第503話 ホールインワン

 丘から見下ろす平地には悪意が溢れ人は悪意に飲まれ悪意に溺れていた。

「やめろやめてくれ~」

「もう殺してくれ~」

「うぎゃあああああああああああああああああああああ」

 それなりの訓練を受け拷問に対する耐性もあるはずの兵士達が子供のように泣き叫び合唱している。

 悪意は千差万別、あらゆる苦しみを人間に与え弄ぶ。

 ウィルスとなって体内部からの高熱で苦しめ

 肺に入り込んで巣を張り呼吸不全を起こさせたり

 胃の中を食い荒らし飢餓に墜とす

 周りの熱を奪ってコキュートスの如き極寒に晒す

それでいて決して殺さないどころか意識を失わせない

 肉体の苦しみが一巡すれば

 愛する者を目の前でメチャクチャにする幻覚を見せ

 記憶を読んでトラウマをリフレインさせる

 悪意は飽きることも休むことも無く勤勉に肉体的精神的にありとあらゆる苦しみを人間に無限に与え続ける。

 囚われた人間は自らの消滅だけが希望となる。


「地獄を見せてやると言ったが、まさしく言葉通りだったな」

 革命家として凄惨な場面など見慣れた一乃葉をして言わせる光景だった。


 悪意とは何なのだろうか?

 生物は須く他者を喰らう。喰らうために争いが生まれる、それもスポーツのような正々堂々とした戦いとはかけ離れた争い。

 強者と言われるライオンや虎が弱者と言われる草食動物に真っ向勝負を挑むか?

 そんなことはない。

 見付からないように潜み奇襲で獲物に襲い掛かったり、数で襲い掛かる。そして捕食する。

 草食動物とて擬態したり群れたりして身を守る。

 生物界は騙し騙され殺し逃げる正々堂々とはほど遠い卑怯の連続である。

 だが人間はそこに悪意を感じない、自然界の純粋な厳しさを感じるのみ。

 全てが生きるために行われる生物の営みだから。

 その生物の営みを超え、愉悦のために他者を弄ぶとき悪意は生まれる。

 今眼下に広がるのは、生存のためでも無く、まして怒りや憎しみからでもない。

 ただ人を弄ぶだけの存在。

 まさに純粋な悪意。それを前にし人は魂から嫌悪し震える。


 三人は暫く呆然と地獄を見ていることしか出来なかったが、変化が現れた。

 水墨画のように悪意の強弱で平地に夢乃の笑顔が浮かび上がった。それは見事に綺麗な夢乃の顔を再現し、醜悪で美を描く二律背反によって見事にどちらも際立ち見た者は惹かれつつも忌避する理解しがたい事態に精神の均衡が崩れていく。

「夢乃!!!」

「お姉様」

「夢乃さん」

 三者三様の思いを抱きつつ見守る中事態は進んでいく。


           さあみんなお帰りなさい


 悪意広がる平野の夢乃の顔に対して秘部の辺りに穴がボコッと空いた。秘部が開かれ渦を描いて悪意が呑み込まれていく、溺れる人間ごと。


 この地獄の光景を見て一乃葉は高笑いを始めた。

「はっは、これが真の地獄か。ならば俺が見てきた光景なんか地獄でもなんでもない。ならばまだこの世は救える余地がある」

 一乃葉は地獄を見たことで、人の世がそこまでまだ落ちていないことを実感し、一乃葉のくすんだ穢れは祓われかつての革命家の魂が燃え上がった。

「やれるやれるぞ。

 だがまずこれをなんとかしないとな。放っておけば収まるのか?」

 一乃葉は地獄を見つつ思案する。

「一乃葉さん、私はあそこに行きます」

 みぞれは今まさに地獄を生み出している悪意の渦を見据え言った。

「本気か?」

 一乃葉はみぞれの言葉を確認する。

「は・・・」

「そんなの駄目だよ」

 実沙が冗談じゃないとばかりにみぞれの返事を遮って慌てて止めに入った。みぞれの両肩を掴んで脅すように睨み付ける。

 実沙は嫌われても構わない覚悟である。

「ううん、行かないといけないの」

「俺も反対だな。危険すぎる」

「でも早くしないと果無さんは全ての脅威を呑み込んだ後最後は自分ごとあの穴を閉じてしまいます。そうしたら二度と助けられない」

 どこか気弱だったみぞれだが二人の強い反対を押し切って己の意見を通した。みぞれにとって果無は、憧れ、恋慕、恩返し、縋れる人、自分を捨てた親代わり、様々な思いが混じり合いみぞれの心を病魔の如く蝕んでいた。

