友情を試されプライドが傷つきまくる愛近初花
日々の訓練は充実していて、どうなることかと不安だった宿舎の生活も部長が心を砕いてくれるおかげで随分過ごしやすいものになった。今も以前ならそろそろ気がかりになって来る時間帯だけれど、隣室は空室になっている。夜はかなり冷え込み始めたこの時期にまさか、とは思うけれどそこは考えないようにして解決している。
不満が残っているとするなら、同居人について。途中参加の二人はともかく鬼教官と完全同室というのは実のところ気が抜けなくて緊張と縁が切れない。
実戦訓練のあとに面談で批評を受ける――というメニューが途中から追加されたけれど、個人的にはそんなものなくても毎晩それが行われている。
「どうしたの愛近。あなた段々動きが悪くなってない?」
ほら来た、と思った。食事も入浴も終わってあとは眠るだけ、というこの時間。当人がこのプレッシャーに無自覚だから
「あのですね、これだけ毎日酷使されていたら疲れも溜まってきますわよ。教官のほうこそ、毎日少しずつ手加減を忘れていらっしゃるんではなくて?」
「それはだって、わざとやってるもの。昨日よりちょっと強く叩いてみよう、ちょっと速く追い回してみようって」
悪びれもせず言うこの顔が憎たらしくてたまらない。どうして連別府さんはこんな人に夢中なのか。
「風呂上がりのストレッチは欠かしてないわよね」
「当たり前でしょう? ワタクシがワタクシの体に優しくしなかったら、どなたが優しくしてくれるっていうのです」
「そうね。だったら私がマッサージしてあげようか」
「ちょっ、触らないでくださいまし!」
「いいからうつ伏せになりなさいって」
訓練のあとで疲れた体では逆らうこともできずに、されるがままに布団に寝そべる。
「割としっかりこういうの勉強したから任せなさい。自分でできるようにだけど、ほとんど手が届かないから使いどころが無かったのよね。やっと役立てられて嬉しいわ」
天才と呼ばれた彼女がどれだけ努力して来たかは伝え聞いている。けっして天賦の才だけではなく身に付けられる技術はすべて身に付け、憶えられる知識はすべて憶えた。三局戦況の新ルールに合わせられなかったのは純粋にその気性によるものだ。それさえ競技中でなければこの通り、体に触れる手つきは優しい。
「……ごめんなさいね」
彼女を認めたくない意地が折れてしまうから、こんな風に傷ついたとわかるような悲しい声は聞かせないでほしい。
「別に、『いじめられている』なんて思っていませんわよ。ナメないでくださいまし」
元・天才の訓練は極上に厳しくはあるもののけっして無意味ではない。事実、養成学校在学時よりも実力が上がっている実感がある。嫌になるくらいの反復で獲得速度と転換練度が上がって、日常的に追い詰められるせいか抽出量まで増えた。否定したくてもこの鬼教官と一対一で鍛えられたことが大きいと、そこは認めてもいい。
「ただ、ワタクシだけが上達したところで意味がないことをわかってらっしゃるかしら? 肝心の連別府さんが養成学校の生徒と競って連盟の目に留まるほどの力を付けるには並大抵のことでは足りませんもの。そこには〝鬼教官〟が必要ですわ。……貴女の力が」
「『自分に手をかけ過ぎている気がする』とか考えてる?」
図星を突かれてドキリとした。
悔しいけれど、ルールが変わったとはいえ競技経験に置いて彼女に何歩も譲る自分では連別府さんの願いを叶えられない。ならばこそ注力すべきだというのに彼女はそうしない。その真意はどこにあるのか。
背中の筋を押す手が止まって、見えないところで唸る声が聞こえた。
「ん~。愛近が言うことはもっともなんだけど……あなたのことを放っておくのはもったいないのよね。今優等生って言われてるのがつまらないくらい『伸び代』があるって思うから」
そんなことを言われて嬉しくなってしまう自分が憎い。
「愛近、あなたって〝華〟があるのよね。それは私や連別府には無い魅力、プロ選手として大切な要素だわ。でも余裕が無いと霞んでしまうし、実力が高くないと空回りしてしまう。それがもったいない」
よりにもよってこの人物にそんなことを言われるとは思わなかった。
「私は結構その辺苦手なのよ。我ながらどうにも武骨なのよね。今だってホラ、ムリヤリ女っぽい喋り方を憶えてみたけど今一つしっくりきてない気がするし、化粧なんて未だに苦手なのよね」
「……それでしたら、お教えして差し上げても構いませんけれど」
「あら、嬉しいわ。愛近に教われば自信になるもの」
(ワタクシの心の奥には、この女に随分と複雑な感情があったものですわね……)
相手がこうして親身に接してくれているのに、自分ばかりが反抗心丸出しでいるのはあまりに子供っぽく思えて嫌になる。
(これからはちょっとだけ素直に相手をしてもさしあげようかしら)
そう決心して大人しくマッサージされていると、いつの間にか背中をさする手が止まっていた。背後から荒い鼻息が聞こえて悪寒が沸き立つ。
「教官、どうなさいました?」
「……なんかムラムラしてきた」
ゾッとして両手で布団を付いて下から這い出し、壁際まで逃げて振り返る。
「貴女! 急に何を言い出しますの? あの二人がいらっしゃらないから安心していたのに、油断させて突き落とすなんて非道ですわよ!」
「あの二人? ああ、アムリラとロンデね。……そうなのよ。あの二人がそばにいると私もこう、ついつい滾っちゃってね。いけないなー、いけないなーと抑えようとはしてたんだけど……そろそろ限界」
話しながら畳に膝を擦って近づいて来る。完全に目が座っていて正気が窺えない。
「相手を選ぶなら愛近しかいないって思うから、寝るのが遅くなっちゃうけど少しだけガマンして付き合ってくれない?」
「そんなこと言われても光栄になんて思えませんわ! どうか落ち着いてくださいまし。ワタクシこんな形で初めてを奪われるなんてごめんです」
「大丈夫よ。愛近はしたことないかもしれないけど、きっとすぐに慣れる。私が学生寮にいた頃は寮で流行っていたし。……私がやり過ぎたせいで禁止になったのよね」
「やっぱり貴女、噂通り奔放でらしたのね!」
「いいでしょう? 私もうガマンできないのよ……」
壁際まで迫ってきた教官は私に私の起動弁をそっと握らせる。
「〝イデアエフェクト押し相撲〟って言うんだけどね――」
何か聞いたことが無い競技の説明を始めた。
「は?」
