二度目の進路相談でそそのかされる偶川依風

 三局戦況部が活動を始めて一週間。学校の部活動としては国内初かもしれない、未知への挑戦としては順調な滑り出しだったと思う。天才の呼び声高い(らしい)大空コーチと伝説(らしい)勇者が二人も指導についてくれたのだからかなり良い環境、のはず。

 そんな部の部長として身が引き締まる想いでいたら実際に体が引き締まった。と言っても体重は据え置き。毎日よく食べよく寝てとっても健康的に過ごしている。

 竜ちゃんは相変わらず元気にがんばっている。ただ、目当てのコーチが昼夜となく出かけている時間が長くなったせいでつまらなそうではあった。

「それじゃ準備体操からしっかりね。……ちょっと竜ちゃん、ダラダラしない」

「あーあ、今日も星南さん来ないのかなあ」

「朝から車で出かけたきりみたいですわよ。何をやっているのかは謎ですけれど、公開試合に編入込みで参加を取り付けるまでは忙しいのではなくて?」

 放課後の練習、今日もコーチは留守。三日目からずっとこうだ。アムリラさんとロンデさんが指導してはくれるけれど、二人は三局戦況に詳しくないからか競技の訓練はほとんどなくてイデアエフェクトの技術向上に終始する。上達の実感はあっても形にならないからワタシも正直物足りなかった。

「あーあー! コーチ来ないかなあ!」

「いなくとも構わないでしょう? 連別府さんにはワタクシがいますもの。ねぇっ、あのっ、聞いてくださいな」

 竜ちゃんがピリピリしている。それは何もコーチがいないせいというだけでもなかった。

「昨日と同じ事じゃつまんねえぞ! 今日こそ派手なことやれよ!」

 ロンデさんが作った木製の観客席にギャラリーが数人集まっている。秋の収穫がひと段落した近所のおじさんじいさん連中だ。部活を作った話をどこからか聞きつけて見物に来た。おあつらえ向きに座席まで用意してあるので追い払うのも難しい。

 同じ町民――言わば身内ではあっても浴びせられるのは口汚い野次。竜ちゃんの親戚もいて、大声でがなるたびに竜ちゃんが震えるから痛々しくてたまらない。

「あいつらうるせえなあ。ちょっと静かにさせるか」

 ロンデさんが飄々とした態度で近づいていこうとするのを慌てて止める。この人は表情が変わらないので何を考えているかわからないけれど、しれっととんでもないことをやらかしそうな迫力だけはあるので気を付けたい。

「ここはワタシに任せてください。顔見知りばっかりなんです」

「ん? おお、そうか。じゃあ頼むわ」

 すんなり納得してくれたのはいいけれど、これでワタシは暇を持て余した中高年という世界で一番厄介な生き物を相手にしないといけなくなった。

「組合長さんとこの孫か。ダメだろこんな得体の知れない連中とつるんで」

「こんなとこで時間を無駄にするよりどこか加勢に行くくらいでないと、どこももらってくれないよ」

 この人たちは苦手だ。「別にそんなところにこだわってないよ」という部分を指摘して上から目線で説教を繰り返す。反論すれば「生意気」と怒り、向こうはそれを言うだけで自己満足して悦に浸る。相手をするのもバカらしいからヘラヘラ笑ってやり過ごすことにも慣れた。偏狭な価値観でも自分の貧しい人生を「素晴らしい」「正しい」と誇るにはこうでもしないといられないんだと思う。可哀想な人たちだ。

 同じ町で暮らしていたってみんながこうはならない。進歩的な考えを持ってどんどん家業を生活を発展させている人もたくさんいる。誰だってやめようと思えばすぐ、始めようと思えばいつだって変われるのにそうはしないで同じままでいる。

 ふとした弾みでワタシも彼らと同じような生き物になるとわかっているから、憎むまでは至らない。

(ああでも……これだけは嫌だな……)

 話しているだけなのに肩に触られた。これはたまたま、じゃない。いつもだ。手が当たってそのまま無遠慮に撫で回される。今日こそ襟口から中に指が滑り込んでくるかと怖くて仕方がない。

 大昔ならともかく現代には男がいないと困る場面なんて無いのに、それでもこの辺りの地域では男性優位の考えが根強く残っている。同性婚や同性間で子供を持つことが珍しくないことをわかっていても「家の後継ぎは男」という時代錯誤がまかり通る。そうじゃないと彼らが困るから、そうであるかのように彼らは振る舞う。

 ふざけたことに思えてもそれが多数決で勝つこの町の常識。

 だから今日もワタシは耐えることしかできなかった。

(大丈夫、ワタシは自分自身のことなら我慢できる……)

 腰に回された手が下へ動く気配を感じ取って、ぐっと身を縮こませた。こんなことならいつもだ。何てことはない。

「――私の生徒に何をしている!」

 突然浴びせられた大声で反射的に飛び上がりそうになった体が、本当に浮遊感に包まれて持ち上がる。一瞬の内に男たちのそばから離されて、何が起きたか理解するとワタシは抱きかかえられていた。片腕が腰と腿を支えている。

