10 絶交

 朝、学校に由香が着くと、すでに辺りは文化祭の活気で満ちていた。プラカードを持った生徒たちが校門の前で、店のキャッチをしている。


 お化け屋敷に喫茶店、メイドカフェや軽音部のライブなど、クラスや部活動が思い思いの出し物を催している。

 

 その盛り上がりに由香が竦んでいると、後ろから、ぽんと背中を叩かれた。

 

「由香ちゃん、おはよう」


 振り返れば、小さな体を目一杯伸ばして、元気に敬礼をしている汐織が立っていた。彼女のその元気と勢いは、文化祭の活気にも負けないものがある。


「おはよう」


「文化祭、楽しみやなぁ」


「あはは、そうだね」


「ん? ピアノの演奏大丈夫? 緊張してない?」

 

「思ったより平気だよ」


 グッ、と眉間に皺を寄せた汐織の表情からは、心配というよりもワクワクしか読み取れなかったが、彼女の心配してくれているというのは恐らく本心だ。


「うちらの本番の時間までは、まだまだ結構時間あるし色々回ろう。一緒に回ってええやんな?」


 汐織がどことなく心配そうに、由香の顔を眺める。そんなことを心配するんだ、と思いつつ「もちろん」と由香は返事をした。


 やった、と汐織は嬉しそうにはしゃぐ。こうしていると、まるで妹を持ったような気持ちになる。


 飛び跳ねた華奢な体から、ジャラジャラ、とストラップの金属がこすれる音がした。よく見ると、随分制服を着崩している。普段は、制服をちゃんと着こなしている彼女だが、文化祭というお祭りムードに合わせているのかもしれない。


「大丈夫それ? 先生に怒られない?」


 膝下ほどに長くなった冬服のスカートを由香は指さした。


「普段からこれくらいしてる子はしてるやん? 文化祭なんやし、なんも言われへんって」


 普段は行儀のいい汐織だが、こういう時には妙に積極的だ。ニタニタ、と口端を釣り上げながら、汐織はおもむろに足元を指さし、学校指定でないスニーカーを由香に見せつけた。


「早く上履きに履き替えようね。流石に、それは怒られそう」

 

 どうやら由香の言い分には、彼女も同意見のようで、カバンから袋に入ったローファーを取り出した。


「一応、持ってきてるんだ」


「怒られて靴取り上げられた大変やもん」


 裸足はさすがに嫌だ。と汐織が膨れる。流石に靴は没収されないんじゃないか、と思いつつ、由香は靴箱から上履きを取り出す。


「どこいこうか? 色々あるね」


 由香は、校門の前で配られていたパンフレットに目を通す。キャッチをしていた数よりも随分多くの店があった。


「見て由香ちゃん、この絵のクレープが美味しそうや」


 パンフレットを見ながら、汐織が舌鼓を打つ。


「絵だからね。そのまんまは出てこないんじゃないかな? でもクレープ食べたいね」


「かき氷も、たい焼きもベビーカステラも食べたいな。あ、でもたこせんも食べたい!」

 

「たこせんって何?」


「え? 由香ちゃんたこせん知らんの?」


 汐織は、くりっとしたその小さな双眸を大きく見開いた。


「た、蛸のせんべい?」


「もう、どこの女子高生が、ただの蛸のせんべい食べんの」


 汐織は、小顔をぷくっと膨らませる。赤くなってるあたりがタコみたいで可愛いな、と由香は思った。そんなことを言えば、きっとさらに膨れるだろうから、出ていきかけた言葉をグッと堪える。でも、ただの蛸のせんべいは、確かに食べたいとは思わない。


「あんな。たこせんっていうのは、薄い海老せんべいの上に、たこ焼きを乗せてソースと青のりを振って、また海老せんべいでサンドイッチする食べものやで。よく、お祭りの出店とかで置いてるやろ」


 パンフレットに描かれていた小さなたこせんの絵を指差しながら、汐織が力説する。


「東京には、なかったかなぁ」


「えーそうなん。って、由香ちゃんこっち来て何年よ?」


「七年です」


 由香は、申し訳なさそうに口ごもる。人混みが苦手なので大きなお祭りには、あまり積極的に出かけて来なかった。関西の文化というものを今更、痛感することもよくある。今のたこせんがいい例だ。


 思えば、汐織がしている長いスカート丈も関西だけだろう。女子高生といえば、スカートを短くするものなのに、こっちではなぜか長くなる。東京では、短いスカートの女子高生をよく見かけた覚えがある。


「美味しいから食べてみて! 半分こすればいっぱい種類を食べれるし」


 たくさん種類を食べたいが本音じゃん。そんなことを言う間もなく、由香は汐織に手を引かれた。パンフレットによると、連れて行かれるのは二年生の教室だ。

 

 ――――――――――



 口の中が焼けるように熱い。ハフハフ、と口内に広がる熱気を逃しながら、由香は慌てて水を流し込んだ。


「美味しいやろ?」


「うん、でも熱いね」


「たこ焼きやもん」


 当たり前やん、と汐織が不思議がる。


 中庭のベンチに腰掛け、二人は買ったたこせんを半分こしていた。


「冷やしたいなら、かき氷食べる?」


 汐織は、緑色のかき氷を口の開いたストローの先端に乗せ、由香の口元へと近づけた。


「寒いからいいよ」


 秋風が、中庭を抜けていく。まだ深い緑を残す木々たちも、山盛りになったかき氷を見て震えているようだった。彼女の顔ほどの高さがある氷の塊を、見ているだけで寒気がする。由香は、夏服の上に羽織ったピンクのカーディガンを抑え込んだ。