「だから、転換で武装を作らずに塊のまま押し付け合うの。結構良い訓練になるのよ?」
それならば、自分が連別府さんや部長ではなく自分が選ばれた理由はわかる。
「……『あの二人がいると滾る』というのは?」
「伝説の勇者が視界をチョロチョロしてるのよ? 自分の力を試したくなるじゃない。でも実際やっちゃったらお互い無事じゃすまないところまでいっちゃう気がするし、よくて練習場が崩壊する。だから『どうにか発散しないと』と思って……」
正座でモジモジしながら恐ろしいことを言う。ただしあり得ないことには聞こえない。
「では、『寮で禁止された』というのは?」
「寮の壁をぶち抜いちゃったのよね。それはないようにするから」
疑問がすべて解決した。
「貴女って本当に……バカでらしたのねえ……」
「偶川にも同じこと言われたんだけど……。で、どうなの? お願いできる? ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから。もうホント、ちょっとだけさせてくれたら気が済むから」
落ち込んで見えたのは一瞬のことでそれまで以上の勢いでグイグイと迫ってきた。ため息をついて、頷く。
「……わかりましたわよ。部活の場を無くされたら
念の為に宿舎の外へ移動して、本当に朝方まで付き合わされた。
寝覚めの感触は冷たい。額に載せられた冷水の沁み込んだタオルを手に取り、そのまま顔に押し付ける。初日の頃にはここでしつこく小言を浴びせられたけれど、低血圧に付いて理解してくれたようでここしばらくは静かになっている。
先に目を覚ました教官が早朝のトレーニングに出掛けて、戻って来るなりこうやって起こしにかかって来る、いつもの日課だった。
タオルを首にかけてもぞもぞと布団を出て、隅に畳む。養成学校の寮はベッドだったのでこういう手間が無かった。面倒ではあるけれど、散らかったままにしておくのは性分に合わない。
パジャマから運動着に着替え、壁に立てかけてあるテーブルを畳間の中央に置く。そうすると次々に皿が、朝食が並べられた。ベーコンの焼けた匂いが鼻を突くけれど、今日ばかりは食欲を誘われない。そのうちからコップを取って、牛乳を喉へ流し込む。
ようやく喋る気になれた。
「……お健やかで結構ですわね」
「別にいつも通りよ。いえ、いつも通りじゃなくて少し遅いわ。早く片付けないと二人が来ちゃうわよ。訓練の開始時間は遅らせないからね。……でも、ありがとう」
ここではにかむからには明け方近くまで彼女のストレス解消に付き合ったことは一応忘れていないらしい。言いたいことはあっても口撃するテンションになれないので黙って食事を進めた。
献立は代わり映えがしない。この宿舎は電気が届いていないのでコンロで炙れる内容ばかりで、トースト・ベーコン・目玉焼き・干物とそれから味噌汁に漬物。健康的、という誉め言葉しか出てこないメニューにも「朝は軽く済ませたい派」なので文句はない。
食事は養成学校と同じく日に四度取る。一般的な場合よりも昼食が少し早く、いわゆるおやつの時間にもしっかりと補給する。今の高校は昼食しかなく授業の終わりが早いので放課後の訓練前に食べている。
「ん」
催促に従って醤油の瓶を取って渡す。こうしたやり取りにも慣れた。
「わわっ、今の見た? ツーカーも言わないよ。阿吽の呼吸だよ」
「見た見た。っていうかコーチが料理するんだ。意外……」
声がしたので見てみれば入口で連別府さんと部長がこちらを覗き込んでいた。今日は週末。訓練は朝からある。
「やっぱり貴重な場面に立ち会えたね。早く来て正解だった」
「それより朝ごはんは二人だけなんですか? アムリラさんとロンデさんは……ちょっとワタシ起こして来ていいですか? ちょっと開けて様子を窺うだけでもいいんですけど」
「……挨拶」
体育会系の魂を忘れない教官が低い声で唸ると、二人が背筋を伸ばして「おはようございます」と声を揃える。付き合いたいけれど、まだ体が目覚めないのでカブの漬物を口に入れた。寝起きの体にポリポリとした歯ごたえと塩分が美味しい。
先に皿を空にした教官が立ち上がる。
「おはよう。バカなこと言ってないで準備ができてるのなら走り込みでもやって来なさい。連別府はその前に愛近をちゃんと起こして。これじゃ使いものにならない」
「あ、コーチ。お皿はワタシがやっときますよ」
「ここで生活してるのは私たちなんだから、そういうことまであなたがしなくていいの。自分のことは自分でやる」
「でも指導してもらってるわけですし」
「私は家政婦の指導をしてるんじゃないのよ」
教官と部長が話している間に連別府さんが畳に膝を擦って近づいてきた。
「お嬢さん、おはよう。ぎゅ~っ」
抱き締められて、一瞬にして世界が明るく色づいた。体も機敏に動いて抱擁を返す。
「連別府さん! おはようございます。今朝も素敵ですわね!」
「ありがと、えへへ……。星南さーん、お嬢さん起きましたよ」
連別府さんが離れたので朝食の残りを食べ終えていそいそと空いた皿を流しへ片付けていると、教官に苦い顔で観られていることに気が付いた。
「まったく……それやらないとシャンとしないんだから。どういう体の構造してるのかしらね? 週末はいいけど、平日は苦労してるのよ。私が同じことしても起きないし」
「ああ、あれはそういうつもりでなさったんですか。ワタクシてっきりとうとう殺されるのかと思いましたわ」
「えっ、そんなことしてもらってるの? お嬢さんお嬢さん、ぎゅっ! ぎゅっ!」
今度は両手を広げた連別府さんにせがまれ、何もかも放棄して飛びつくと実際に手放した皿を部長が滑り込んで受け止めた。
足元を見下ろし「あらごめんなさい」と声をかけると、部長は「今日も一日が始まった感じがする」と一日の始まりには不似合いな疲れた顔で笑った。
「温泉が掘れたぞ」
午前の訓練を終えた昼食後の小休止中、今日は朝に宿舎を出たきり姿を見せなかったロンデが唐突にそんなことを言い出した。
当人は魔王討伐の英雄であり飛ぶ鳥落とす勢いの実業家ハワードの弟。まるで世捨て人のような風体で、見たまま世捨て人のような暮らしを送っているという噂だった。今回の三局戦況部設立に際し指導員として雇うことになったあとも印象は噂から変わらない。
それは噂通りの怪人物であったということではなく、彼が連別府さんや部長の面倒ばかり見ているという事情からだ。もう数週間経つというのにほとんど関わっていない。