「偶川、この連中とはどういう関係だ」

 目の前にコーチの横顔。最近はいくらか見慣れたとは言ってもこの距離はドキドキする美形。しかもこの間と同じスーツに薄化粧だ。

 けれどそんな浮ついた心境に浸っていられる場合じゃなくて、普段から冷徹な眼差しが訓練の間以上に攻撃的な熱を帯びている。この人がワタシを苦しめるとは思わないけれど、少し怖い。

「ええと、この人たちは……この町の平均的な大人です」

「それじゃ、こいつらだけを叩いても仕方がないってわけね」

 地面に下ろされてもコーチはワタシの前に回り壁になってくれた。背が高くて脚が長い彼女が前に立つと私の胸の高さに彼女の腰が来る。小さな子供が甘えるようにベルトを掴み、今になって怖さが沸き上がってきて涙が滲んだ。

 ワタシを守るコーチに容赦なく罵声が浴びせられた。余所者。女。コーチがこの町の男に侮られる理由はいくつもある。彼らはこの人がどういう人かを知らないから。知らないままに見下せる。

 けれどもコーチには時代錯誤なこの町のルールなんて関係がない。

「黙れ! ただでさえ忙しくてギリギリ胃が痛いときに、余計な問題起こしてどういうつもりだ。お前らにどういう事情があろうと私は先生だからこの子たちを守る。教育に悪い大人をこの子たちに見せたくもない」

 ぐっと肩を抱かれ、身を屈めたコーチの唇が耳元へ近づいて吐息が触れる。

「私の故郷も田舎だし、ここがどういう所かは大体わかった。……もうちょっとだけがんばれる? この連中があなたたちに二度と手を出せないようにしてあげる」

 それはどうかコーチの立場が危うくなる方法であってほしいと祈っていると、練習場の中にいた二人の所へ連れて行かれた。

「あなたたちはどうして部長を一人にしたかは……ああ、そういうこと」

 竜ちゃんは遠くの怒鳴り声に怯えて縮こまって震えていた。愛近先輩がそれを慰めつつ怒っている。

「あの連中ぶっ飛ばしてやりたいですわ! 教官、スタンプの的にするのはいかがかしら」

「危ないこと言わない。イデアエフェクトで一般人を襲うなんて大問題じゃないの。永久追放されたいの?」

 コーチに理性が残っていてホッとする。

「でもそれなら、一体何をするつもりなんですか?」

「普通の訓練をするだけよ。……コラ! 勝手に入ってくるな!」

 端末をコーチが操作しながら観客席のおじさん連中を牽制すると、その間に練習場を防護幕が覆った。半透明の仕切りを不気味がって入って来ようとはしなくなったけれど、コーチが言った「手出しさせない」とはこういうことじゃないと思う。訓練が終わったら解除されるものだからその間しか効かない。

「さあ、コンフリクトをするよ。……まとめてかかって来なさい」

 急に何を言い出すのかと驚いたけれど、どうやら本気らしい。


 種目、コンフリクト。三対一マッチ、訓練試合。

 開始早々「今が復讐の好機」といきり立った愛近先輩の突撃があっさり止められて地面に潰される。そこを狙った竜ちゃんも小さな動きで弾かれた。

(……やっぱりコーチって、動きの間に隙ができないなあ)

 一対多数を想定し慣れているのか次への意識を手放さない。今も攻撃の準備を整えたワタシを視線で制してきている。「試してもムダ」と目が語る。

 だからと言って怖気づいて固まってはいられない。スナイパーのワタシがコンフリクトで果たさなくてはいけない務めは牽制。

 未熟なうちはしっかりと溜めを作る動作があったほうがいいというアドバイスに従って、攻撃のイメージでワタシが転換した武装は弓。引き絞った弦を離し、放つ。

 弓手としての技量が無くても矢は思った通りの軌道を描く。未成質量の武器はそういういものらしい。イメージが先にあって、それが実現する。

 だから矢がコーチの足元に当たって弾けたのは狙い通りの結果だ。わざと愛近先輩の近くで炸裂させて、彼女が体勢を立て直す間を作る。

 コーチは地面を蹴ってその場を離れた。どうにか形になっただけのワタシの攻撃だけれど、「当たっても利かない」と開き直られたら戦術の訓練にはならないからそうしてくれたのだと思う。

 遠慮なく、逃げるコーチを追って矢を放つ。途中復活した愛近先輩と竜ちゃんも加わったけれどやっぱり歯が立たなかった。

 こうして遠目に見ていると、やっぱり養成学校の教育は凄いんだなということを実感する。学校で不良を撃退した愛近先輩と同じように、コーチはイデアエフェクトだけじゃなくて単純に体の使い方がうまい。上体を前後に傾がせて衝撃を和らげたりタイミングをずらしたり、足の置き場所一つで巧みに翻弄する。

(相手の視界にどう映るかを意識してるのかな? がばっと接近して顔の前を塞いで、横からガツン。横移動や屈んで消えて見せて、追いかけてきたとき死角になる場所からガツン。みたいなのを何回か見たな。あっ、また――)

 続けて移動していたコーチが回避の手法を変えた。放った矢が篭手で弾かれ後ろの防護幕にぶつかりバチンと派手な音を鳴らす。

 これは訓練だ。コーチがワタシの実力が足りないことを責めないのなら、戦法のほうが間違っていることを教えてくれている。

(「思考と体を止めるな」って教わったけど……これ以上、他に何をしたら?)