「でも今日は、小春日和やん」


 確かに、日差しが差し込めば、ウトウトしてしまうような天候である。ポカポカ、とした陽の温もりが肌に纏う。その温もりは、乾いた風が吹くたびに剥がされてしまった。だからあの量のかき氷を、頬張れば体はすぐに冷え切ってしまうだろう。


「そう言えば、奈緒美ちゃん見かけんな」


 汐織が放ったその名前に、由香は胸がドキっとした。


「そうだね」


 少し声が上ずる。誤魔化すように、もう大して熱くないたこせんに苦戦するフリをした。


「思ってたんやけど。最近、奈緒美ちゃんって、由香ちゃん…… 。ううん、うちらのことなんとなく避けてない?」


 汐織から出た問いかけがあまりに明確だったからか、由香は思わず手の力が抜けた。支えを失ったたこせんの端から、たこ焼きが一つ地面にこぼれ落ちた。由香は慌てて手を差し伸べたが、ピチャ、と生々しい音を立てたこ焼きは形を崩した。


 由香は、じっと地面に散乱したドロドロのたこ焼きを見つめた。返事を待っているのか、汐織は何も話さなかった。


「どうなんだろう?」


 心の中で渦巻いた感情が口から溢れるようだった。吐き出された言葉は、あまりに精気がなく、秋の風に拐われた。辺りの木々が、ガサガサとこすれる音を出し、その音に合わせるように髪はしなやかになびいた。


 由香から漏れた言葉で、どこか確信めいた汐織が澄んだ声で言った。


「奈緒美ちゃんって、部活引退してからも、ちょちこょこひとりで早く帰ってたやん? やけど、その時は、いつも楽しそうにしてた。でも、ここ最近の奈緒美ちゃんは、寂しそうに一人で帰ってる」


 汐織は、奈緒美のわずかな様子の変化に気づいていた。自分はどうだろう、と由香は自答する。あの時、あの光景を見たからこそ、奈緒美の態度の変化に気がついた。もし、あの場面を見ていなくても、汐織のように自分は気がつけただろうか。不安と疑念、そんなモヤモヤした気持ちが胸の中で風船のように膨れ上がる。


 「汐織は、ちゃんと見てるね」


 寂しげに出た由香の言葉を遮るように、汐織が強い口調で否定した。


 「由香ちゃんも、気づいてるやろ」


 気づいてはいる。それは自分が彼女の修羅場を見たからなのだ。それなのに、助けを求める彼女の声に一度、耳を塞いでしまった。裏切ったのだ。心の中の風船が、パンと弾け飛んだ。押しつぶされそうな罪悪感で目頭が熱くなる。


 「うちは、高校からしか奈緒美ちゃんのことを知らん。奈緒美ちゃんは、部活もしてたし、普段は一緒におっても、学校からの帰りで一緒になることは少なかった。でも、由香ちゃんは、中学校からやろ? きっと奈緒美ちゃん、由香ちゃんに気づいてほしいんとちゃうかな。なんか悩んでるんやと思う。だから……」


 汐織は、言葉をつまらせる。彼女の言いたいことは痛いほど分かる。だからこそ彼女はあの時、助けを求めたのだ。それを自分は。こぼれそうになる涙を懸命にこらえる。指でこすれば、ヒリヒリとした痛みが、薄いまぶたの皮膚を刺激する。


「由香ちゃん、一度、声かけてあげてほしい。もちろん、うちも手助けするから」


 柔らかな瞳が、三日月の形にしぼむ。優しさを最大限に纏ったその笑みに、ただ胸が痛めつけられる。自分は、彼女の力になる資格などないと。


「どうかな。奈緒美って自分で解決出来るんじゃないかな? 少なくとも、私なんかに頼らなくても」


「なんでなん」


 荒らげられた声に由香は驚く。溶け始めていた汐織のかき氷が、がさりと崩れ落ちた。緑色の液体が、コンクリートのヒビに染み込んでいく。


「奈緒美ちゃんは、由香ちゃんが思ってるより強い子とちゃうで」


 その汐織の言葉には、軽蔑的なニュアンスなど微塵も含まれてはいなかった。驚くほど、温もりに包まれたその言葉は、奈緒美という人間の本質を素直に見抜いているようだった。


「由香ちゃんは、ちゃんと感じてるんやろ? 奈緒美ちゃんの気持ち」


 小さな彼女の顔の輪郭に沿うように伸びたサラサラとした長い髪が、わずかに揺らぐ。少しだけ前かがみになった彼女の顔が由香に近づく。透明感のある肌には、愛らしい程度にそばかすが散らばっていた。


 汐織の言う通りだ。どういうわけであれ、奈緒美の気持ちに気づいている。それは揺るがない事実なのだ。


「うん。でも、今はまだ……」


 うごめく心の中は、無秩序で整理がつかない。何が正解かも、どう声をかけるべきなのかもわからない。そんな中で、奈緒美と話すのがとても怖かった。


「そっか。でも、ゆっくりでいいと思うで。だって、絶交したわけとちゃうし」


 絶交、そんな中学生じみた言葉が出てきたことに、由香は思わず笑みがこぼれる。それを察してか、汐織もイタズラに微笑んでみせた。


「そうだね。絶交なんかしてないしね」


 妙な安心感が、胸の中の混沌をわずかに綺麗にしてくれた。きっと、奈緒美自身も、まだ自分の中で答えを探しているのだ。彼女とちゃんと向かい合える時まで、この心の整理をしなくてはいけない。由香は、そう自身に言い聞かせた。


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