12 本番
拍手に迎え入れられ、奈緒美は舞台の中央へと向かった。客に背を向けて、一段小高い指揮台に登る。由香は、手前にあるピアノの前に立つと、客席の方に目をやった。
体育館は千人ほどの人でいっぱいになっていた。鳴り止まぬ拍手が、舞台上を包み込む。
扇形に並んだクラスメイトとアイコンタクトを取ると、奈緒美は客席の方を向いた。彼女が深く頭を下げと、それを合図に全員がお辞儀をする。
大きく揺れるポニーテールがこちらの方を向いた。それを機に、拍手は次第に鳴り止んでいく。
静まる会場に、緊張感が張り詰めた。由香は、ピアノに腰掛け奈緒美に目を合わせる。彼女の手が少し震えているのが分かった。指揮棒が、その震えをしっかり由香に知らせる。強張った額にひとしずく汗が光ったのが見えた。
それを拭うことなく、奈緒美が辺りを見渡す。深く繰り返していた呼吸が止まると、ギュッと指揮棒の先の揺れが止まった。由香の視線がその瞬間を逃さないように、すっと上へと向けられる。次の瞬間、奈緒美の頭ほどまで上がった腕が一気に振り下ろされた。
それに合わせて由香が鍵盤を弾く。柔らかい音色が、体育館いっぱいに響いていく。舞台上から体育館の一番うしろまで、包込むようなその柔いメロディラインを、由香は駆け抜ける。そのピアノにクラスメイトの歌声が重なった。
奈緒美の指揮と、重なり合うクラスメイトの歌声に集中する。合唱コンクール優勝だと言っても、あくまでずぶの素人だ。次第に、奈緒美の指揮もクラスメイトの歌声もわずかにテンポが乱れていく。そのわずかな乱れを、由香は修正していく。違和感のないように、一音一音を確かに、まるでジャズピアノのような遊び心、それでも美しいメロディーを壊さない程度の最小限のアドリブを挟んでいく。
途中から、クラスメイトや奈緒美の表情を見る余裕が出てきた。奈緒美は、まだ緊張しているようで、必死にクラスのみんなの顔を見回している。前列で楽しそうに歌っているのは、汐織だ。
緊張など微塵も感じない。随分、肝が据わっているようだ。由香と目があっていることに気づくと、ニタっと口角を上げた。その様子があまりに子どものお遊戯会のようで口端が緩む。幼稚園の先生はこんな気持なのかも知れない。そう感じさせてしまう彼女の見た目の幼さは恐ろしいものがあるな、と由香は微笑んだ。
楽しい。由香は、そう感じていた。ただ、その気持だけで楽譜が進んでいく。音符から音符へと、愉快な音の架け橋を駆け足で下っていく。踊り出したくなる楽しげなリズム。少女がダンスホールで勇気を振り絞り男の子を誘う、そんな場面が思い浮かぶ。
終わりに近づくに連れて、由香の気持ちが伝わったのか、クラスメイトの歌声も弾んでいるようだった。
由香がピアノを弾き終えた瞬間、割れんばかりの歓声が波のように押し寄せた。驚いた奈緒美が目を丸くする。由香は、じっと奈緒美を見つめた。その目が合った瞬間を互いが分かりあったように笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、また同時に肩をすくめる。視線の先には、嬉しそうにはしゃぐ汐織の姿があった。
余韻に浸っていた彼女は、思い出したかのように客席の方を振り返った。拍手を浴びながら彼女は頭を下げる。
『三年二組による合唱でした』
アナウンスが流れ、由香たちはステージをあとにする。舞台裏では、自分たちの出来に満足した生徒たちが互いに賞賛の声を上げていた。
「良かったわ。みんな」
舞台袖で聴いていた美久は、よほど感動したのか、どこか涙まじりに輪の中へと入ってきた。
「先生、なんで泣いてんの」
辺りから、微笑ましいやじが飛ぶ。
「もう、みんながええ歌うたうからやん」
普段は、あまり出さない滋賀なまりの関西弁が出てしまっているあたり、本当に胸を打つものがあったらしい。輪の中心で、美久は生徒にもみくちゃにされていた。
「由香ちゃん、楽しかったなぁ」
横から袖を引かれ、由香が振り向くと、汐織が満足げに小さな胸を張っていた。
「汐織、楽しそうだったね」
「めっちゃくちゃ楽しかった。由香ちゃんもピアノめっちゃ良かったで。またやりたわぁ」
由香の手を握り、汐織は小さく跳ねてみせた。狭く感じる舞台裏も、彼女にとっては問題ないようだ。
「そうかな、ありがとう。でも、またはないんじゃないかな」
もうそれくらい楽しかったってことやん、と汐織は冗談の通じなかった由香に対し、頬を膨れさせる。
「でも、始まる前、緊張してそうやったから心配したけど、本番始まったら由香ちゃん完璧やったもん」
汐織の言う通り、自分でも驚くほど満足できる演奏だった。音楽の楽しさ、ピアノを弾く喜び、溢れ出てくる感情のやり場が分からず、照れながらも由香は思わず汐織を抱きしめた。
「え、由香ちゃん積極的!」
珍しく汐織が照れた。小さな体の汐織は、ちょうどいい感じの抱きまくらのようで気持ちがよかった。
「みんなの歌のおかげだよ。こんなに、楽しくピアノを弾けたのは久しぶり」
クラスメイトや汐織、指導してくれた颯、それに奈緒美の指揮のおかげだ。この演奏は、たくさんの助けがあって成り立ったのだ。
そんなことを思うと同時に、由香は思い出したように奈緒美の姿を探した。辺りに目をやる。彼女は、歓喜の輪を俯瞰するように、舞台に繋がる階段に腰掛けていた。スカートを気にすることなく、一人少し高い場所にいて温かい目を浮かべる。
由香の視線に気づいたのか、彼女の瞳がこちらに動いた。お疲れ様、と言いたげに口端をわずかに上げ、小さく首を傾ける。ポニーテールが、ゆらゆらと愉快げなリズムを奏でた。
そんな奈緒美を見て、由香の胸の中で、そわそわと感情が揺れ動いた。衝動的なものだった。喉の奥で声帯がキュッと下がっていく。腹の奥底からこみ上げてくる熱い何かが、食道を通って枯れた喉を刺激した。由香の口が自然にすっと開く。
「みんなそれじゃ、いったん教室にもどるわよ」
由香が声を出した瞬間、その声は美久の言葉にかき消された。なんと言いたかったのか、自分でも分からない。その瞬間、ただ何かを伝えたかった。
目が合っていた奈緒美が、不思議そうに首をひねる。慌てて言葉を拾おうとするが、さっきの自分が何を伝えたかったのか、由香にはもう分からなかった。
「由香ちゃん?」
腕の中の汐織が、心配そうに由香の顔を見上げた。その綺麗なアーモンド形に縁取られた瞳には、随分と情けない表情の自分が写っていた。
「ごめん、ごめん。なんでもないよ」
汐織の表情が、ぐっと曇る。つぶらなその瞳の奥で、不安げな自分の感情が読まれているのではないかと、由香の胸が強く引き締まった。それでも彼女の目は、次第に細く皺を寄せた。由香の視線をたどり、奈緒美の姿を見つけたらしく「さぁ、教室に戻ろう」と元気な声を出し、奈緒美の方へと由香の手を引いた。
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