 竜ちゃんと愛近先輩はもう散々やられてノビてしまっている。加勢は期待できない。連射を続けるほどワタシが獲得した未成質量は減って、どんどん攻撃力は衰えていく。

 とうとう出し尽くして、保っていられなくなった弓が消えてしまった。無防備になった時点で失格し、ワタシの周りにも防護幕が発生する。

 そうして全員がリタイアになった途端、コーチは「終了」と吠えた。いつも気だるげに見えるくらいにゆっくりと動くコーチが今だけは雑で、イライラしているのがよくわかる。

(ああ……理由はわかんないけど叱られる……)

 結局は「都会の人でも不条理を振りかざすんだ」と悲観していたら、しょぼくれたワタシたちが集まったところでコーチは急に後ろを振り返り満足そうに胸を張った。

「どうやら狙い通りになったようね」

 何のことかと思えば、防護幕が消えた向こうで観客席からおじさんたちがすごすごと出て行くところだった。ちらっとこっちを肩越しに振り返って、ワタシと目が合うとサッと顔の向きを戻し駆け足で停めてあったトラックに乗り込んでいく。エンジン始動から車が動き出すまでも早い。

 そう言えば、コーチが止まってワタシが攻撃を繰り返した位置は観客席の正面だった気がする。コーチが矢を弾くたびに防護幕が派手に作動するあの衝撃を目の前で見せられて、理屈もわからないのなら余計に恐ろしかっただろう。野球でファールチップが飛んでくるのとはちょっとワケが違う。

(ああ、コーチの狙いってコレだったんだ)

 練習風景を見せてたっぷり脅しをかける。イデアエフェクトは凶器と同じなので怖ろしいことをするつもりはないけれど、「その気になればこういうことができる」と伝わったはずだ。

(しれっとそういうことするんだもん、コーチは中身もカッコいいなあ)

 お礼を言おうとすると、ギロリと睨まれ竦み上がった。

「偶川、なんだ? さっきの工夫のない戦法は……!」

 血が凍りそうな低音を聞いて、なぜそうかがわからずに「自分が叱られている」ということに気付くまで時間がかかった。

 その間にダメージから回復した愛近先輩が起き上がり、「こういう女でしてよ」と察した風にため息をついた。


 場所を宿舎に移し、土間でロンデさん作の木工椅子に座り二人きり向かい合って話をしようとすると、コーチはまず頭を垂れてワタシを拝み始めた。

「すまん。最初は本当にあの中年たちに『偶川の凄いところを見せつけてやれ』と思って始めたんだ。だが決め手になる攻撃をしてこないことに段々腹が立ってしまって……」

 コーチはかなりお疲れのようで、夕暮れ近い日が頬に差し込んでいるのに顔色が青白い。目の下にはクマがあって、横になったらスッと寝入ってしまいそうだ。

 そういう健康状態でもワタシたちの為に時間を使ってくれる。さっきはそれなりにがんばったつもりだし助けてくれたと思っていたから叱られたのはショックではあるけれど、ワタシは生徒で相手はコーチなので説教は聞くのが筋だ。

「どの辺がダメでしたか? そんなに期待されてもワタシまだそんなに色々できることはないんですけど」

「実力が他の二人に比べれば劣ることはわかっているから攻撃の強度・精度について言及するつもりはない。ただ、だからこそ頭を働かせなくてはいけないのにそれを途中で放棄しただろう? 『できることを精いっぱいやればいい』というのは勤勉なようでいて思考の怠慢なんだ。チームメイトを信頼し、牽制するにしても強弱を混ぜて未成質量を温存しなくてはいけない。いっそ相手を誘導、自分が試合を作るくらいの気持ちで――」

 指導を受ける立場でいるからには黙って聞くつもりでいたら、想像以上にくどくどと語られて段々と腹が立ってきた。

(コンニャロ、指導を買って出ておいて留守がちにしてるくせに。困ってるときにカッコ良く現れたくらいじゃチャラになんてしてあげないんだから。……そりゃメチャクチャカッコ良かったけど)

 今もやや虚ろとは言え、やつれた雰囲気がかえって色気漂う目元に見つめられていたら気を抜くとポーッとしてしまいそうになる。

(ワタシは竜ちゃんみたいにチョロくメロメロになったりしないんだから……!)

