2 会う理由

 由香は、猪名寺いなでら駅に併設されている駐輪所を越え、コンビニに停めていた自転車の元へと向かった。


 従業員用の駐輪スペースに停めてある自分の自転車を見つけ、キーを回す。その隣に、奈緒美の自転車が停まっていることに気がついた。

 ガラス越しに店内を覗くと、紺色の制服を着た奈緒美が素直な笑みを浮かべて接客をしていた。未だに、奈緒美とは上手く話せていない。文化祭のあとから、バイトで一緒になった時や学校にいる時には、普通に話せる程度にはなったのだが、どことなくまだ距離を感じていた。


 由香が、ぼーっと店内を眺めていると、すぐそばの自動ドアが開いた。


「あら、立花さん?」


 名前を呼ばれ、とっさに視線をやる。手に買い物袋をぶら下げたいつもの彼女が、ちょうど店から出てくるところだった。


「あ、こんにちは。ん? いや、こんばんは」


 とっさに頭を下げる。言い直したのが可笑しかったのか、彼女はクスクスと笑いながら、「こんばんは」と返した。


「立花さん、今からバイト? あら、でもおかしな時間ね」


 彼女は、手首を逆さにして、腕時計を確認する。時刻は、午後五時を少し回ったところだった。


「いえ、今日は、模試だったので。ここにこっそり停めさせてもらいました」


「それじゃ、ずるってことね」


 今度は、随分イタズラな表情をした。初めて見せる彼女の表情に、思わず胸のあたりがキュンと締まる。


 思えば、バイトの制服の時以外で、彼女と話すのは初めてだ。レジのカウンターをひとつ通さないことで、彼女がより大人っぽく思えた。


「今日もお仕事ですか?」


「そうよ。今日は、今から帰りだけど」


 そう言うと、彼女はコンビニの袋を、すっと自分の顔の辺りにかざした。緑色のロゴが刻まれた半透明なビニールの中には、お酒の缶が数本入っているのが見えた。


「明日は、お休みだから久々に友達とね。あ、立花さんはまだ呑んじゃダメよ」


「さすがに呑みませんよ」


 たしなめるように言われて、由香は思わず苦笑いを浮かべる。


「一人暮らしされてるんですか?」 


「そりゃ、この歳だもん。実家から近いんだけどね」


 大人だとは思っているが、自身とそれほど歳が離れているとは思わせない見た目を彼女はしている。だから、一人暮らしという響きが、無性にかっこよく思えた。


「あ、今、歳って聞いて考えたでしょ」


「いえ、そんな」


「立花さんが産まれたの、私が中学生くらいの時よ」


 随分おばさんでしょ、と彼女は目を細める。その目尻できたわずかな皺だけが、彼女の生きてきた年月を感じさせた。


 誰でもひとり暮らしに憧れは抱くもので、由香もそのうちの一人だ。一人暮らしをすれば、なんとなく大人になれる気がする。


「でも、ひとり暮らしは、自由だけど大変かな」


 冷たい風が、少しカールした彼女の髪を揺らした。ほんわりと優しく甘い香りが由香の鼻を刺激する。


「でも、一人暮らしって憧れます」


「そう? 掃除に洗濯、料理はたまにだけどね。お母さんの有り難さを痛感するよ」


 仕事の両立とは大変だよ、とまるで由香を脅すような口ぶりで彼女は言う。その口角はイタズラに上がっていた。


「もうすぐ受験なら、バイトは程々に頑張ってね」


 彼女は、軽く手を振った。トレンチコートから、白く細い手が伸びる。その背後に、駅舎の磨りガラスの窓が並んでいた。ホームを通過する快速電車の車窓から漏れる光が、磨りガラス越しにその指の輪郭をなぞる。指の隙間から伸びる光の筋が、まばゆく由香の頬を照らした。

 時間が止まったように感じる。ゆっくりと流れる時間の中で、由香は自転車のハンドルをギュッと握りしめた。


「あの、」


 由香の口が知らず知らずのうちに動く。思わず出た声に、自分ですら驚いた。


 どうしたの? と、言いたげに彼女の眉が下がった。由香の喉の奥がコツンと鳴る。それを殺すように小さく息を吸い込むと、力の入っていた手が緩まって、自転車の前輪がゆっくりと重力に従い傾いた。


「少しだけ、相談に乗ってもらいたいんですけど」


「相談? 私に?」


 キョトンとした様子で、彼女は由香を見つめる。とっさに由香は言い訳を並べた。


「大人の人に聞いてほしいというか。恋愛経験がありそうな人の方がいいなぁ、なんて思って。おこがましいしいことは承知ですし、店員とお客さんの関係なのに、って話ですけど。ほんの少しだけ、相談が出来ればなぁなんて……」


