11 舞台袖

 体育館では、違うクラスの劇がクライマックスを迎えていた。壮大なBGMと大げさな演技が舞台裏にまで響く。


「『ロミオとジュリエット』やん。素敵やなぁ」


 少し離れたところで、汐織がうっとりと目で舞台端を見つめていた。別の女子生徒が、頭を撫で、汐織を愛でている。なんとなく嫉妬心を抱きながらも、由香はその光景に口端を緩ませる。


「もうすぐ終演やって。終わり次第、すぐに舞台のセット下ろすらしいから端っこに固まって」


 実行員の生徒と一緒に、奈緒美が舞台裏に集まったクラスメイトに声をかけていた。


 集合時間には、奈緒美はクラスにいた。もしかすると、時間ギリギリに来たのかもしてない。クラスメイトの前では、普段どおり変わらない笑みを浮かべている。由香は、その双眸の奥にどこか切なさを感じた。


 コソコソ、と話し声がざわつく中、奈緒美が軽く二度ほど手を打った。


 「はーい。舞台セットの撤去作業終わったら、すぐ準備するからな。時間大分押してるらしいから、素早く行動してな」


 ほんの少しざわついていたクラスメイトが、スッと奈緒美の方を注目する。前期のクラス委員長だった彼女は、やはり統率力がある。人に指示を出すことに向いた人間。そういう星の元に生まれてきた者がいるのは事実だ、と由香は思っている。

 だからこそ、奈緒美はしっかりとして、大人な人だと思っていた。今、由香の脳内に浮かぶ彼女は、雨の中で鳴き叫ぶ姿だ。


 やがて、舞台の公演が終わり、拍手とともに舞台の照明が落ちた。それを合図に一斉に、舞台端で待機していた生徒たちが舞台に駆け上がり、すぐに大通具を持って舞台裏へ流れてきた。邪魔にならないように、隅へと避ける。


 思ったよりも大掛かりなセットが、人だかりになった狭い通路を通っていく。必死に通路を確保してやろうと、互いを押し合う。由香は、他の生徒に押される形で、奥の方に押し流された。偶然、奈緒美の近くまで来てしまう。ふと、彼女と視線が合った。

 

「おはよう」


 気まずそうな声が由香から漏れた。数人を挟んだ先にいる奈緒美は、窮屈そうな表情を変えず「うん、おはよう」と小さく相槌を打った。


 狭いね、という声が周りから聴こえてくる。ざわざわとした空気が、妙に圧迫した雰囲気を演出した。由香は俯く。薄暗い舞台裏で、誰の足か分からない足たちを見つめた。


「緊張してる?」


 掛けられた声に、由香は少し視線を上げる。豊満な胸が視界に入ってきた。その柔いラインの後ろで、ポニーテールが揺れる。いつの間にか、奈緒美が隣にまで来ていた。由香よりもほんの少し背の高い彼女の顔を見上げる。


 切なさを押し殺した目が、悲しげに由香を見つめる。その薄っすらと涙の膜が貼られた瞳には、気まずさから強張った自分の顔が写っていた。


「大丈夫」


 手にギュッと力を込める。反らした視線が、照明の消えた舞台を見つめた。何人かの生徒が、大きなグランドピアノを舞台上に運んでいるのが見えた。今から、本番だ。そんな、思いがわずかに由香の胸の鼓動を早める。

 

「そっか。成功させような。いっぱい練習したんやろ?」


「へ?」


 思わず出た自分の声に、強張った手からふっと力が抜ける。相変わらずの反応に、奈緒美が少しおどけた表情をして続けた。


「放課後、ピアノ教室で練習してたんやろ? 一生懸命やったなら絶対大丈夫。いきなり頼んだりしたけど、由香なら出来る。頑張ろな」


 奈緒美の表情がわずかに、真面目なものに変わった。ただの文化祭の演目だ。そう言ってしまえばそうなのかもしれない。それでも彼女は、一生懸命に取り組んでいた。おどけたように決めたこのイベントも、クラスを上手くまとめる為のものだったのだろう。