 決意を固く新たな気持ちで向き合うと、コーチの口調は変化していた。訓練のときと同じ固く圧を感じる低音ではなく、つらつらとクダを巻く酔っ払いのような気の抜けた声。

「うん。だからね、偶川はがんばってるとは思うんだけど、そのがんばりの方向がなんか惜しいというか、ガマンしてるじゃない? 『それでいいの?』って思っちゃうのよね」

 顔を近づけてもアルコールの匂いはしない。ここに戻るまでにどんな仕事をしてきたのか、朦朧とするほど眠いか疲れてしまっているようだ。ただ単に思い浮かぶままを喋っている風に見える。

「しんどい環境に生まれついちゃったのはわかるけど、それでもあなたの人生なの。あなたの部活なのよ。『死ぬ気でやれ』なんて求めるつもりはないけど、一歩引いて耐えちゃうのは違うんじゃないの」

 こんな状態で初めて聞くくらいだから普段は抑えていた本音なんだと思う。支離滅裂ではあるけれど、ワタシの心をくすぐる。

(ワタシが『竜ちゃんの付き添い』みたいな感じで部活に参加しているとしか思えないから、教える側としては歯痒いのかなあ……)

 部活づくりを考えていた当初は確かにそうだったけれど、今はもうそんなつもりはない。何しろイデアエフェクトがもの凄いものでそれを操るコーチや勇者という強烈な存在に感化されたというのもあるし、何より編入試験がチーム戦になるそうなので勝敗が評価に繋がる以上〝数合わせ〟に甘んじて竜ちゃんの足を引っ張りたくない。

 そのうえで懸命さに欠けて見えるのなら、それはチームメイトに理由があると言い訳させてほしい。

 愛近先輩は既に一年間養成学校で鍛えられた実績があるし、竜ちゃんはなんだかんだで〝イデアエフェクトの申し子〟のようなところがある。そんな二人と並び立てなくても卑屈な気持ちが湧いてこない。というか比べられても困る。そもそも習い始めで半年も経たないうちに試合に出ようとするのがムチャだということはコーチが言ったことだった。

 でも、そのムチャを通すからこそ養成学校に対して優位に立てると語らない部分も伝わってくるから内心は複雑になる。

 下手をすると地方教育の価値がワタシの肩にかかっているかもしれない。そう考えると少々窮屈さを感じた。

(どうせワタシはずっとこの町で暮らしていくのになあ……)

 だからこそここを飛び出して行こうとする竜ちゃんが眩しくて妬ましいし、そうするしかないと知っているから応援したくもなる。将来三局戦況のプロ選手になって活躍する竜ちゃんの出場試合を観るのが今のワタシの夢だ。

 それなのに、コーチはとんでもないことを言い出した。

「私思うんだけど偶川もプロ選手になったらいいじゃない」

「……はい?」

 想像もしないことを言われて固まった。コーチは乱暴に短い髪をかきながら続ける。

「なけなしのコネで他の道を世話することもできるけどさ、気が進まないというか……。あなただって今イデアエフェクトの教育を受けていて養成学校に挑もうとしてるのよ。連別府と立場は同じなんだから連別府が認められたら一緒に編入したって何もおかしくない」

 そんなわけはない。おかしなことだらけだ。

「ムリですよ、そんなの。言ってませんでしたけどうちの親はこの辺りの組合のボスで、ワタシの将来は大人の付き合いの結束を強くする為に使われるんです。駅からここまで運んでくれたり荷物を運び込むの手伝ってくれたおじさん憶えてます? あの人、ワタシの婚約者と言うか婿候補の一人です」

「……そういうのを当たり前みたいに話すのが、もうさあ……」

 ため息をつかれた。ワタシへの哀れみだ。思わずムッとして言い返す。

「そんなこと急に言われたってワタシにはワタシの人生があるんですよ。ムリ言わないでください」

「三局戦況の部活を作ることだってそこそこムリがあることだったのよ。時間がかかっていたら妨害もあったろうしきっと色々間に合わなくなってた。それをあなたは一日で形を作るまで成し遂げた。急でムリなことをどうしてやったの。連別府の為? 違うわよね、あなたはあなたがやりたいことをやったの。あなたは行動できる子なの」

 何を言われているかよくわからなくて、沈黙するしかなかった。

「大体ねえ、家を継ぐとかの話だったら私だって温泉旅館の一人娘だったわよ」

「……えっ、実家を放り出して来たんですか?」

 信じられない想いで沈黙を大声で破った。コーチは唇を広げて笑う。

「そうよ。『養成学校に通えないなら死んでやる!』って暴れて、止める親族一同全員に言葉通り噛みついて、最終的に家出同然よ」

 これは意外な過去を聞いた。

 そう言えば今だってまだ新興の競技なのに、この人が進路を選んだ時にはそれこそ「できたてほやほや」だったはずだ。危険もある競技で女。プロになれるかもわからない。反対されるに決まっている。にもかかわらずそこまでして飛び込むだなんて、コーチは竜ちゃんよりよっぽど激情家だ。

「結局さ、家業は親戚の欲のある連中が大喜びで継ぐ予定が立ってるらしいし、なるようになるのよ。私が実家に合わせる顔がないと思ってるのは放り捨てて飛び出したことじゃなくて、そこまでしたのにモノにならなかったから」