目にした活躍と言えば練習場を整えたことと、そこから伐採した木材で工作を行ったこと。最近では部や宿舎の道具も揃えてしまったと見えてアスレチック遊具を建て始め、それがあまりにキチンとしていて豪勢なものだから近隣どころか市街の方から子供連れがレジャーに訪れるようになっている。テレビの取材まで来たときには我らが三局戦況部もついでのように紹介された。
そんなことまでできる彼ではけれど、さすがにそれは――と信じられなかったせいで誰もその言葉の意味を理解できなかった。宿舎の前で水分を補給していた三人で固まった。
「あー……温泉? 温泉ですか」
一番に意識を取り戻したのはコーチだった。
「それはまたどうして? あんまり勝手に関係ない土地を使われたら困るんだけど。あんまりというか、少しでもダメというか……掘ったの?」
意識は取り戻してもまだ混乱している。この女が取り乱すの場面はあまりないので、珍しいものを観察する気持ちで冷静に慣れた。
部長に視線を振ると、いつも通りの察しの良さで首を振る。
「この辺に温泉とか無いです」
地中を流れる水脈を地熱が温めたものだから、掘り続ければ湧き出す可能性はどこにでもあるとはいえ、そういう問題ではない。
「未成質量って地面から出てきますけど、地下深いほど濃くなるものなんですか? それで楽に掘れたとか」
質問に今度は首を振る番が回ってきた。
「それはありません。まだまだ謎だらけではありますけれど、基本的に人の多い場所ほど未成質量は濃くなると言われていますもの。地表から五十メートル前後離れたらプッツリ、とも教わりましたわね。確かめたことはございませんけれど、もしそうなら試合場は地下に作られるのでは?」
記憶を頼りに自分を含めて納得させると、この勇者の異質さが際立つ。
「そっか……。温泉、掘っちゃったんだ~……。水質検査と、あとはなんだろ……」
遊具のときには使用許可から何やらを揃える為に奔走していた部長が落ち込んだ。
利用者に何かあったらなんてことは子供が悩むようなことではないのだから、今度は最初から役所に任せてしまえばいいのに。
「なんだよ。お前らが『疲れがとれない』って言ってたから掘ったんだろうが。温泉は疲れがとれるんだろ? 入ったことないから知らねえけど」
ぶっきらぼうな物言いで去っていく横顔は土汚れが目立つ。湯上がりの雰囲気は無い。
「ワタシたちの為にしてくれたんだ。……余計なこと言っちゃった」
部長は感動して反省しているけれど、同じ心境にはなれなかった。どうも彼が不審な気がして仕方がない。
(温泉を掘ったなら、普通そのまま入ってみるものじゃありません? それこそワタクシたちの為に急いで知らせに来てくださった、という風でもありませんし)
悶々としていると、連別府さんが「すごいねー」と笑った。無邪気な声に心を打たれる。
温泉を掘ってもらえて嬉しい。そんなことができるなんてすごい。感想なんてそれだけでよかったのに、どうして醜い考えに執着してしまったのか。
「そうですわね。ぜひ一緒に入りましょう。お背中流して差し上げますから、連別府さんはその無垢な眼差しでワタクシの穢れ切った心を綺麗にしてくださいまし」
「心って見てれば綺麗になるの? そうなの? 依風ちん」
「お風呂で身も心もリフレッシュ――って言うし、お湯に浸けとくといいよ」
どうやら三人意見が揃って、一斉に教官を見つめた。初めての完璧なチームワークが有効に働く。
「あのロンデが気を遣うほどあなたたちが弱っているのに私が気付かなかったっていうことなワケね?」
弱り顔の理由は自らの指導者としての資質を疑ってのことらしかった。
「コーチがよく部活に顔を出すようになったからその分ハードになってますよね。サボりませんけど愚痴くらいは言わせてください」
「あたしは平気だから星南さん毎日来てほしい。でも温泉は入りたい」
「今まで必要な物ばかりを作ったわけではありませんし、どちらかというとあの女の方の入れ知恵かもしれませんわね」
次々意見を言うと苦笑いに変わった。
「あなたたち歯に
部長が大きく息を吐くホッとした仕草に気を取られたけれど、教官の口元が緩んでいたのを見逃さなかった。内心はまんざらでもなさそうだ。
宿舎から少し登坂を歩くと、脇の茂みの中に問題の建屋があった。
「なんですのコレは? てっきり湯気の出る水たまりを発見するものと思っていたのに」
しっかり屋根まで付き、壁の板張りはピッタリ並んで隙間が無い宿舎より立派な構えの木造家屋。新しい木の香りがまた苛立ちを誘う。
「これでどうしてうちはドラム缶!」
「こんなに近いんだから入りに来たらいいじゃないですか。……ワタシもこれから使わせてもらおうかなあ。今日みたいに土日なら帰りは自転車で下りだし」
「二人とも早く早く! 中、脱衣所になってるよ」
一足先に木戸を開いた連別府さんの歓声に誘われ急ぐと、もう目まいがした。どこかの旅館を画像で切り出したような光景になっている。
「光源は……天井に格子窓がありますわね。フン、寒くなったら辛いでしょうね」
無性にやり返したい気持ちで悪態をつく。虚しい。
「ガラスが無いから仕方ないじゃないですか。見てください、棚にカゴが備え付けてありますよ。信じられない、薄く加工する技術まで……。これなら洗面器とかも作ってあったりして。あっ、ダメだよ竜ちゃん。脱ぎ散らかしたら」
「一番乗り―! かぽーん」
何の戸惑いも見せずに連別府さんが次の戸を開けて踏み込んで行く。
「……ワタシたちも入りましょうか」
「そうですわね」
あれこれ考えたところで存在してしまっているものは仕方がない。自然とその境地に達している連別府さんを見習って、現実を受け入れ服を脱ぎ始めた。
「うわーっ!」
突然の悲鳴を聞いて戦慄が走る。けれどそれは続かない。
「おっぱいがおっきい! 依風ちん見て見てアムリラさんのおっぱいが――何してんの依風ちん急いで! はやーく!」
「どうしてワタシがそんなに大慌てでアムリラさんのおっぱいを見ないといけないの」
「連別府さん……」
顔を覆って少し嘆いて、半裸で飛び出しかけた位置から戻ると残る下着をカゴにしまう。
そして目撃した浴場は予想を超える部分もあり、また下回る部分もあった。
大岩をくり抜いた窪みにかかった木樋から湯が注いでいる。床はスノコ。奥の地面は草地がそおままになっていて、脱衣所に比べると完成度が低い。さすがに景色まで楽しめるような露天風呂の雰囲気は無かった。
