしなくちゃあかんの」


 汐織は腰に手をやり、胸を張った。彼女の小さな胸は、肺に空気を入れてもその膨らみを明らかにしない。


 はぁー、と由香ため息をこぼした。受験に集中できない要因は、間違いなくこの色恋沙汰なのだ。そうだけれど、はっきりさせろと言われれば、難しいものがある。 


 電車のアナウンスが、猪名寺駅を告げた。二人がいる方とは反対側の扉が開き、冷たい空気が車内に入り込んできた。ホームに出れば、背中にかいた汗が一気に冷え切る。身震いしながら二人は、駅舎の階段を登っていった。


「あれから彼とは会ってへんの?」


 ピピっとICカードが改札を開く。由香は、うーんと声を出しながら小さく頷いた。


「もう、文化祭から一ヶ月やん。早く会わんと」


「でも、ただピアノを教えて貰ってただけだから、なんて言って会っていいかもわからないし」


 ――ピアノを教えて貰う。それだけが彼と会えた唯一の理由だった。文化祭が終わってその理由を奪われてしまった。まるで、彼が別の惑星にいるのではないかと思えるくらい遠く感じてしまう。

 

「理由かぁ」


 汐織は、考え込むように腕を組んだ。腕で持ち上がったマフラーが、彼女の顔の半分ほどを隠してしまった。


「連絡とかもしてないん?」


「うん。というか連絡先を知りません」


 ええ、と汐織が大声を上げる。その甲高い声が小さな駅舎の隅々にまで轟いた。


「なんで、連絡先も交換してへんの!」


 張り上げられた声に、一瞬、由香はたじろいだ。余程の衝撃的なことだったのか、怒りなれていない汐織の声は震えていた。


「そもそも向こうは、会いたいと思ってないかもだし」


「嫌いな子に、わざわざ指導なんかせんて。もう理解不能やわ」


 ついに汐織の声が少し不機嫌になる。呆れを通り越してしまったようで、頭を抱え込んでしまった。こんな風に荒れる彼女を見るのは初めてだった。見捨てられないようにと、由香は謝りながら少し苦笑いを浮かべた。


「謝られてもなぁ。由香ちゃんの問題やし。ホンマに深刻やわぁ」


 汐織が、珍しくため息をつく。気のせいか、彼女がほんの少しだけ老けたような気がした。本当に親身になって考えてくれているらしい。


 駅舎の階段を降りると、辺りはすでに薄暗く、小さなターミナルの作為的に並ぶ街頭がポツポツと灯り始めていた。夜の気配が迫る寂しさが、二人の足並みをわずかに鈍らせる。 


 「私、コンビニに自転車停めてあるから取って来るね」


 隣接された立体駐輪所の向こうに、やけに明るくコンビニの灯りが見えた。自転車は、今朝こっそりと、従業員用のスペースに停めてきていた。


 うん、と汐織は駅舎の階段へと腰掛けた。ひんやりと冷たかったのか、ひゃっと声を出し、毛糸の手袋へと息を吹きかけた。

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