 今度のため息は、彼女自身に向けたものだったように感じる。

「だからしがらみとか気にしないで、したいようにしていいのよ」

 寂しげな物言いはワタシのせいかそれも彼女自身の為か。わからないから納得できない。

「こう言っては何ですけど……うまくいかなかった話を聞かされて、『ようし、ワタシも当たって砕けよう』という気にはあんまりならないと思います」

 この指摘は自分でも意地が悪いと思うけれど、そこを考えに入れずに自分が歩んだ道に誘うのはズルいと思うから、聞かずにはいられなかった。

 コーチはいかにも「おかしなことを聞く」という風に眉を寄せた。

「だってあなた、失敗してもリスク無いじゃない。私は地元の高校に通いながら引き続き家業を覚えるように言われていたけど、あなたが求められているのは地元の結束を強くする〝婿取り嫁〟としての役割だけなんでしょう? だったら養成学校で三年間無駄にしたとしても、そのあとこの土地に戻って婿を取っても損が無い」

 あんまりな物言いだ。疲労で剥き出しになった本音が配慮まで押し出してしまっているらしい。いっそ清々しいくらいで、笑ってしまった。

(確かに、その通りだなあ……)

 笑い声のあと思い切り息を吸い込んでゆっくりと鼻から抜く。いつからこもっていたかわからない、肩の力みが抜けていく。

「一つ質問していいですか」

 声は出さず、コーチが喉を鳴らす。ほほ笑んで首を傾げる仕草は普段の印象と違ってなんだか可愛らしく見えた。

「コーチは、自分の決断を後悔していませんか」

「……したことも、あるわね。憧れの人物がヒモだったときとか、三局戦況のルール変更とか、自分より成績が悪かったはずの同級生が卒業式で捨てセリフ吐いて言い返せなかったときとか。でもね、今はしてないのよ。この道を選んで良かったって心から思ってる」

「どうしてです?」

「あなたたちと出会えたから」

 そんなことを言われたら、もうこの人の思う通りにしか決められない。ドギマギしてむやみに髪の先を撫でたり服の裾を引っ張って広げたりしてしまう。

「あなたが真実大切に想うことだけにこだわって答えなさい。――偶川依風、あなたが三局戦況のプロ選手になりたいかどうか」

 頬を撫でられながらの改めての質問に、深く頷く。

「……なりたいです。コーチ、ワタシは三局戦況のプロ選手を目指します」

 口に出してみれば晴れやかな気持ちになれた。

 暴力的な魅力に従わされたような気もするけれど、そうじゃなくて多分、振り返ればコーチと話す間に少しずつ自分の殻を剥がされていっていたんだと思う。

(ううん、最初に壊してくれたのは竜ちゃんかな)

 ワタシはずっと環境に合わせて行動してきて、それが自分の意思のつもりでいた。求められる役割があるのならそれをこなすことは嫌なことじゃなかった。ガマンとも感じなかった。今考えると昔の竜ちゃんにあんなにもイライラしたのはワタシの生活環境を破壊する外来種だったからかもしれない。

 それから竜ちゃんが少し変わって、ワタシはそんな竜ちゃんも生活環境に取り込んだようで、少し変わった。三局戦況部を作る手伝いをしたのは元々性分のうちではあるけれど今回コーチにもう一度破壊されて、とうとうワタシの世界は開かれた。

「『和を以て貴しとなす』と言うけれど、どこでその〝和〟を築くかは選ぶことができるんですね」

 他の人には当たり前のことかもしれないけれど、ワタシにとっては感動すべき新発見だ。

(今日からはニュー偶川依風……フフフ)

 密かにテンションを上げていたら、目の前のコーチは逆に直滑降していた。真っ青になっている。

「え……あっ? もしかして私、言わせちゃった? 今までより訓練でムリさせることになるし、進路を誘導するのはよくないからなるべくそそのかさないようにって決めてたのに」

「そんなこと考えてたんですね。……って、えっ? 訓練今よりキツくなります? 今でも結構大変なんですけど。特にメンタルが」

 訓練のたびにさっきの調子でダメ出しされたら心が持たない。それに多分、この人はそういう方面で手加減ができない。

「それはだって、一年後には愛近以上の水準になれないと困ることになるもの。年々卒業生がプロリーグを強化していくんだから、あなたが卒業する時点でプロチームへの加入はかなり厳しいものになるのよ?」

「あのー……さっきの一大決心、無かったことにしてもらっていいですか」

「いやさっきは気が進まないとか言っちゃった気がするけど、プロリーグ以外にも進む道はあるのよ」

 それからコーチはイデアエフェクトの有用性について語り出した。内容は先日コーチが放送で話していたことと少し被る。

 近いうちにイデアエフェクトによる犯罪が起こり始める→取り締まる警察機構にもイデアエフェクトの捜査員が必要になる→成り手が少ないのでほぼ確実に公務員になれる。

「そっちの話のほうがよっぽど聞き応えあるじゃないですか」

「えっ? だってこんなのプロ入りの夢に比べたら霞むでしょうが」

 さすが人生すべて投げ打って挑戦した人が言うことは違う。安定になんて目もくれない。

「あー……コーチって結構バカなんですねえ」

 もう「言ってしまえ」の精神で思い切って言葉にすると、コーチはショックを受けた顔をして項垂れた。

「私よりよっぽどしっかりしているあなたの言葉だから、甘んじて受け入れるわよ……」

 ワタシたちの指導を真剣に取り組んでくれていることには感謝しているので、それをまず先に伝えてから、この際ここしばらくの不満をぶつけておくことにした。

「コーチがワタシたちの為に色々と考えてやってくれていることにはお礼を言います」

「その続き聞きたくない気がするんだけど……」

「最近留守が多くありませんか?」

「それがね、自分でも予想してなかったくらい忙しくなっちゃってるのよ。……留守中の指導はロンデとアムリラに任せてはいるけど……充分とは言えないのは今日確信したわ。ごめんなさい」