「ロンデ湯にようこそ」
浴槽の縁に腕を投げ出し、こちらは午前に姿を見ないのが平常な夜型勇者が
「……わぁ、本当に大きい。いつもゆったりした格好してるから気付かなかった。……やっぱり毎晩女性ホルモンを刺激されてるせいなのかな……」
部長が小声でボソボソ話しているのを聞き逃さなかったけれど取り合わずに流す。
「あら? 洗面器はありませんわね。でしたらワタクシが持って来た物をみんなでかわりばんこに使いましょうか。連別府さん、お背中お流し致しますわよ」
一般の水道が引かれているわけでもないので浴槽の縁に三人並んで腰を下ろす。広い浴槽に早く体を沈めたくて気が逸り、手はどうしても隅を飛ばしがちになった。雑な印象を持たれたくないのでぐっと堪える。
普段自宅でまともな入浴を楽しんでいる部長は焦りはないようで、傍らのボトルをしげしげと眺めた。
「へーえ、あの宿舎で暮らしてるのに意外とシャンプーとか一式揃えて――あれ、ワタシが知ってる一式セットより種類が多いんですけど」
「奇跡的にも教官に大変お気の付くご友人がいらして、これは親切にも送ってくださった物ですのよ。ご趣味がよろしいのでワタクシも使わせていただいていますの」
ここにある他にも保湿液と香油は脱衣所に置いてきた。
「そう言えば先輩ってお嬢様だった。はあ、そりゃドラム缶と石鹸じゃご不満ですよねえ。……薬局で見かけたことないのばっかり。ワタシが用意しといたのだってこの辺で買える中では一番良いやつなのに」
「もちろん感謝していますわよ。感謝だけはしておりますわよ」
部長と話していると、急に連別府さんが振り返って強い関心を示してきた。
「えっ? じゃあお嬢さんって星南さんと同じシャンプー使ってて、同じ匂いするの? ちょっと嗅いでいい? ちょっとじゃ済まなくっても許してくれる?」
「いいえ、あの女はご友人のお心遣いを
「なんだ同じ匂いじゃないんだ。……じゃあいいや」
「連別府さんはもう少しワタクシに興味をお持ちになってもよろしいんじゃありません? ワタクシ思い余って石鹸を使い始めますわよ? 嫌ですわよ?」
公開試合をきっかけに連別府さんと再会できたのは運命的で喜ばしいのに、その期間ずっと教官がチラチラするせいで連別府さんを取られてしまって切ない。
「そう言わないで、竜ちゃんもこれ使わせてもらおうよ。いいですよね、先輩。そうすれば先輩と竜ちゃんが同じ香りになりますし」
「そんな餌で釣らなくても文句なんて言いませんわ。ワタクシの物でもありませんし」
「どれどれ……うーわっ、泡がなんか気持ち良い! ねえ竜ちゃん、凄いよこれ。普通のタオルなのにめっちゃ泡立つ」
「あたしは石鹸でいい。星南さんと同じ。デキる女は石鹸……」
「コーチって見た目はとんでもないけど、その辺はデキないタイプじゃないかなあ? あとでコーチが来たらムリヤリ洗っちゃえば同じになるんだからいいじゃん」
「あの女が素直に従うとは思いませんけれどね」
「従わせます。部長命令です」
「いや相手は教官……まあいいですわ」
訓練後に面談が付きものになった頃からか、教官はこの部長に妙に弱い態度を取るようになったのでそれもあり得るかもしれない。
トリートメントなどを説明しながら髪を洗い終えると、列になって背中を洗い合うことになった。
「ひぇ~……毎日外で部活動してるのに全然日に焼けてないのは知ってたけど、背中はもうコレ、顔近づけたら向こう側が透けて見えそう。えっ、触っても大丈夫なんですか?」
「シッ! 静かにしてくださいまし。ワタクシただいま連別府さんの感触に集中しているところですの。脳が記憶できるすべてをここで枯らし果たすつもりでしてよ」
「うひひ、お嬢さんなんで素手なの。くすぐったいよー」
反転。
「あ、お嬢さんってお尻の割れ始めにホクロがある」
「もっと探して教えてくださいな。こちらは何の面白みもありませんし」
「この立場の人どう過ごしたらいいんだろう」
一つしかない洗面器を順繰りに回して泡を流して湯船に移る。
「あっ、イデアエフェクトで作ればよかったですね、洗面器。……くぅ~」
「私的利用は世間に叩かれますからおよしなさい。……んんっ」
「ああ~~、極楽だねえ~」
ふと、ずっと湯の中にいたアムリラと視線が合った。じっとニコニコ見守られていたようだ。近いはずの年齢以上の雰囲気を漂わせるあたり、教官よりずっと大人の女と言える。
(……毎晩あんな声を上げてらっしゃるものね……)
考えないようにしていたことを思い出してしまい、鼻先まで湯に沈める。
「すみません、騒がしくして」
気軽な調子で部長が声をかけた。そんなことで怒りはしないと見込んだ通り、アムリラも気楽に首を振る。
「ううん、『やっぱりこうだよなー』って思ってた。女の子がたくさんだと賑やかになるのが自然だよね? 教団じゃお喋りより祈りが尊ばれるからさ、静かでつまんないんだよ」
宗教団体だけあってか、女子寮のような場所はあっても当然何もかも違うようだ。
「ねえねえ、『フツーの学校生活』ってどんな? ボクに教えてよ」
そうやって質問に答える形で会話が弾んだ。
アムリラは関わる人物が教団関係者とロンデだけでは人生経験に偏りがあるようで、けっして特別ではない話も楽しそうに聞いていた。それを「フツー」と思われると誤解が生じるような話もいくつかあったけれど。
八歳で英雄になった生ける偉人という以外には夜の淫らな印象しかなかったけれど、案外と彼女は善人なのかもしれない。少なくとも教官よりは気易く付き合える。
好意的な興味を向けられたなら、こちらも彼女を知りたくなる。部長も同じのようだ。
「アムリラさんは温泉が好きなんですか? 外国ではお湯にあんまり浸からないイメージがあったんですけど」
「母国ではそうだったよ。でもこっちは湿気が高いからこういうのを楽しむ気持ちもわかるようになったんだよ」
ではロンデはどうなのか気になったが、口に出すのはよすことにする。
(どうせ風呂嫌いとかそんなところですわね。ここでイチャついていなくて良かったと思うことにしますわ)
体が温まってリラックスしているおかげか、深く考え込まずに済んだ。半日以下で出現した温泉で疑問に囚われていたらキリがない。
「そうだ、アムリラさんに外国語教えてもらおうよ。っていうか代わりにテスト受けてもらおうよ」
「アムリラさんの手が空いてるときは訓練してもらったほうが良くない?」
