6 合唱
「ようやくや」
そう言った汐織の鼻息は随分と荒い。本日最後の休憩時間が、もうすぐ終わりを迎えようとしている午後。由香たちは、文化祭で行う合唱の練習の為、音楽室に向かっていた。
「ようやく、由香ちゃんのピアノが聴けるわ。私、めっちゃくちゃ楽しみにしててん。由香ちゃんのピアノが聴きたくて、中間テストの勉強もろくに手につかんくらい!」
中間の勉強はしっかりしてほしい、悪い点を自分のせいにされたらたまったものでない。そんなことを考えながら、由香は苦笑いを浮かべる。
「由香は、ホンマにピアノうまいからなぁ。きっと、汐織驚いちゃうよ?」
奈緒美の表情はいつもと変わらない。ケラケラと軽く微笑を浮かべながら、リノリウムの床を上履きで弾く。
「それどういう意味?」
「そのまんまの意味やけど?」
「じゃあ、からかってるんだ?」
目一杯そっけない色をした目で奈緒美を見つめる。そんな視線を掻い潜るように、奈緒美の目が細む。歩きながら腰を丸め、由香の顔を覗き込んだ。
「期待し過ぎは良くない、って言ってほしかった?」
「ほら、やっぱりからかってるじゃん?」
「ごめん、ごめん」
枯れたその謝罪には、どことなく親しげなニュアンスが混ざっていた。「まぁ由香が上手いのは本心やで」と夏頃よりも少し伸びたポニーテールを揺らしながら、奈緒美はご機嫌に由香たちの先を行く。
「ピアノってええよね」
黒く艶のある汐織の髪が、渡り廊下で風になびいた。彼女の輪郭に沿うように伸びた長い髪が翻る。顕になった小さな顔は、真綿のように白く透明感があり、少し湿気を帯びた秋めいた風を受けてしっとりとしていた。
「楽しみにしすぎ」
「そりゃ、楽しみにするで! それに、うちにピアノ弾けるってこと黙ってたんなんてひどいやん」
憤慨した様子で、汐織は片頬を膨らませる。腰に手をやり、そっぽを向いた。
「ごめん、ごめん。高校生になった時にはもうやめてたから……」
華奢な汐織の肩に手をやり、宥めるように由香は顔を近づけた。ふわりと風を纏った髪が、甘い香りを連れる。くるり、と首を回した汐織の瞳は、あまりにも無垢で可憐だった。
「でも、なんで由香ちゃんピアノやめちゃったん?」
「どうしてだろうね」
汐織の顔が曇る。してはいけない質問をした、と自分を詰責しているのかもしれない。
なんとなく肩に置いた手を離すのもはばかられて、腕をグッと伸ばして、ふと空を見た。
水色の絵の具で塗り潰したような空に、薄っすらとスプレーを振りかけたような帯状の雲が走る。遠くに見える白は、深いコントラストを描きながら濃い灰色へとその色を変えていた。
―――――――――――
「はーい。みんなこっちに集合して。並び方は、合唱コンク―ルの時と同じ順番でお願いな」
合唱コンク―ルの時、担当だった女子生徒が主導で指示を出し、クラスメイトがピアノの前に並んだ。
「基本的にコンククールでやった時と変わりません。ただ、当日受験で欠席してしまう久慈さんの代わりに、立花さんに伴奏をやってもらえることになりました。立花さん自身、伴奏をするのはすごく久々ということでしっかり合わせていきたいと思います」
はーい。とまばらな返事がところどころから返ってくる。みんな受験勉強や中間の勉強で忙しい。自分のために貴重なホームルームの一時間を使っているのではないか、と由香は申し訳ない気持ちになった。
人前で弾くのは、何年ぶりだろう。汐織を満足させる自信などないし、緊張していないと言えば嘘になる。
ただ、汐織と奈緒美が和ましてくれているおかげか、昨日の颯との練習のおかげなのか、思った以上に心の余裕があった。
「それじゃ、一回通していきます。
担当だった生徒に促され、奈緒美がみんなの前に立つ。その右手には、細い木製の指揮棒が握られていた。
合唱コンクールでも、奈緒美が指揮者をやっていた。特に、音楽経験のない彼女だが、人をまとめ上げることに長けている。指揮者もそつなくこなしていた。
奈緒美が、由香の方に目配する。奈緒美と目が合い、思わず由香の手に力が入った。あっ、と思い、一瞬固まった全身を大きな深呼吸で和らげた。それを見て、奈緒美が腕を振り上げる。
由香は、小さく息を吸い込んだ。奈緒美の腕がわずかに動くその瞬間、肩からぐっと息を吐く。それと同時に鍵盤を弾いた。
奈緒美の拳がぐっと握られた。それに合わせ音楽室は、静かになった。
思ったよりも悪くない。由香は自分の演奏にある程度、手応えを掴んだ。伴奏に対するアドバイスをしてくれた彼のおかげだろう。
「すごくいいじゃない」
生徒用の椅子に座りながら、美久が満足気に拍手をした。確かに先生の言う通り、さすが合唱コンクールで優勝したクラスだ。もとを言うと、音楽教師である美久による特訓のおかげだ。彼女は、音楽教師のプライドからか、コーラス部の顧問の性からか、合唱コンクールにかなり力を注いでいた。
「すごっ、すごい、やっぱりすごいで由香ちゃん! めっちゃくちゃうまいやん」
身長のせいで前列にいた汐織が、いささか興奮気味に言った。
「そんなことないよ」
由香は、ほんの少し照れを浮かべながら、謙虚に否定する。汐織は、鼻息を立てながら、なぜだかどうだと言わんばかりに胸を張っていた。
「ううん。上手だったわ立花さん。こんなに弾けるのに、ピアノやめちゃったなんてもったいない」
生徒全体に向けられていた美久の視線が、由香に向けられた。由香の演奏に驚いたのか、その表情は少しほころんでいた。確か、彼女は音大出身だったはず。音楽の授業で演奏されるピアノは、中々の腕だ。そんな先生に褒められ、由香は非常に嬉しくなった。
「ありがとうございます」
胸の奥がじんわりと温かくなった。随分と懐かしい感情だ。ピアノを始めた頃、上手くいくと先生に褒めてもらえたことを思い出した。練習して褒められ、失敗すればまた練習する。あの頃、ピアノが楽しかった。そして、今、いつぶりかピアノを楽しめている。そんなことが嬉しかったのかもしれない。
「本番もよろしくね。みんなも良かったわ。それに、合唱コンクールの映像が学校のホームページに乗ったらしくて、結構評判いいのよ? お客さんもたくさん入ってくれるかもね。校長先生も、文化祭で歌うのを随分、期待してたから頑張ってね。それじゃもう一回合わせましょう」
褒められたせいか、誰も練習に文句は言わなかった。そればかりか皆が率先して、何度も合唱を重ねた。
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