9 デート

「元気がないね」


 颯が由香の演奏を止めた。わずかな残響が、ピアノの中で鳴り響いた。


 くだんの修羅場を見てから、一週間ほどが経った。学校では中間試験が始まり、来週に迫った文化祭の準備も大詰めを迎えている。そんなテストの最終日だった今日は、昼過ぎから颯にレッスンをつけてもらっていた。


 あれから奈緒美とあまりうまく話せていない。テスト期間中は、学校が早く終わる上に、試験勉強のために真っ直ぐ帰るからとはいえ、奈緒美になんとなく避けられている気がした。部活をやっていた時やここ最近の早く帰っていたそれとは、少し毛並みが違っていた。


「やっぱり私ってわかりやすいですか?」


 また見抜かれた心情は、隠していたわけではない。ただ、こうも簡単に言い当てられることに由香は思わず眉を潜める。

 

「そうだね。演奏には出ちゃってるかな」

 

 颯は由香の表情を見ると、口端を緩めた。納得出来ていない由香に対して、颯は続ける。


「いい演奏者は、自らの気持ちを鍵盤に伝えること出来る。単なる技術だけで弾いていないんだ。だから、お客さんを感動させられるし、その演奏に魅了される。由香ちゃんは、しっかり素直な感情をピアノに乗せれているよ」


 屈託のない笑みに見つめられ、由香は少しばかり照れた。ただ、懐疑しなければいけないことがある。


「つまりは、感情をコントロール出来てないってことですよね。上手ければ、技術で自分の感情をコントロール出来るんでしょ。結局、私はわかりやすいってことじゃないですか」


 猫のように悪戯に拗ねた表情が、グランドピアノの光沢に映り込む。自分を女の子らしい動きにしているのは、紛れもない彼の存在だった。


「褒めたつもりだったんだけどね」


「褒められてる気がしません」


 ふん、と自分で効果音を放ちながら、由香は明後日の方を向いた。窓の外では、街路樹のイチョウが色づき始めていた。少し強めの風が、黄色と緑のコントラストを揺らす。飛ばされまいと粘る枯れ葉の横で、生き生きとした緑の葉が陽の光を目一杯吸い込んでいた。


「なにかあったの?」


 颯の問いに、由香は窓の方を向いたまま小さく頷いた。


 そうか、と呟き、颯はもう一つの椅子に腰掛けた。少し離れた颯の方へと、由香は視線を向ける。話してごらん、と言いたげに彼は表情を緩めた。唇を一度、強く噛み締めると、ほんのりと血の味が口の中に滲んだ。


「友達とちょっと気まずくて、どうしたらいいか分からないっていうか」


 正直にすべてを話せなかった。ぼんやりとした説明で、彼にどう伝わっただろうか。落とした視線の先に、白と黒の鍵盤が並ぶ。この鍵盤のように物事をはっきりできればどれだけ楽だろう。


「ちゃんと話すべきじゃないかな。相手がどう思ってるのか、どうしたいのか。それから立花さんがどうしたいのか。どう思ってるのか。言わなきゃ伝わらないよ」


 ちゃんと話すべき。分かっている言葉を何度も頭の中で復唱した。そして、それがどれだけ難しいことなのか。奈緒美になんと言えばいい? どう伝えればいい? 彼女はどう思うだろう。そして、自分はどう思っているのだろう、どうしたいのだろう? そんな自問自答をただ意味もなく繰り返す。


「相手が知られたくないことを知ってしまったんです。それで私の方が気まずくなって。助けてほしそうにしてたのに、目を瞑ってしまって……」


 奈緒美の出したはっきりとした救難信号を、気づかないフリをした自分をひどく軽蔑する。自分だけが彼とこうして会っているという後ろめたさが、由香の判断を渋った。そんな言い訳にならない言葉を、心の中で並べるたび、ひどく悲しくなる。


「少し、気分転換しようか。お茶でもどう?」


 椅子に掛けられた薄手のアウターを手に取り、颯が扉の方を指さした。急な誘いに由香は驚く。それでもすぐに頬を緩めた。彼の優しさが無性に嬉しかった。


「はい」

 

 声が弾む。颯とピアノ教室以外の場所に出向くのは初めてだ。これは、まさかデートなのでは? ほんの少し胸の鼓動が早まる。

 


 期待していたデートへの道中は、ものの五分で終了した。阪急伊丹駅前の大型チェーンのコーヒーショップに二人は入っていく。


 カウンターで颯が難解な注文をした。呪文のようなそのメニューを、言い慣れている様子からするに頻繁に来ているらしい。由香は、「キャラメルマキアート」と目についた読みやすいものを注文した。


 愛想のいい女性の店員から、商品を受取って、窓際の席に向い合せで腰掛ける。すぐ近くの自動ドアが開くたび、秋の訪れを感じさせる少し冷たい風が足元に流れた。思わず、由香は白いカップに手を添える。カウンターで受け取ったときには、熱すぎると感じたその温度も、すでに心地よいものとなっていた。


「今日は寒いね」


 颯は、どんな味なのか想像もつかないその飲み物を口に運びながら呟く。


「十一月並の気温だって、昨日、天気予報で言ってましたよ」


 由香はカップに何度か息を吹きかけ、温かなキャラメルを口に含んだ。

 