 照れ隠しのように捲し立てられた言い訳も、次第に底を尽き、やがて由香は大きな口を開いたまま固まった。


「経験豊富って私が? あー、遊んでるように見えた?」


 下がっていた眉が皺を寄せる。意地の悪い表情で彼女は頬を緩ませた。恐る恐る由香は、口を開く。


「いえ、遊んでるとかそういうわけじゃなくてですね。大人な雰囲気というか、そうアダルティなんです!」


 思わずといった具合に彼女が吹き出す。ごめん悪気はないのよ、と片手で口元を抑えながら、彼女は少し前かがみになって由香の方を見た。


「いいよ。話聞いてあげる。でもそんなに頼りにはならないよ」


「いえそんな」


 由香は自転車の後輪のスタンドを足で蹴って立てる。 

 アスファルトを擦った音が夜の街に響いた。


「それで相談って? 恋愛? 好きな人がいるとか?」


 彼女は、入り口の近くにある青いベンチに腰掛けた。有名な飲料メーカーのデザインの塗装は、随分前から剥がれ背もたれの一部はかけていた。


 彼女は、カバンからピンク色の煙草ケースを取り出す。一本口へと咥え、ライターを手にしたところで、目の前の女の子が高校生であることに気づいたらしい。慌てて煙草をケースへと戻した。


「はい」と由香は恥ずかしそうに頷き、彼女の隣へ腰掛ける。そんな反応が可愛らしく思えたのか、彼女は優しく微笑んだ。


「実は、気になってる男の子がいるんですけど、会う理由がないというか、なんて誘えばいいのか分からない上に、彼にどう思われてるのか分からくて……」


「なにそれ?」


 由香の悩みは、あっさりと両断される。由香があっけに取られていると、彼女は前かがみで頬杖をつきながら表情を崩した。コロッ、と彼女の首が傾く。サラサラとした髪が、しっかりと生えた眉を撫でた。可愛らしいその仕草は、彼女を若々しくみせる。あざといと思ってしまうほど、その動きは無邪気で子どもっぽいものだった。


「好きなのに会う理由がいるの? 好きだから会うんでしょ? 会う前から相手がどう思ってるとか決めつけない。それに立花さん可愛いし大丈夫」


「そんな、私なんか全然です」


「そうかなぁ。ちゃんとおめかしすれば、相手もイチコロだと思うな」


「イチコロだなんてそんな。私なんかより、」


 由香は言葉を詰まらせる。彼女をなんと呼べばいいか分からなかった。口ごもる由香を見て、彼女は何かに気づいたようにハッとした表情をした。 


「ごめん、名前知らないよね。私、西にしね」


「西さんの方が大人っぽいし…… 綺麗だし」


「そりゃ、私、君より大人だもん」


 当たり前でしょ、と軽くあしらわれる。


「悩む必要なんかないのにね。大人になって思うよ、もっと素直に恋をすべきだったって」


 彼女が、チカチカと点滅する街頭を見つめた。ぼやっとしたその光にあてられ、その綺麗な肌がうっすらと赤く色づく。


 大人になれば、今の自分の悩みなど、悩む必要のなかった簡単なものになるのだろうか。恋も受験も友人関係も、正解などないように思えるものの正解を、大人たちはみんな分かっているに違いない。


 頬にかかった髪を耳に掛けて、「それに、」と彼女が続けた。


「そんな真っ直ぐな恋が出来るのは、今だけだよ。大人になったら、仕事やなんだで忙しいんだから」


 どうしてか、寂しさに似た感情が由香の胸の中にシミのように広がった。大人になることが無性に切なく思える。このシミは簡単には乾かないだろうな、と由香は腿の上で手を強く握りしめた。


「でも、今は悩まなきゃダメよね。それが若いってことだもん。大丈夫。自信持って。まずは、会わないと何も始まらないから」


 彼女は、弾みをつけるように由香の肩をぽんと叩いて立ちあがった。ロングコートに風が入り込み膨らむ。タイトなパンツに絞められた細い足が顕になった。女性らしい体のラインが強調されたその姿に、由香は思わず見入ってしまう。


「応援してるよ」


 彼女は腕を後ろに回し、少女のような笑みを浮かべた。遠くで踏切の音が響く。通り過ぎる電車の灯りが、彼女の影を色濃くした。


「ありがとうございます。なんか勇気出た気がします」


 由香の感謝に、少しばかり照れながら、彼女は軽く手を振りながら足早に去っていった。


 ――好きなのに会う理由がいるの?


 その言葉が由香の中で何度も繰り返された。もう一度だけ会いたい。次第に自分の気持が素直になっていく。汐織にも言われたように、好きだとはっきりしなくてはいけない。


 自動ドアが開く音が聴こえてきた。そこでふと我に返り、汐織を待たせていたことを思い出す。自転車のスタンドを倒し、慌てて汐織の待つ駅のロータリーへと急いだ。

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