 クラスメイトたちも、合唱コンクール優勝のプライドみたいなものが、少しはばかり芽生えたようで、あちらこちらで頑張ろうと声を掛け合っていた。


 頑張る、そう心の中で呟いて、由香は返事をした。


「うん」


 その反応を見て、奈緒美の表情が少しだけ晴れた。やがて、会場の照明が陰りだす。ざわついていた空気が、緩やかに引き締まっていく。そのタイミングで、体育館にアナウンスが流れた。


『間もなく、合唱コンクール優勝クラス、3年2組によります。合唱です』


 それに合わせて、奈緒美がクラスを先導する。


 

「よし、舞台上がるで、合唱コンクールの時と一緒な。由香とうちは、アナウウンスが流れてから上がるから」


 由香は、奈緒美の言葉に真面目な顔で頷いた。舞台へと上がっていく生徒たちを見送る。よろしく。お願い。何人かの生徒は、伴奏をする由香に軽く声を掛けてくれた。生徒たちが、暗い舞台に綺麗に整列していく。準備が整ったのを確認し、照明が生徒たちを照らした。舞台袖には、奈緒美と由香だけになった。狭かった空間が、異様に広く思える。


「由香の伴奏、久しぶりやな」


 奈緒美は、手に持った指揮棒の先を指の腹で擦る。艷やかな白い光沢が、舞台から漏れた光を反射した。


「え、いつの話?」


「中学の時、一回あったやん。あん時は、合唱コンク―ルやったかな。うちが指揮者したん覚えてない?」


 奈緒美に言われて、なんとなく思い出す。ピアノを辞める直前だった。クラスでピアノを出来る生徒が由香だけで、先生から頼まれていたのだが、舞台に上がるのがなんとなくいやで断っていた。あの時も、結局奈緒美に頼まれて、結果引き受けたのだった。


「あの時、由香めっちゃ緊張してたな」


「そうだったけ?」


「そうそう、緊張しいではあるけど、あんなに緊張した由香見たんは、はじめてやったもん」


 由香は、あの当時のことを思い出す。閉じ込めていた感情が、にじみ出るように沸き上がってきた。


 舞台に上がることの怖さ、人の視線、そういうものが、なぜだか無性に嫌に感じていた。楽しかったものが、苦しみに変わっている。そう気づいた時、無性に悲しくて、やるせなくて、そう思っている自分が腹立たしかった。

 

 手が汗ばんでいることに気づき、由香は慌ててスカートの裾で手にひらを拭う。


「由香、やっぱり緊張してたやん。肩に力入り過ぎやで」


 奈緒美に指摘され、思わず由香の肩がぐっと上がる。力んだせいで筋肉がピンと張り詰め、チクリと痛みを伴う。それを見て、彼女の表情が自然と緩んだ。不思議と場の空気が穏やかなものに変わる。


 クスクス、と声を堪えるように笑い合った。普段どおりの表情で向き合うその奈緒美の瞳からは、すでに切なさが抜け落ちているように思えた。


 きっと今のこの時、この瞬間だけは。と由香は心の中で付け足す。


 小さく揺れるポニーテールが舞台の方を向いた。舞台を見つめる彼女は、どんな表情をしているのだろう。さっきまでの表情がまた曇ってしまっていないだろうか。自分に投げかけた問いに帰ってくるものはない。

 ただ、さっきの彼女の表情が偽りでないものだと願うしかないのだ。文化祭実行委員の生徒によって袖幕が捲られる。静けさを取り戻した舞台裏に、舞台上を照らした照明が差し込んできた。


『曲目は、「ダンシングクイーン」。指揮、日高奈緒美。伴奏、立花由香』


 拍手が起こり、奈緒美がゆっくりと短い階段を登り始めた。それに続くように由香もあとを追いかける。



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