8 救難信号

「おはよう」


 翌日の予備校。席に座り予習をこなしていた奈緒美に、由香は恐る恐る声をかけた。


「おはよう」


「席取っといたで」


 隣の席に置かれたカバンをどけながら、いつも通りの笑顔を奈緒美は浮かべる。


「どうしたん? 座らんの?」


「あ、ありがとう」


 一体なんと声をかければいいのか。由香は席に座ると、ホワイトボードを見つめた。少し赤と黒のかすれた汚れが目立つ白い板には、青いマジックで予習の参考書とページ数が書かれていた。


 昨晩、何度も書き直したメール。結局、送信ボタンは押せなかった。何を綴ろうとも、自分に言ってやれることなどないように思えたからだ。昨日、あの雨の中、あの場所で見た光景は一体何だったのだろう。脳内で奈緒美の泣く声が擦り切れるほど繰り返された。

 たった一晩で、昨日見たはずの記憶の輪郭が簡単に崩れていく。それが本当に彼女だったのか、はたまた夢だったのではないかと思えるくらい、横にいる彼女は平然としていた。


「ここどう思う?」


「へ?」


 奈緒美が机に広げたノートを指さして、こちらの方を向いていた。由香の例の声を聞いて、呆れた様子で眉を上げる。


「またぼーっとしてた? 『ヘっ』って言う癖、かわいいけど気をつけんとアホみたいやで?」


「アホとは、失敬な」


 分かってはいるものの、出るときは無自覚なのだ。仕方ないではないか。


「ここって、この説明であってるんかな?」


 奈緒美のノートには、政経のセンター入試を改題した問題の回答が書かれ、自身の回答の疑心点にチェックをつけるように赤いラインが引かれていた。


「うーん、少しだけニュアンスが違う気がするけど、部分点はある程度もらえるんじゃない? って、もしかして、ここって今日、予習してくるところ?」


「由香やってないん?」


 奈緒美の指が、今度はホワイトボードに向けられた。


「うわ、ページ間違えてる」


 自分のノートを開きうろたえる。昨晩、頭がぐちゃぐちゃの状態でやったせいだ。


「しゃーないな。私の写さしたるわ。特別やで」


 そう言いながら、奈緒美は優越そうに笑みを浮かべた。由香は、奈緒美のノートを手でたぐり寄せる。その瞬間、視界の端でほんの少し、彼女の顔が曇った。いや、曇った気がした。思わず、ノートを掴んだ手が止まる。気づかれたか、気づかれないか微妙なほんの刹那の間で、由香の手は再び動き出した。


「あと、十分で先生来るから急ぎや」


「う、うん」


 綺麗に、罫線に沿って並んだ奈緒美の字を見つめる。少し丸みのある字は、女の子らしい可愛い字だ。由香は、その字を自分のノートに書き写していく。脳裏には、ほんのさっきに見た悲壮感を宿した奈緒美の表情がこびりついていた。

 その彼女の表情で、昨晩の出来事が事実だったんだ、と由香は再認識した。思わず、ペンを握る手に力がはいる。無理に押されたペン先は簡単に折れてしまった。


「なぁ、授業のあと、一緒にごはんいかん? なんか遊びたい気分やねん。そうや、汐織も誘って甘いもんとかどう? 最近、誘われても一緒に行かれんかったしなぁ、汐織も行きたがってるんちゃう?」


 きっとこれは、彼女の精一杯のSOSだ。由香にはそれがはっきりと分かった。いつもの真っ直ぐな瞳が、わずかな弱気で霞んで見えた。『助けて』そう書かれた双眸が由香をじっと見つめる。


 由香は言葉をつまらせた。うん、と頷けばいい。きっと彼女は、自ら昨日のことを言おうだなんて思ってはいないはず。ただ友人と過ごして気を紛らわせたいだけなのだ。だから、あそこに居合わせたなんて言わなくてもいい……。


 それでも由香は、そんな簡単な二文字が出てこない。


「…… ごめん。ピアノ教室。この後、借りちゃってるから」


 昨日、あの場面を見てしまった後ろめたさ。そう言えば聴こえはいい。だが、真実はもっと残酷な感情を含んでいる。


「そっか」


 少し間を持って、奈緒美が首を縦に振った。一度、小さく。それから大きく二回。まるで自分を納得させるようだった。彼女の表情がわずかに陰っていく。それを見ると、口が裂けても、彼にレッスンをつけてもらうんだ、なんて言えなかった。


 裏切り。そんな言葉が由香の頭の中で渦を巻く。救難信号を出していることに気づきながら手を差し伸べることをしない。自分は、彼女の友人なのではないか? 彼とピアノを弾くことの方が重要なのか? そう何度も心の中で自分を言い聞かせる。どうしても頷くことができなかった。


 彼女は、いったいどこまで気づいているだろうか。ピアノ教室で彼にレッスンをして貰っている、それが分かればどう思うのだろう。考えるだけで、喉の奥あたりが痛みだす。


 ただ、サインに気づいていない、そう思ってくれていてほしいと由香は願った。それでも、自らの平然とした裏切りを、由香は正当化など出来ない。


 胸の中にごちゃごちゃした痛みが走る。締め付けられる痛みに耐えられず、「ちょっとトイレ」とその場から逃げ出した。

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