第523話 諦観の世界

 集落から更に山を登ったところに家があった。崖に立て掛けるように建てられた家で、村長の家でも様々な漂流物で作られていて黒ずんでいるから辛うじて統一感が生み出されているが新築の頃はちぐはぐ感が凄かっただろう。それなのに主の意向が染み込むのか茶人が好む庵の静謐を感じる。

 戸を開けて中に入ると机が置かれた広い土間とそこから一段上った床がある広い一部屋があるのみ。日本昔話に出てくるような江戸時代の農民の家って感じで今なら古民家とか洒落た感じで呼ばれている家の構造をしている。茣蓙や畳は無く床は板敷きだが布団が畳まれて置かれている。

 長という立場からの来客用か机は大きいが、長の割に全体的に質素な暮らしぶりだ。それともこれがここでの最高の贅沢な家なのかもしれない。

「どうぞ」

 俺達が長に言われ適当な席に着くと長は人数分の木彫りのコップを出してくれた。文様が刻まれ普通に民芸店で売っていそうな出来だが、この人数分の統一感はある。この数が偶然漂流して来たとも思えないので、ここで作った可能性が高い。こんな地でも意外と文明的なことをしているんだな。 

 コップの中にはお茶とかの類ではなく水が入っていた。だが本当に水なのか? 青の湖の水じゃないよな。

 ここで迂闊に呑む奴は流石にいないだろう。

「ありがとさー」

 陽菜が止める間もなく速攻で美味しそうに呑む。

 まあ皆が警戒して呑まなかったら心証が悪くなるのでありがたいが、この少女警戒心がないのか?

「ぷは~」

 陽南が水を飲みきり

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 ・

 ・

謎の数秒間の沈黙。

 よし何も起きないな。それでも用心の為俺は飲まないでおくが、ちらっと他のメンバーを見ると熊野さんと野田は礼儀からか恐る恐る口を付けていた。このままだと俺の心証が悪くなりそうなのでさっさとそれらしく口を開く。

「水が手に入るのですね」

 まあ水が手に入らなければ人は死ぬのだから、この島に人が生きている以上手に入るのであろう。

「ええ、たまに雨が降りますのでその際に溜めます」

「なるほど」

 雨水なのか、鯨の胃で降るなら胃酸の可能性もあるが深く考えない方がいいだろうな。それにしても川とか井戸はないのか、いや早計だな。まだ俺達に隠している可能性もある。初対面の余所者に集落の生命線である水の場所を迂闊に教えはしないだろう。

「それで何から聞きたいですか?

 私が知っていることは全てお教えしましょう」

 長は場が落ち着いたのを見計らって聞いてきた。

「随分と協力的なんですね」

 人の善意を信じない。裏を疑うのが俺の性分。それでいて敬意を持った態度は崩さないで腹の内を見せない嫌な奴。隣で素直に表情に出して顰め面している志摩の方がよっぽど人として好ましいだろう。

「それが私の役目ですから。

 全てを知り全てを試した後で無ければ我執を捨て去ることは出来ません」

「ここから脱出出来ないと言いたいのですか?」

 人のいい顔をしておいて中々辛辣なことを言ってくれる。

「私だって最初からこうだったわけではありません。貴方達同様来たばかりの頃はなんとしても帰りたかった。そんな私に惜しみない協力をしてくれたのは先々代の長。随分と迷惑を掛けましたが、そんな私が今や長をして同じ事をしているなんて因果ですかね」

 長が懐かしむように朗らかに微笑む姿からは悪意や裏を感じないが、最初に感じた達観は経験から来る悟りによるもので無く諦観の裏返しに近いのかも知れない。

「全ての希望を砕かれ諦める。ここは地獄門か何かなのですか」

「いいえ、ここは地獄へと通じてはいませんよ。青の世界へと行く前に僅かに与えられた猶予の世界」

 禅僧のような言い方で、長の俺を見る目には幼子を見る慈しみが感じられる。

 ここから脱出しようとしている俺は長には子供のやんちゃにしか見えないのだろう。

「そうだな。最初にそれを聞くべきでしたね。

 貴方達が言うこの青の世界とは何なのですか?」

 長と青の巫女、この世界で出会った二人が使用する共通の言葉。その意味は重要だろう。

「雲一つ無い澄み切った空の青と波一つ立たない水鏡のような海の青の間にある一切の不浄無く清浄なる世界、それが青の世界」

 ユガミは人の認識なくして生まれない。

 人は空の青と海の青に挟まれた先に海に生きる人々が悠久の清浄な世界を投影したことから生まれたユガミなのか?