そのうち、脱衣所の戸が開いた。湯気の向こうに見慣れた長身が現れる。
「……シルエットだけならほぼ男ですわね」
「星南さんみたいなカッコいい男いないよ」
連別府さんの主張に反対する気はない。さすがにこれを直視しながら「ゴリラ」とは呼びようがなかった。
どこを見ても筋肉に覆われていて女性的な柔らかさは見つからないものの、造形美・健康美といった様々な賞賛が思い浮かぶ。ただし最もこの芸術に相応しいのは「機能美」という言葉。あくまで戦闘に特化した結果であるからこそ見ていてこうも不安になり、警戒が必要な存在であるからこそ目を離せなくなると信じたい。彼女に魅了されているなんて認めたくない。
「貶されたのかも褒められたのかもよくわからないけど、別にコンプレックスじゃないから気にしないわよ」
教官が浴槽の縁に腰かけた途端、連別府さんと部長が迎え撃つように湯から出た。
「星南さん! あたしが洗います」
「ソレ、なんでかよく言われるけどあなたも洗いたいタイプなの? 要らないわよ」
「ちょっとコーチ、これだけ揃ってるのにどうして石鹸を手に取るんですか。さては髪も体も全部それ一つで済ませるつもりですね?」
「石鹸で洗うとゴワゴワして髪が立つからセット要らずで楽なのよ」
「あっ、この人寝癖で生活してるタイプだ。竜ちゃん、やるよ。コーチを洗おう」
「こんなに依風ちんの頼みごとが嬉しいことって初めて!」
「じゃあ失礼しま――コーチ腹筋バッキバキ!」
この騒がしさはさすがに嫌がるのではと思って見やればアムリラはケラケラ笑っていた。今こそ祈りの尊さに目覚めて布教してほしい。
「ちょっと、お人形さん扱いするなら愛近とか可愛いのを選ぶべきでしょうが」
「今ワタクシとても辛いので話しかけないでいただけます?」
「いいえ、コーチ。これはどっちかって言うと人形遊びより機械のメンテナンスに近――太腿が固い! これはもうカタ腿! 内側が固いってどういうことですか?」
「コラコラ、指導員のまたぐらに顔を突っ込まない」
「依風ちん今度はあたし。代わって代わって」
湯面に顔を付けてブクブクとあぶくを立てる。湯は今の心境に相応しい血の味がした。
息苦しくなって顔を上げると、アムリラに「ボクがお人形扱いしてあげよっか?」と言われたのは聞かなかったことにした。
「良い感じの濁り湯じゃない。鉄鉱泉ね。わかりやすく鉄分不足に効くわよ。……温泉がこんなに適温で湧くなんてあんまり無いことなんだけど、どうなってるのかしら」
教官が湯の中に体を沈めつつ温泉うんちくを語り、誰も触れずにいたこのふしぎな状態を指摘した。それにしてもこの女はどうして隣に来るのか。
「星南さんの実家は温泉旅館だから詳しいんだよ」
「うん、聞いたことある」
二人が話しているのを脇に、アムリラが湯を運ぶ樋の先を指差した。
「湧き出したのはもっと熱かったから、外のタンクで川から引き込んだ水と混ぜて丁度よくるようにしてあるんだ」
指差す先の塀の向こうに、言われてみれば濃い白煙が上っているのを見つける。あそこが源泉らしい。
「ならひょっとして、川の水が増えたり減ったりしたときはここの温度が変わる?」
「……そうかも」
「聞いたな? 今後ここを利用するときは事前に温度を確認すること。湯気などの見た目では外気が冷えている場合と区別が付かない」
訓練のときのテンションに反応して返事の「ハイ」が三人揃う。そのあとハッと顔色を変えた部長が「他の人がヤケドしちゃうかも」と気重そうに呟く。
「また要らないストレスを抱えて。そんなこと貴女が気にすることではありませんわよ」
「そうだよー。困ることは大抵誰かがなんとかしてくれるもんだよー」
こういう人間がいるせいで部長のような善人が苦労をすると考えたら、アムリラの加勢を素直に喜べなかった。
(ワタクシも……同じかもしれませんわね。連別府さんのことばかり気にして、チームのことは考えた? それは本当に連別府さんの為になった?)
目の前の喜びに我を忘れ浮ついていたことを自覚した。
この環境には悪い見本が多い。これを参考に自省すべきだ。そうしなくては連別府さんの支えにはなれない。
「……部長、貴女自身がなさることは『相応しい人物に相談する』くらいに留めておくべきでしてよ」
ケガ人が出る可能性においては事実なので、放置すればいつまでも気がかりにして精神を擦り減らしてしまう。実際事故が起きた場合は言わずもがな。それでは部活動に支障をきたしかねない――という部分を心配するよりも、彼女自身の負担を軽くしたくなった。
偶川依風という存在を改めて考えると、「成り行き上のチームメンバー」と言ってしまえばそれだけではある。部長というのもただの肩書きに過ぎない。ただ、彼女の努力を知っている。
三局戦況に関りさえしなければ不要だった苦労を重ね、そうしなくてはいけない事情も当人には無く、それでいて養成学校の同級生たちより懸命に訓練に励んでいる。しかもそれが連別府さんの為だというから尊敬の念も湧き、感謝も抱く。
「……先輩? 急にどうしたんです」
怪訝な顔で見つめられる。心境の変化を不自然に思われている。そのことについて打ち明けるほどにはまだ素直になれない。
「貴女一人で頼みに行っても反対に押し付けられそうですわね。そのときにはワタクシが同席して差し上げますから、当てにできる人物が見つかったならお声かけくださいまし。必ずお力になりましてよ」
手を取ってほほ笑みかけると、ヘナッと力が抜けるのを見てひとまず願った通りにできたことに満足する。
「それすごく助かります。庶民を顎で使う上流階級の見下しを一つお願いできますか?」
力になろうというのにあんまりな物言いを聞き、握った手を払い除けた。
「ほんの少し気を許したら貴女って人は! 温泉で癒されている最中なら傷つかないと思ったら大間違いでしてよ? 連別府さん、ワタクシを慰めてくださいまし。連別府さん、連別府さん?」
見れば、連別府さんは教官を見つめて夢中になっていた。視覚と記憶を直結させようという意気込みを血走った瞳に感じる。こんなに情熱的に見つめられて教官がもし劣情を催されてしまったら、と不安になる。
「……一体どうやって温泉なんて掘ったのかしら。私なら……。そうだ、これあなたたちの今日の課題にしましょう。午後の練習を休むんだから丁度良いわ。問題。どうやってロンデは温泉を掘ったか、答えなさい」