 ため息が深い。本当に反省しているようだ。

「……アムリラはどうも昼近くまで寝ていることが多いみたいだし、ロンデが保護者・引率者として信頼できるなら、さっきみたく町の大人たちの応対をあなたがするようなことにもなってなかった。イデアエフェクトの技量しか気にしなかった結果ね」

 こんなにカッコいい大人がしょげている。ちょっと面白い。

「そんなことはどうでもいいんですよ」

 見当外れを指摘するとコーチは落ち込み過ぎて崩れ落ちそうになった。

「えぇっ? わかんない、わかんない。私わかんない」

「指導に問題があるなんて言いませんよ。『キツいな』って思ってるくらいだし。町の問題だって部活動でどうにかしてもらおうなんて、お門違いもいいところじゃないですか」

「だったら何をどうすれば良かったのぅ?」

 コーチは本当にわからないらしくて、完全にグロッキーになっている。とても単純なことなのに。

「竜ちゃんがですね、コーチに構ってもらえなくて寂しそうなんです。とても不満です」

「あなたは最初からずっとそれね……」

「それが始まりですし。竜ちゃんがんばってるんだから、褒めてあげてください」

「……わかった。それならちょっと考えてみましょうか」

 それからしばらく話し合った結果、少なくとも三日に一度は今日のようにコーチと実戦訓練をして、そのあと講評として面談を行うことが決まった。竜ちゃんが相手をしてもらえたらそれでよかったのに、ワタシまで同じことに付き合う羽目になった。同じ部なのだから当たり前ではあるのだけれど。心が持ちそうにない。

「説教は仕方ないですけど、褒めていいところは褒めてくださいね」

「私あんまりそういうことしたことないのよねえ」

「あの、養成学校で先生してたんですよね? ……ああ、スパルタでしかやってなかったんですね。想像つきます」

「スパルタですらやっていなかったのよ」

「もしかしてコーチって友達いない?」

「失礼ね。友人関係は向こうから寄ってくるから悩んだことないわよ。学生時代はいつも誰かしらそばにいて、追い出さないと夜になっても寮の部屋から出て行かなかったくらいなんだから。毎晩誰かしら私の布団を温めに来てたし」

「それ絶対友情じゃないです」

「そう? 愛近も『連別府さんと一緒に寝たいですわ』とか言ってたわよ」

「あの人は友情を間違えてる代表みたいなところがあるから比較対象にするのはどうかと。褒め方は……子供扱いは思春期としては微妙ですけど、甘やかしてくれたらいいと思いますよ。竜ちゃんスキンシップ好きですし」

「私、下のキョウダイいないし、年下の面倒とか見たことないのよね。甘やかしかあ……」

 不意に、コーチが身を乗り出してきてワタシの頭に手を乗せた。

「偶川は良い子良い子」

 撫でられて、髪の手入れに気を配っていないことを後悔する。顔が近づいて目やにがついていないかと心配にもなった。顔が間違いなく赤くなっているのはどうしようもない。

「他にスキンシップって言ったら……こう?」

 動揺から抜けないうちに今度は抱き締められた。ますます心臓が高鳴る。

「偶川は良い子良い子、良い子ねー」

「ふわわっ、コーチ! もう相当朦朧としてません? 判断力失ってます!」

 見て感じていたよりもっと悪い状態らしい。この状態が続いたらワタシまでどうにかなってしまう。

「ねえ、甘やかし方ってこれでいいかしら?」

「コーチは自分の甘やかし方もわかってないみたいですね。いいから横になって休んでください! このままだとワタシ、エスカレートした要求をしそうです」

「これ以上? そうね、昔せがまれたけどおでこにキスくらいは偶川になら別に――」

 話してもムダと判断して抱き着かれたまま居間の段差へと寄り切り、畳んだ布団の上に突き倒す。

 そのまま寝息を立て始めたのを見てため息をついた。

「竜ちゃん……とんでもない人に憧れてくれたもんだよホント……」

 気の抜けた寝顔を見下ろし、少し未練を感じながら宿舎を出た。



 三局戦況部が始動して、更に数週間。季節は冬に移り代わろうとしている。

「あ~……あったかいシチューがありがたいねえ」

 学校の給食時間。三人分の机をくっ付けて給食を食べる。

 あれからコーチも用事が落ち着いたのか訓練に参加する時間が増え、定期的に接する機会ができたことで竜ちゃんはずっと機嫌が良くなった。留守の間も「次はこんな戦法を試そう」と積極的に勇者二人に相談なんてしている。