「はっそれはおかしいな俺達人間がここにいるじゃないか」

 長の説明に今まで大人しくしていた志摩がもう我慢できないとばかりに割って入ってきた。会話に割って入ってくるなと言いたいが、興味深いテーマだったので黙って先を聞くことにする。

「それは青の鯨のおかげです」

「ああ、あの俺達を飲み込んだバカでっかい鯨のことか。そもそもあの鯨の所為でこんなところに俺達は連れられてきたんだぞ」

 志摩は青の鯨への怒りを長にぶつけている。八つ当たり以外の何者でも無いが、長は人間が出来ているのか志摩の怒りにすら朗らかな表情は崩さない。

「それは誤解です。

 青の世界は空の青と海の青が合わさった時現世に顕現する世界で、その時たまたま居合わせた人間が迷い込んでくるのです」

「はっ俺達が勝手に入って来たって言うのかよ」

 この状況が運が悪かっただけというのが納得出来ないようで志摩は怒りに困惑を滲ませている。見れば他のメンバーもなんとも言えない顔をしている。

 悪意を持ってこの世界に引き込まれたと言われたほうが納得はし易いし憎むことも出来るが、運が悪かっただけ、大地震にあった人間のようなどうにもならない無常観を突きつけられ感情の整理が出来ないのだろう。

 だが世の中、ただ単に不条理なこともある。

 理由も理屈も無いことに合理的解はない。なら仕方ないと割り切って最善手を模索するしか無い。

 それにしても長の言葉が本当ならあの青の世界や青の鯨のユガミに人間をどうこうする意図は無いということになる。

「そうです。

 そして迷い込んだ人間がどうなるか貴方達も見たはずです」

「あのシャボン玉のように弾けて消えた人間のことですか」

 実際に目の当たりにした俺が長に答えた。

 船の中にいた志摩や他の船員は何のことか分からなそうだが、陽南は悲しそうな表情をしていた。

「そうです。この青き清浄なる世界に迷い込んだものは、不浄を許さない青の世界によって一体化され浄化されるのです。ですが悲しむことはありません。一切の不浄が無き世界と一体化出来るのですから」

 生もなく老いもなく病もなければ死すら無い。

 素晴らしいがそれは己に自我があってのことだろ。自我がないのなら死んで無になったのと変わらないだろうが。

「シャボン玉になって弾けなかった人もいましたよ」

 その差は何だ、そこに脱出の糸口があるのかもしれない。

「元々の不浄の差です。あそこにいたら多少の差はあれほどなく皆さん青の世界と一体化していたでしょう」

「冗談じゃねえぞ。俺はそんな悟りなんぞ開きたくない」

 志摩が世俗に塗れた人間らしく文句を言う。

 まあ長に言っても無駄だと思うが気持ちは理解できる。

「そう人は誰しも最初はそのような反応を示す。

 天の慈悲なのか、いつの頃からは青の鯨が表れ青の世界に彷徨い込んだ不浄を飲み込むように成ったのです。ここでは外の青の世界ほど強制的に一体化は行われません。

 つまり青の世界と一体化するまで一時の猶予が与えられるのです。我々はその時までに心の整理をし備え、心穏やかにして青の世界と一体化するのです」

 長は人差し指を立てながら俺達を落ち着かせようと語る。

 本当か?

 そんなに好意的な理由でユガミが動くか?

 本当に青の世界が不浄を許さないのなら、不浄の塊の人間を強制的に一体化していったのでは激しい感情が迸り清浄なる世界が汚染される。だから飲み込んだ人間の不浄をある程度まで浄化する機関として青の鯨が生まれたんじゃないのか?