この女の頭の中にはイデアエフェクトのことしかないらしくて呆れた。それでも一応考え始めてみる。
「普通に考えたらそんなことムリですけれど、現実にできていますものね」
「あたしテストみたいに言われたらめんどい気持ちが出ちゃって考えらんない。依風ちん、答え教えて」
「連別府さん、お困りのときはワタクシをお頼りになってもよろしいのよ?」
「いや私も先輩も答えなんて知らないよ。っていうかコーチも。知ってるとしたらアムリラさんだけ」
三人の視線が集まると、じっと傍観していたアムリラは立てた人差し指を唇に当てて嬉しそうに笑った。その柔らかな仕草は本当に幸せそうで、何も語らないのに恋人の惚気話を聞かされた気分になって滅入る。
「ロンデの偉業を言い当てて見ろ、ってわけね? 面白いじゃない。あなたたち、思い知らせてやりなさい。がんばったらご褒美をあげるから」
随分と違う受け止め方をした教官が不敵に笑う。彼女の危うい性分に火が付いたようだ。生徒に回しておいて自分では考えないくせに。
「星南さんがご褒美くれるならあたしも考える! ……でも『イデアエフェクトで穴を空けた』以外に方法なくない?」
連別府さんが元気良く発言したのに、部長は気まずげに苦笑いする。
「それが答えだったら問題にならないって。それに、ただ穴を空けるだけじゃお湯はここまで届かないと思うよ。ムリヤリ掘ったんだから相当深いはずだし、途中で土とかに沁み込んじゃうんじゃないかな? だからパイプは通してるはず」
掘削に付いてなんて全員が素人ではあっても、部長の言うことはなんとなく理解できる。
「先輩に質問なんですけど、イデアエフェクト――っていうか、転換する武装の長さとか射程距離ってどれくらいまで伸ばせるんです?」
「そうですわね……。個人差はありますけれど、強度を気にせず限界まで伸ばすとしたら……ワタクシなら一キロ未満くらいですわね。未成質量は転換せずエネルギー状に噴射することもできますけれど、その場合の射程距離もあまり変わりありませんわ」
「あれ? それ教わってませんけど」
ああ、と頷く。それは仕方がないことだ。養成学校でも変わらない。
「噴射は転換に比べて効率が悪いんですの。なにしろ未成質量ですもの、放った途端相手に奪われますし。そうなったら攻撃にすらなりませんから競技の世界では見かけませんわね。掘削にも使えないかはわかりませんけれど……狙いをつけられるものではないので別の手段だと思いますわよ」
「じゃあ未成質量でパイプを作れたとして、今もそれが残してある可能性は?」
「普通はムリですけれど、彼ら勇者なら……いえいえ、やっぱりムリですわよ。いくら凄くても人間である以上そんなに集中が続くはずありませんわ」
質問に答えていると隣の教官がわかった風な顔でウンウン頷いて鬱陶しい。効率も狙いもルールも無視した大噴射が一番の得意技なくせに。
「アドバイスしておくとね、携行端末の警告音を聴いていないことも思い出してね。許可を取ってある練習場や宿舎の敷地外でイデアエフェクトが使われたら鳴るはずの警告音ね」
そんなものはアドバイスでも何でもない。仮に勇者一同はイデアエフェクト以外か、一般に知られていない使い方ができるとするなら、ここで考えても正解を当てられるわけがなかった。
教官はずっと半眼でアムリラを睨んでいる。反応が見たくて口に出してみただけらしい。そもそも答えを知らずにヒントを出せるはずもない。
彼らが隠しているかもしれないイデアエフェクトの神髄。それを知りたがっている。プロ入りを逃した今でも大空星南は天才であることに貪欲だ。とても付き合っていられない。
「今の教官の話は忘れて結構ですわよ。ワタクシたちが知っていること以外のことを考えても仕方ありませんもの。とりあえず地下深くにパイプを通す方法を考えましょう」
「あっ、ほらあのさ、大きな建物を建てるとき地面に杭を打つよね。ああいう方法じゃないかな。パイプを杭にして上から押す。ムリヤリ地面を潰して石を割って掘り進むの」
「何よ、竜ちゃん考えられるじゃない。ご褒美に釣られて……もう!」
「えへへ」
「でもそれムリだと思うよ。地面の下は土ばっかりなんじゃないんだから、そんなに強い力で押したら壊れちゃうしまっすぐ進まないよ」
「ワタクシもそう思いますわ。使ったのは〝木〟だけでしょうし」
「先に穴を空けてから木で作ったパイプを落としても、そう都合よく落ちていきませんよね。……う~ん」
しばらく(部長と)意見を交わし合って、一応は成し得る方法を導き出せた。
「コーチ! これがワタシたちの回答です。まず地面に穴を掘って、イデアエフェクトでパイプを作り穴に通します。ただし大きさを変えて二重に! その隙間に木のパイプを落として、底まで届いたらイデアエフェクトを解除――これでどうですか!」
「いえちょっと待ってくださいまし。やっぱり人間業じゃありませんわよ。主に木の枠を作る部分が。イデアエフェクトに関係ない部分が」
「そんなこと言い始めたらアスレチックだっておかしいんですよ! 市街から子供たちが集まって取り合いにならない規模の設備が学校行ってる間にできてたんですよ? だからこれが答えでいいんです!」
この結論が出たのは、なにしろ温泉に浸かっているので議論以外の部分でヒートアップしてしまい「もうこれでいいや!」となったという経緯がある。
部長が音を上げているように、もう一度最初から考えるのも厳しい。
「さあ、合ってますか?」
成否を問おうとアムリラを見れば、真っ赤になって天を見上げていた。誰よりも長く湯に浸かっているのだからのぼせて当然だった。
「どっちなのよ。合ってるの? 違うの? 答えなさい!」
揺さぶる教官も正気を失っている。
「温泉に詳しい話はどこにいってしまいましたの? それでは完全にゴリラですわ!」
「ダメですコーチ、のぼせちゃってる! 早く水で冷やし……あっ、ここお湯しかない!」
誰もが混乱する阿鼻叫喚の状況で、連別府さんだけが冷静に裸のままアムリラを担ぎ出して近くの川に放り込んだ。
結局答えは聞けなかった。
熱を冷まして体調を取り戻したアムリラを念の為に宿舎で寝かせて休ませていると、丁度ロンデが戻って来た。目の前でイチャ付き始めた二人を置いてそっと外へ抜け出し、充分な距離を取る。連別府さんにあんな声を聞かせたくはない。
「ロンデはちゃんと看病するかしら……。ムリっぽいけど、二人の世界にはお邪魔はできないわよね……。うん? 連別府、どうかした?」
