7 雨
昼間の晴天が嘘のように、バイトが終わる直前から、ポツポツと雨が降り出した。紺色の制服のリボンを正し、ピンクの折りたたみ傘を広げる。由香は、止みそうにない空をじっと眺めながら、一人バイト先をあとにした。
薄暗い帰り道、できたての水たまりをローファーで弾きながら、昼間の合唱を思い出す。
あの後、何度か繰り返したが、弾くたびに感覚が戻っていくのがよくわかった。鍵盤に触れる指の感触がどんどんと心地のよいものになっている。何より弾いているのが楽しかった。そんな懐かしい感動に、由香は胸を弾ませた。
土曜日の予備校終わりには、また彼にレッスンをつけてもらう約束もしている。濡れたてのアスファルトからは、ほんのり雨の匂いが漂っていた。深く吸い込めば、そのペトリコールが肺いっぱいに広がる。熱せられたアスファルトから発せられる、どことなく切なさを含んだその匂いとは裏腹に、彼と会える明日が楽しみで仕方なかった。
大通りに出ると、赤いテールランプが長い列をなしていた。小さく細かい雨粒が、赤いランプの光を反射する。排気ガスが、アスファルトから発せられるそれと混じり、鼻につくいやな匂いとなって、由香の喉の奥を刺激した。
整備された幹線道路は、いつも妙な寂しさを街に演出している気がする。作られた美しさ、生活感のないその素っ気ない風景を、由香はどうも好きになれなかった。
人通りのない横断歩道に寂寥が渦巻く。まばゆくへッドライトが照らすその渦中の白線を、由香は黙ったまま横切っていった。痛いくらいに眩しい光が、由香の頬を叩く。胸の中に、煩わしい痛みを感じる。そのせいで、明るかった心がどんよりと雲で覆われてしまう。
街全体を包み込む雨のように、そんな感情が街に降り注いでいるように感じた。信号が、チカチカと点滅する。それを見て、由香はその足を早めた。意味もなく急かされることが忌々しい。緑から赤へと、点滅の色が移り変わっていく。長く続いている列の前方から、テールランプの赤色が消えていった。鈍かった車たちが、連動するように動き出した。
ゆっくりと滑り出す車の川の流れを、均等に並んだ街頭が照らす。そんな退屈な光景から目をそらすと、縁石の隅で細かい網目の側溝にゴミが堆積していた。そのせいで大げさに溜まった水が雨粒に弾け波紋を作る。それは、まるで音の波長のように緩やかに揺れていた。遠くでクラクションの音が響く。由香は、思わず振り返った。
「なんでなん?」
甲高いブレーキ音と共に、聞き慣れた声が響いた。怒鳴るような激しいその声の主を由香ははっきりと認識する。
数十メートル先にある灯りの消えた『つかしん』の入り口付近から聞こえたその声は、雨を弾く由香の傘の中を何度も反響した。
一台のバイクが停まっていた。そのバイクを挟むように、二人の人影が見える。由香は、とっさに駐輪所の屋根の柱の影に身を隠した。剥げた白い柱に、茶色いサビが付着している。出来るだけ汚れないように、傘を閉じ柱に身を寄せた。
近づいてはじめて、激しく言い合いをするその声のもう片方が男であると分かった。吐き捨てられる男女の言葉のやり取りを、由香は身を屈め、黙って耳を傾ける。
「もうええやん。帰ってええ?」
「ええわけないやん? 昨日の女だれなんよ?」
「あぁ、うっざ」
「うざいってなんなん? ここにきて開き直り?」
「開き直りもクソもないやろ?」
「開き直りやん。浮気して謝りもせえへんなんて」
「せやから、もう関係ないやろ」
「関係ないわけないやん? うち、あんたの彼女やで?」
「それはさっきまでのことやろ? 今まさに、別れ話してるんやで? アホなんちゃう自分?」
「アホってどういうこと」
「そういううざいところや。アホ通り越してキモいわ」
「うちは、真面目に話してるんやで、ふざけんといて」
「は? ふざけとんのは、そっちやろ? ほんまめっちうざいわ」
「なんでそんなこと言うの」
「あーもうええわ」
「だからなんでなん」
「せやからぁ。毎日メールしろだの、電話で話したいだの、めんどくさいねん。昼飯も、毎日、朝弁当作って来るし。束縛しすぎ、マジもう無理やわ」
「なんでやの。それはあんたのことが好きやからやん」
「うっざ、って何回いわせんの? あーだる。もう行くわ、二度と連絡してくんなよ」
低く鈍い振動音が地面を伝う。バイクのエンジンが、由香の足元をわずかに揺らした。
「待ってって。話し聞いてえや、そうやもう一回話し合おうや。なぁ、きっと分かるから」
女性が男性を呼び止める声が、甲高くやたらと耳に響いた。それに対し男性は、何も言うことはなかった。
すぐにバイクの音が遠くへと消えて行った。その音が遠ざかるに連れ、代わりに女性のすすり泣く声がその場に響く。嗚咽混じりの声が、駐輪所の屋根を経て、由香の耳に伝わった。
由香は、唇を噛み締めた。傘の柄を肩に掛け、制服の裾を両手でぎゅっと握りしめる。やりきれない思いを、身を抱えながら感じる。どうして雨は、この泣き声をかき消してはくれないのだろう。
濡れた傘が腿を濡らした。冷たくジメッとした、嫌な感触が肌を伝う。それからしばらくして、その泣き声も遠くへと離れていった。
由香は入り口の方を覗いた。閉店中と書かれた看板がひとつ、開きもしない自動ドアの前を塞いでいた。
女性が去っていった方を見つめながら、由香は雨音にかき消されそうな小さな声でつぶやいた。
「奈緒美……」
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