 まあ今は仮説に過ぎないが、いい線いっている気がする。青の鯨が浄化機関なら青の巫女のこの世界における役割は何だ?

「じゃああの青い姉ちゃんは何なんだよ」

 他のメンバーがあまりのことに口を閉ざす中果敢に問い詰める志摩は胆力はあるな。俺は一時思考してから質問しようとするが志摩は疑問に直ぐ様問う。

「あれはこの青の鯨の中で生まれた娘と伝え聞いています。青の巫女様はその為か青の鯨とある程度意思疎通が出来るようです」

 人間とも意思疎通できれば良かったんだけどな。

 それでもこの情報が持つ意味は大きい、これだけでも来た甲斐があった。ならばここらで核心を突いてみるか。

「単刀直入に聞きます。

 ここからどうやったら脱出出来ますか?」

「分かりません」

 長は俺達に対する気遣いをかなぐり捨てたように逡巡も遠慮もなく言い切った。

「私もここに来たばかりの頃は帰りたくて色々試しましたし、当時の長にも聞きましたが結局今では長をしている始末」

 まあある程度予想できた答えだが、現実を突きつけられ熊野さんとかの顔に更に影がさしている。志摩だけがかろうじて歯を食い縛り闘志を燃やしていた。

「話を聞いていますと、あなたも元々は私達と同じ世界の人間だという認識であってますよね」

「そうです。ですからあなたたちの気持ちも良く分かります」

「だったら俺達を帰せ」

「ですからそれは私には無理なのです」

 志摩がヤンキーのごとくメンチを切って長に問い詰めるが、長は子供をあやすように苦笑いをしながら流すのみ。

「私にはと言いましたね。青の巫女なら出来るのですか?」

「見たと思いますが青の巫女様はこの世界で人には不可能な超常の力を振るいます。彼女ならあるいは可能かもしれません。ですが我々は彼女とまともに意思疎通出来たことはありません。我々が頼みを言っても理解出来ているのやら」

 小佐野最後は今までと違い歯切れが悪い。なるほどそれが長に残された諦めきれない最後の希望、もし青の巫女と意思疎通が出来たら助かるかも知れないという希望をどうしても捨てられないでいるようだ。

「あの女はどこにいる?」

「青の巫女様はこの島にいるときはこの上の神殿にいます。ですが彼女に手荒なことはしないでください」

「馬鹿にするな。女に手を上げたりしない。頼むだけだ」

 志摩はこう言っているが実際手を上げたら海賊女同様問答無用で浄化されるだろう。

「そうですか安心しました。他に聞きたいことはありますか?」

 この長の様子、過去に青の巫女に暴力で訴えた者達がいたのかもしれない。結果はまあお察しのとおりだろう。

「フェリーにはまだ人が2~30人残っています。その人達をこの集落で受け入れることは可能ですか?」

 一応船長から貰った水と食料の分の借りは返しておく。

 そんな俺を志摩が驚いたような顔で見ている。

「なんだよ」

「お前が他人を気にするなんて意外すぎてな」

「借りは返す主義だ」

「少し苦しいですがなんとかなるでしょう」

 見るからに物資も水も不足してそうな集落にいきなり30人近くも加わったら崩壊してもおかしくないだおろうに、長は受け入れを承諾してくれた。

 これも諦めからくるのか善意なのか。

「そうですか感謝します。

 それで悪いのですが青の巫女の神殿への道案内を誰かに頼めませんか?」

「ええ大丈夫です。受け入れ準備は補佐にさせておきましょう。青の神殿へは私が案内します」

「長自ら積極的だな」

「それが長の役目。言い方は悪いですが貴方達の希望を砕いて早くここに馴染んで貰いたいですからな」

 協力して新たなる可能性の俺達の希望を砕くことは己の中に残る僅か希望を砕くことでもあるのかもな。そして諦めの果に心置きなく青の世界と一体化していける。

 これじゃ自殺と変わらないじゃないか。

「では少し待っていてください。手はずを整えてきます」

「分かった」

 長は家から出ていき俺達だけが残されるのであった。

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