期待で顔をキラキラさせた連別府さんに手首を引かれてもトボケた調子の教官の態度が腹に据えかねる。
「『ご褒美』、ですわよ? 貴女、先程の無茶な課題で約束なさったでしょう?」
「それなら正解してないでしょう」
連別府さんがしょんぼりと落ち込むのを見て、部長の目が大きく開いた。
「コーチ! 約束だと『正解か不正解か』じゃなくて『がんばったら』でしたよね? コーチ! 自分も正解を知らないのにがんばったかをどうやって判定するんですか? コーチ! 自分では考えなかったくせに考えたワタシたちに『がんばりが足りない』って言うんですか?」
猛然と怒っている。さっきまで宿舎に残って情事を目撃したがっていた淫らな女と同一人物だとはとても信じられない正義の人ぶりだった。
「依風ちん、いいよ……。ムリに何かさせて星南さんの迷惑になるの嫌だし……。あたしはホラ、役に立つ意見言えなかったしさ」
強がって笑う連別府さんの健気なこと。こうなったらもう辛抱たまらない。部長に負けじと怒り出すしかない。
「連別府さんをこんなにも悲しませるなんて! 貴女、人の心がありませんの? そもそも事実上無職の分際で与える褒美もたかが知れているくせに、それすら出し惜しむとは何事ですか! 人間性と職を失っているうえに良心まで無――」
「わかった! わかってる! 正解してないと言っただけで、あげないとは言ってないじゃないの。そのくらいのすれ違いでそこまで言う?」
「理屈は要らないんで誠意と現物を見せてください」
「いやあの、何かするつもりはあったんだけど、用意があるわけじゃないのよ。だって急だったでしょ」
「ホラご覧なさい! 口先で生徒を弄ぶのが貴女の教育ですの?」
「今あなたたちがしてほしいことを聞いたらスグその通りにしてあげるから! あ、ただし『訓練を軽くする』とかはダメよ?」
部長と二人で責め立てると教官は両手を頭の後ろで組んだ。三局戦況での〝降参〟の意思表示だが、彼女がそのポーズを取ったのは初めてではないだろうか。
驚いている間に泣き顔から笑顔に変わった連別府さんが何か言い出そうとして、それを察した部長が口を手を塞いで黙らせた。
おそらく以前にも一度した、ある「お願い」を繰り返そうとしたんだと思う。
教官の車で市街へ降り、部長の案内でカフェに入る。基本まんじゅうの類かパンしか甘味が手に入らない宿舎生活ではご無沙汰のスイーツが存分に楽しめる店らしい。あまり非常識な要求をするのはどうかと話し合い「ムリヤリ叶えさせるのは嫌なんでしょ」と部長が連別府さんを説得した結果こうなった。
「久しぶりに文化度が高い物を口に入れられて満足ですわ」
「悪かったですね。普段文化度の低い物をお出しして」
「あら、そういう意図はありませんのよ。味については満足していますし、ただその、こういうお皿など目で楽しむ部分とか、わかるでしょう」
「わかってて言っているので大丈夫です。ちょっと意地悪言い返したかっただけですから」
連別府さんは手で摘まめるクッキー、部長は生クリームたっぷりのケーキを注文している。教官はコーヒーを頼んだきりで興味深げにテーブル上のそれらを眺めた。
「あなたたち、よく食べるわねえ。一応昼食後なのに」
「おかげさまで日頃から大量のカロリーを消費していますもので。ただそれで言ったら教官こそたくさん食べるべきじゃありませんこと?」
手元のタルトを小皿に切り分けて譲っても、凝視するだけで手を付けようとしない。
「アスリートなら栄養バランスを考慮すべきじゃないかしら」
せっかく気晴らしに来ているというのに、余計なことばかり言う。
「アルコールでカロリーを補っている大人に言われたくはありませんわね」
「た、嗜む程度だから」
連別府さんがネットで拾った画像コレクションに居酒屋で酔い潰れた画像があることを聞かせたら本格的に打ちのめすことになりそうなので、それは黙っておく。
「コーチ、まさか『お菓子食べたことない』なんて言いませんよね?」
「子供の頃はあるわよ。……ラムネとか……チョコとか」
「ワタクシ以上に幼少時の子供らしい思い出が薄そうに聞こえましてよ。もしかしてサバンナで獣に育てられた経験をお持ちで?」
「別に、ただあんまり憶えてないだけよ。ほっときなさい。そりゃ同級生とこういう所に来たことは無かったけど、それは田舎で洒落た店なんて無かったから」
「コーチって子供の頃男の子に混じって遊んでそうに思うんですけど。……そんなこといいから教官も食べてくださいよ。じゃないと竜ちゃんが気にして食べられないんです」
連別府さんは味覚を刺激するよりも教官を見つめて視覚を満足させている。「星南さんが食べないなら」と考えていることは間違いない。
それを知った教官は慌ててメニューのモニターを眺めて眉間にしわを刻んだ。それでも選べなかったようで、分けておいたタルトを摘まんで連別府さんの口元へ運ぶ。これは連別府さんにとって最高の「ご褒美」になった。
「あ~ん……おいしい! 星南さんに食べさせてもらうと百倍おいしい!」
満面の笑みと唇で受け止め、ジャムが付いたらしい指を舐めとる教官の仕草を見てますます顔を赤くする。巻き添えで部長までがポーッとなっているのはさすがに見咎めた。
「ちょっと、貴女までそんなだと多数決でこのチームは『教官大好き』みたいになるじゃありませんか。興奮をお鎮めなさい」
「いやー……申し訳ないですけど今のはムリでしょ……。だって指をネットリ舐めるときじっと竜ちゃんのこと見てましたよ。ああいうのわざとやってるんですかね? 自分に向けてじゃなかったら照れなくていいから安心してメロメロになれる――っていう感覚、先輩にはわかりません? ひゃ~、汗かいてきちゃった」
「現実に戻ってきたら教えてくださいな。貴女のケーキ少し分けてほしいので」
今は何を言っても話が通じないと見て、大人しくタルトをつつく。とてもおいしい。
気分がすぐに切り替わったのに、隣から服の袖を引かれて邪魔された。
「ねえ愛近、これ注文してくれない?」
メニューのモニターを教官が指差す。意味がわからない。
「ご自分でなさったらいいじゃありませんか。どうせここの払いは貴女なのですから」
ここへ来たのは教官から教え子へのご褒美で、だからこそ「奢る」ということになっている。覆されたところで困りはしなくても「今更何を」と不審に思わずにはいられない。