 ワタシのほうはまあまあ上達して、未成質量の獲得が安定するようになったとお墨付きをもらったのが昨日のこと。成長速度としては平均的なところらしいけれどコーチは不満そうなことをチクチク言うので適度に聞き流している。

「いいからパッパと食べて自主トレ行こうよ。晴れてるから外でやらない?」

「おっ、いいねえ! 依風ちんやる気だねえ」

 プロリーグの試合動画を参照しながらの戦術研究や体力作りは学校でもできるので、教室でも廊下でもとにかく暇を見つけては取り組んだ。特に昼休みは一番大きな自由時間になるから最重要。給食を片付け次第各自昼休み、ということになっているのでどうしたって急ぎたくなる。

 なのに、愛近先輩の動きが鈍かった。目つきがどんよりとして生気がない。気品だけはすこぶるあった態度が見る影もなく、背中も丸まって全体的に弱々しい。届いてすぐ冬用に切り替わった真新しい制服まで心なしかくたびれて見える。

「愛近先輩、もしかして寝不足ですか? 午前の授業中ずっとウトウトしてましたよね。先生にも気づかれてましたよアレ」

 とにかく早く訓練がしたい竜ちゃんが愛近先輩の口へスプーンを往復させているのを止め、飲み込むタイミングが無くてシチューで溺れそうになっていた愛近先輩を助ける。

「実は少々……夜、眠れませんの」

 口元をハンカチで拭うさまは気鬱げで、思い悩んでいる風に見える。このチームは誰か一人寝不足じゃないといけない決まりでもあるんだろうか。

 愛近先輩はワタシたちと同じスケジュールで動いているから、夜になったら普通は疲れでグッスリ眠るはずだった。違うところと言えば宿舎に泊まっていることくらい。

「まさか星南さんと二人で夜の秘密特訓? いいなー! あたしもそれ混ざりたい!」

「竜ちゃん言い方……!」

「そんな、違いますわよ。あの女は夜も半分くらいは留守ですし、いても用を済ませたらすぐに眠ってしまいますもの」

 愛近先輩がコーチから特別に訓練を受けている――と言うよりも愛近先輩だけが付いていける特別な訓練はありそうだと思ったのに、違うらしい。

「じゃあ眠れない理由は――ホームシックとか。……って、あれ? でも先輩って元々寮暮らしだったんですよね」

 端末で「バーチャル帰郷」とかそういう類のアプリを捜そうとし始めた操作を止めて、養成学校の入学案内を思い出す。

「ならホームシックは無いか。それじゃあ……うーん、めんどくさいな。竜ちゃん、ハグ」

 指示に応えて竜ちゃんが抱き着くと、途端に愛近先輩はデレデレと表情を崩した。

「ちょっ、いけませんわ連別府さん。こんなところで……」

 とても嬉しそうだ。しかし元気になってはいない。どちらかと言うと霞んで昇天してしまいそうに見える。

「劇薬も効かないか……。あとは何かおかしなもの食べたとか? でもワタシたちも同じもの食べてるんだからそれはないよね」

「いえそこは疑問を持つべきでしてよ? もうひと月以上毎晩焼き肉なんて、常軌を逸していますもの。ですが今はそれよりも普通に理由を聞いてくださらない? 貴女部長だか何だか知りませんが参謀気取りも大概にしていただきたいですわね」

「いやそっちこそ普通に相談してくださいよ、めんどくさい。竜ちゃん、もういいよ」

 離れて行く竜ちゃんを名残惜しそうに目で追って、愛近先輩は深く息を吐くと俯いた。

「あの宿舎では……落ち着いて眠れませんの。正確には二日目からですわね」

 初日はコーチが急に出かけてしまったのでワタシと竜ちゃんも加えて三人であの宿舎兼休憩所に泊まった。あの夜は問題なく、大興奮で竜ちゃんと添い寝していたのをよく憶えている。あれはあれで落ち着いて眠れたようには見えなかった。

 そのときとそれ以降と、決定的な違いはわかりやすい。二日目からはコーチがスカウトしてきた、あの二人の勇者も泊まるようになった。

「もしかして酒盛りしてる? ネットの情報では『勇者ロンデは酒飲みだ』って、けど『そんなに騒がない』とも書いてあったけどな。ねえ?」

 竜ちゃんに同意を求められて頷く。

 アムリラさんのほうは未成年なのでアルコールは飲まないし、ロンデさんが静かに缶ビールを空にしている隣でニコニコ世話を焼いているところしか見たことがない。ワタシたちが知っている町の大人たちが集まる酒盛りとは全然違うお酒の楽しみ方で、なぜだか感動したくらいだ。