「そういえば、」


 由香は、思い出したように口を開いた。吐息に甘ったるいキャラメルの風味が混ざる。


「なんで、私の名前知っていたんですか? ずっと気になっていたんです。初めてピアノを教わった時、自己紹介してないはずなのに、颯くん、立花さんって言いましたよね?」


 そのことか、と颯は珍しく恥ずかしげに頬を緩ませる。

 

「言わなきゃと思ってたんだけど、」


 そう言いながら、颯は肩に掛けた小さなカバンから一枚のCDを取り出した。


「このCDを聴いたんだ」


 そのCDのジャケットを由香はどこか見覚えがあった。薄紙に描かれた手書きのデザイン。遠い記憶を手繰り寄せる。

 東京のピアノ教室にいた時、コンクールで賞を貰い出した頃に録音したものだ。当時は小学生、ピアノ教室の生徒で発表会を開いた。その記念にと、当日の様子を録音したものを作ったはず。


「演奏を聞いてすぐに分かったよ。君がこのCDで演奏している子だって」


「それでピアノを教えてくれたんですか?」


「もちろん、文化祭で頑張ってるって聞いたからだよ」


 颯は、大事そうにCDをカバンの中にしまった。無数のトラックがある中で、どうして自分の演奏に彼が気づいたのだろう。それ以上に、気になることはたくさんあった。

 

「なんでそのCDを持ってたんですか?」


「宮本先生に貰ったんだ」


 由香の頭上に疑問符が踊った。どうして、宮本先生がそのCDを持っていたのだろう。そもそもそのCDは、当時の生徒と関係者にだけ配られたはず。


 由香の心の中で呟いた疑問に答えるように颯が続けた。


「宮本先生のところの教室が、あの発表会に携わってたんだ。それで、由香ちゃんが伊丹の教室に入会するとなった時に、実力を計る為にこのCDが必要だったらしい。僕が貰ったのは最近なんだけど」


 自分の知らないところで自分の演奏がそんな風に聞かれていたと知り、由香は恥ずかしくなった。そもそも、どうして彼はこのCDを貰ったのか。きっかけも無しにいきなりあのCDを貰うはずはない。そんな由香の疑問を余所に彼は話を進める。


「このCDの由香ちゃんすごくいい演奏だよ。でもCDを貰った時、すでにピアノをやめたって聞いて……」


 颯は、どことなく寂しそうな表情を浮かべた。細い指に握られたプラスチック製のマドラーが、くるくるとコーヒーに渦巻きを作る。まるでうごめく感情が混ざり合っているようだった。


 「どうしてピアノやめたの?」


 確信めいた颯の言葉に、由香は口を噤んだ。せめているわけではない彼の優しい目が、由香の泳ぐ瞳を見つめる。


 「覚えてないんです、」


 やっとの思いで由香は口を開く。


 「どうしてだったんだろうってたまに考えるんですけど、何が辛かったのか、何が嫌だったのか、自分でも分からないんです。でも、あんなに楽しくて大好きだったはずのピアノが嫌になったというのは事実で……」

 

 ほんの少し視界が滲んだ。あの当時のことを思い出そうとすると、痛くないはずの胸が痛む気がする。その痛みを隠すように、口の中にキャラメルを流し込んだ。甘い匂いが鼻から抜けていく。どうしようもない痛みは、ほんの少しだけ和らいだ。

 

 彼の指を離れたマドラーが、渦巻きの勢いに負け、コツンと逆方向へと傾く。それを黙ったまま見つめていると、時間がだけが静かに流れていった。


 

「今は?」


 静寂を割いたのは颯だった。驚くほど、優しい声で由香に語りかける。

 

「え?」


 何を聞かれているのか瞬時に理解できなかった。颯の大きな眼が由香を見つめる。よく見れば女性のように綺麗なまつ毛がその輪郭を彩っていた。

 

「今は楽しい?」


 颯は、もう一度問いかけた。先程より一層優しい声が由香の鼓膜を刺激する。

 

「はい。どうしてピアノをやめたのか、不思議に思うくらい」


 由香の口角がゆっくり上がっていった。照れを含んだ赤い頬は、店内の暖房のせいに出来るくらい穏やかなものだった。

 

「それじゃ、来週の文化祭、由香ちゃんの演奏を見に行くね」

 

「え? 来るんですか?」


 ドンっ。驚きのあまり机に足をぶつけた。大きく揺れたせいで、キャラメルが少しこぼれてしまう。

 

「ダメかな?」


 颯は、紙ナプキンでこぼれたキャラメルを拭きながら、わざとらしく寂しい顔をする。

 

「ダメじゃないですけど、緊張するといいますか」


 それ以上に、汐織に見られでもしたら大騒ぎになるのは明白だ。そんなことが気がかりだったが、見に来てくれると言ってくれたことが信じられないくらい嬉しかった。

 

「緊張はしなくちゃね。いい緊張はいい演奏につながるよ」

 

「緊張で弾けなくなっちゃうかも」


 由香は、イタズラに微笑む。自分の笑顔は幸せが溢れ出している気がした。


「ダメと言われても行くかもしれない」


 颯の笑顔に結局、丸め込まれた。できるだけ頑張って汐織には気づかれないようにしなくては。由香は、そう心に誓うと同時に、奈緒美のことが頭を過った。


 木漏れ日が差し込むカフェテリアで、自分だけがこうして男子と話していいのだろうか。妙な罪悪感が由佳を責める。脳裏に浮かんだ奈緒美の表情は、予備校で見た悲しげなものだった。


 そんなことを考えながら、ぬるいキャラメルマキアートを由香は口に含んだ。

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