「だって、私がこれを頼むのは……アレでしょ」
何が言いたいのかは、指差すメニューにある品名と彼女の気まずそうな顔に視線を往復させていたら見当がついた。サンプル画像にあるのはこぼれ落ちそうなほどたくさん載せられた果物とアイス、装飾と具材で彩られた見た目も華やかなパフェ。
「……もしや『季節の果物たっぷりお姫様パフェ』を頼むのが恥ずかしいんですの?」
口に出して聞くと頬が紅潮して、肩が丸まった。こうするといくらか小さく見える。
「だって私みたいなのが、おひ――こういうの……頼めないでしょ。笑われちゃう」
普段と打って変わった心細そうな態度。妙なところで気が小さい。
「ここはそういう店ですもの、誰もそんなこと気にしませんわよ。ワタクシがその分も取り返すつもりで笑いますけれど。
「どんな一族なのよ」
「冗談ですわ。ワタクシの母の持ちネタでしてよ。本当に余裕がありませんのねえ?」
「もう言わなかったことにするから意地悪しないで……」
消え入りそうな声と態度で袖をクイクイ引かれる。その間に連別府さんが勢いよく手を挙げた。
「お姫様パフェを特盛で二つ! 大至急でお願いします!」
代わりに注文されてしまった。つまり教官で遊ぶのはここで終わり。二つの内もう一つはもちろん連別府さんの分だろう。
「っていうかコーチ、店員さんに直接声をかけなくてもこのメニューのモニターで注文できますよ。今届いてる分を頼んだときはそうしたじゃないですか」
部長がモニターを操作して見せて、教官は愕然とした。こっちを睨んでくるけれどほほ笑みで返す。
「友人と洒落た店に行くようなこともなく、子供の頃なら家族での外食も注文は親任せでしょうし、養成学校の学食は献立を選べませんものね。それとわかりましたわよ。ここに入ってからずっと、周りもロクに見えないくらい軽くパニックでらしたんでしょう? こういう雰囲気が苦手で」
歯ぎしりが聞こえそうなほどの迫力で凄まれ、してやったと満足して紅茶で喉を潤す。
そして我に返った。
この教官がどんなにトンマでも連別府さんにとっては憧れの人物。それをこうも目の前で虚仮にされて一体どう感じているか。
「ああもう、ワタクシったら温泉で反省したのに――違うんですの連別府さん! どうか嫌わないでくださいまし!」
「えっ? なんで嫌うの? それよりお嬢さんありがとう。お嬢さんのおかげで色んな星南さんが見られるよ……」
頬に手を当ててウットリと教官を眺めている。
「……一途でいらっしゃるのね」
「いやいやおかしいって! いい加減わかりましょうよ。竜ちゃんはコーチが絡むとこうなんだって、色々見て来たでしょ先輩」
「いいえ、連別府さんこそワタクシにとって合わせるべき指針。愛近スタンダードでしてよ。問題があるとしたら教官のほうですわ」
「そりゃコーチがおかしくないとは言いませんけど……」
無事納得してくれた部長と一緒に視線の向きを揃えると、教官は俯いて落ち込んでいた。
「……私、大人になるまで外食をしたことなかったのよ……。うちの実家は料理を出す側、家族は忙しい。家を出てからは三食付きの寮生活。卒業して指導員になったあとも決まった居酒屋のカウンターで大将と直接話してた。だからこういう店は初めてで……。でも、あなたたちはどうして平気なの? こんなにピンクで内装フワフワしてるのに」
三局戦況業界を震え上がらせた最強の反則選手がこんなしようのないことでうろたえている。多分、本人が思っているほど可愛げが無いわけではない。
「平気ですわよ、乙女ですもの。四六時中こうありたいとまでは思いませんけれど」
「別に、ねえ?」
「依風ちんの部屋が割とこんな感じで――もがっ」
「訂正いたしますわね。四六時中こうありたいと思う例も身近にあるようですわ」
「ハァ……化粧といい、私が憶えなくちゃいけないことはたくさんあるわね。……いいわ、今日はとことん私が譲る。でもお願いだから少しは加減してちょうだい」
そう殊勝な態度を取る相手を困らせるほど悪趣味にはなれない。これからは当初の目的通り和やかに甘味を楽しみ心を休める――かと思ったらそうはならず、パフェが運ばれてきてからも教官は面倒このうえなかった。
まるで「自分はそんなの頼んでません」という素振りで見向きもせず、仕方なく勝手に前に置こうとすると押し返してきた。
「どうしてワタクシの所に持ってきますの。そこまで意地を張るんならワタクシが食べてしまいますわよ?」
「少しならいいけど。でもちょっと待って。画像に残しておきたい。……チップのハートが斜めになっちゃって綺麗に写らないわね……」
「竜ちゃん、アイスのトコ少しちょうだい」
「撮りづらいなら自分の近くに寄せたらいいでしょう? だから顔を押し付けないでくださいまし! わかりましたから、器を回転させますから!」
「あたしはザラザラしてるほうが好きだな。シャーベットとか、氷の粒が入ってるソフトクリームおいしいよね。あ、ココにもあるんだ。果汁氷……わあ、あとで頼もうっと」
「そちらは平和でよろしいですわね!」
自分も例外ではなく、このチームはなかなか厄介な連中が揃ってしまっているらしい。その中で自分にできることは何か。強くなる。それ以外にない。
「……連別府さん、ワタクシは強者であることで、それを貴女への友情といたしますわね」
決意して宣言すると、冷えた口を紅茶で温めていた連別府さんは目をしばたたかせてから大きく頷いた。
「あたしも負けない。一緒に三局戦況のプロ選手になろう、おじょ――初花」
名前を呼ばれた。
「ええ、竜子さん」
それを自然なことと受け止めて手を差し出すと、同時に横から部長――依風さんも掌を重ねてきた。
振り払うような無粋なことはしない。なぜなら彼女も覚悟を決めた凛々しい顔つきをしている。驚きはあっても、一つのチームとして志を共にできるのだから喜びしかない。
「じゃあこれ食べ終わったら……ってことで、いいですか?」
「もちろん。望むところでしてよ」
「星南さん! 帰ったら訓練お願いします」
隣から長いスプーンを伸ばしてパフェに手を付けていた教官は何度か
「喜んで。……特に愛近」
脅しを込めて笑みが強まるのを見ても、退く気はない。こういう意地の張り方ならばいくらでも、とことんまで張り通す甲斐がある。
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