 ワタシたちが帰ったあとで急に盛り上がるとは考えにくいし、あの調子のままならすぐ横で続いていたって問題なく眠れそうな気がする。

「騒がしいんですのよ。……そう、物理的には」

「物理的って……精神的な騒ぎ方があるの?」

 意味がわからないので質問すると愛近先輩の頬がぽっと赤らんだ。なぜだか照れている。

「騒がしくする、その内容が――ちょっとお耳を貸していただけるかしら」

 一旦竜ちゃんの方を見て、それから何か思い直した様子でこっちに顔を向けてきた。第二候補にされたことでヘソを曲げる理由もないので、素直に顔を横へ向けて耳を差し出す。

 手で覆った中に潜めた声を聞かされ、ワタシの頭の中には疑問符が浮かぶ。

「……『致す』って、何を?」

「ですから、あの二人は大人で、夜で、その――致しますのよ!」

 内緒話にするのを忘れた愛近先輩が声を膨らませて、やっとわかった。真実がわかればワタシの察しが悪かったと気まずいくらいだ。

「あ~……そういうことですか……。物理的というか、官能的?」

 ワタシも顔が熱くなって、赤面しているのが分かる。竜ちゃんにも伝わったようで引きつった顔で空笑いをしていた。どう反応していいのかわからないらしい。

「……あの二人、恋人同士だもんねえ。部屋は襖で区切られてるだけだし防音なんて……えっ、毎晩? うるさいほど? それってあの、どっちが? ところでアムリラさんっていっつも昼まで寝てるよね!」

「食いつかないでいただけませんこと?」

 だってやっぱり気になる。思春期だもの。

 そしてそれは竜ちゃんも同じらしかった。ただし好奇心は別角度。

「星南さんもそれ聞いてるの? どんな顔して?」

「あの女は横になって『おやすみ』から秒で入眠ですもの。揺すってもちっとも起きませんし、声なんて聞いていませんわ。相談しようにもこんなこと、聞き入れてもらえたって気まずいじゃありませんか」

「それは教育に悪過ぎるでしょ……。わかりました。部長としてコーチに環境改善を訴えてみます。それでも変わらないようなら教えてください。直接二人に話しますから」

 とは言え、「控えてください」とは言いづらい。どう伝えたものか。

 考えている間に三人沈黙してしまって静かに給食に戻る。そのうち、竜ちゃんの目つきがギラギラと輝き始めたことに気が付いた。

「……あの二人が強いのって、そのせいだったりしないかな」

「何言ってんの竜ちゃん」

「だって勇者なんだよ? 意味があってしてることかもしれないじゃん」

 愛近先輩は「ならやめてくれないかもしれない」と呟いて絶望的な顔をした。竜ちゃんがおかしなことを言い出しただけなのに納得して諦めるのが早い。相当まいっている。

「あのね竜ちゃん? その理屈だとコーチだってその、大変なことにならない?」

 勇者じゃないけれど三局戦況を壊しかねなかった、未デビューにして伝説の人物。その伝説級に、凄いことになる。

 だから違う、と言う意味での反証だったのに、竜ちゃんの瞳は輝きを増した。

「そうだよ、きっとそうなんだ。だって星南さんハチャメチャにモテるんだよ? 毎晩寮の部屋に女子生徒連れ込んでたってネットに書いてあった」

「いやネットの情報を鵜呑みにするのは……」

 それにその噂の真相は当人から聞いている。女子生徒は勝手に押しかけて来ていただけで、コーチ自身はその意味も理解していなかった。薄々感じていたことだけれど、竜ちゃんはコーチにそういう願望がありそうだ。

「あたしも星南さんにしてもらいたい」

「竜ちゃん何言ってんの?」

 案の定な発言だったのに、やっぱり驚く。竜ちゃんはむしろ冷静に頷いているから怖い。

「ほら女同士なら〝伝導ディルドー〟だっけ? アレ使わなかったら妊娠しないし」

 同性のカップルが妊娠を望む場合、男同士なら人口子宮に任せることになるけれど、女同士ならそのときに専用の器具を使えば比較的簡単に受精・妊娠できる。その器具が伝導ディルドーと呼ばれるもので、男役側から遺伝子情報を取り出して女役側の卵子へと届けてくれる――と保健体育で習ったことを思い出しているそんな場合じゃない。

 愛近先輩がシクシク泣き濡れている。その悲しみもどうかと思うけれど、さすがに可哀想だ。話が聞こえていたクラスメイトもドン引きしている。

「いいから早く食べて訓練行こうね! ワタシたちは健全な部活動をしているんだよ!」

「そうだね。がんばって褒めてもらってからのほうがご褒美でしてもらえそ――むぐっ」

 まだ余計なことを言う竜ちゃんの口にパンを突っ込んで黙らせた。


 昼休みの自主練は竜ちゃんが張り切っていたものの、格闘の手ほどきをしてくれる愛近先輩が放心して動かないので仕方なく戦術討論をして過ごした。

 放課後になっても愛近先輩が現実に帰って来ない。「今日の訓練はうまくいかないかも」と悲観していたら練習場で待っていたコーチに竜ちゃんが「抱いてください!」と叫んだせいで決定的になった。

 でもそれを聞いたコーチが顔を真っ赤にして照れた顔は意外に可愛かったので、それだけで今日一日が報われた気になった。ワタシもどうかしているかもしれない。

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