「それでもだ。大人が子供為に体を張るのは当たり前のことだ。みぞれが気にする必要は無い」

 一乃葉は人類の幸福を願う革命家として、いや大人としてごく当たり前のことを言う。

「嫌なんです。私が果無さんに会えないなんて嫌なんです」

 みぞれは一乃葉の説得に泣きそうになりながらも抗弁する。それは諦め続けていたみぞれに生まれた強い欲とも言える。

「みぞれ」

「みぞれ強くなったな」

 みぞれの思いがけない態度に実沙は驚き、一乃葉は強くなったみぞれにふっと優しく笑った。

「じゃあ」

「だが、やはり賛成は出来ないな。

 あの悪意の海に飛び込むだけで勝手にあの穴に吸い込まれるだろうが、その前に悪意に飲まれるぞ。あれにはみぞれでは、いや人間の精神では耐えられない。果無を助けるどころじゃなくなるぞ」

「耐えて見せます」

 みぞれは一歩も引かない。

「駄目だ。安易な根性論には賛成できない。どうしても行きたいなら具体的な方法を示せ。そうでないなら力尽くで止める」

 一乃葉は正しい、純粋な悪意に晒され耐えられる人間などいない。心が壊れ強固な意志を持った者で無ければ無理である。

「・・・」

 みぞれは黙り込み方法を考える。

 べちゃっ

 何かが這い上がる音に三人が振り返れば悪意の海から男達が這い上がって来るのが見えた。

「けっけけけけけえ」

「なかまな~かまみんななかよく」

 男達の目から理性が消え完全に狂気に染まっている。

 悪意に飲まれた男達が自力で脱出して這い上がってきたわけではなさそうである。どちらかというと地獄に墜ちる仲間を増やそうとする悪意を感じる。

 それが証拠に殺傷力のある武器を使わずゾンビのように襲い掛かってくる。

 一乃葉が咄嗟にみぞれの前に立ちはだかり壁となり、実沙が男達をぶっ飛ばす。

「ぶはっははは、なかよくなかよくじごくにといまちょう。でもそのまえにちょっとてんごくあじわいたいおんなはにくぶくろ~」

 悪意に汚染されても多少自我が残っている者がいたようだ。元超兵で彼は僅かに残った知能で一乃葉と実沙の間を縫ってみぞれに襲い掛かろうとする。

「まずい」

「邪魔よ」

 突然割り込んできた影が超兵を蹴り飛ばす。

「淺香さん」

 みぞれは驚きで淺香を見る。自分を誘拐するために大陸からわざわざ背乗りまでして来たスパイに助けられれば当然である。

 淺香は見た感じ悪意に塗れていないようである。夢乃から悪意が溢れたとき一歩下がっていた淺香は何とか逃げることが出来、今までこの丘の近くに隠れていたようである。

「お前がなぜ助けた。善意に目覚めたとは言うなよ」

「地獄に墜ちるなんてまっぴらだからよ。あれはこの場にいる私達全員を呑み込むまで終わらないわ」

 淺香はこのまま大人しくしていれば終わるかもしれないという一乃葉の希望を否定する。

「みぞれまで呑み込むというのか?」

 一乃葉はどんなに墜ちても果無がみぞれを害することは無いと自然に思い込んでいた。

「なんであれが見逃すと思うの? 悪意なんでしょ、一人でも多く道連れにしようと思うでしょ」

 果無は敵を呑み込んだら速やかに悪意を狭間の世界に己ごと墜として終わるつもりだった。だが果無を持ってしても純粋な悪意は完全には制御出来仕切れなかった。流石に山に避難した者達を襲うほどではないが、近くにいる人間を見逃せるほど制御も出来ていない。

 純粋な悪意は少しでも多くの人間を地獄墜とそうと果無の制御を振り切り悪意に塗れた下僕をみぞれ達に向かわせたのだ。

「このままじゃこの丘にいる私達も地獄に墜ちるわよ。だったらみぞれちゃんに賭けた方が良くない?」

 淺香は嘘は言っては無いが、仮に失敗してもみぞれがあの穴に飛び込むことで何かが起こることを期待している。みぞれと果無が助かるハッピーエンドにならずとも最悪みぞれが生け贄と成って穴がこのまま閉じてくれればいい。

「仕方が無い。

 だが方法はどうする?」

 一乃葉は淺香の真意は分からないが理屈には納得した。だが方法が無ければ今だ反対する気である。この男も大概子供には甘い。

「簡単よ。

 ぶん投げればいいのよ」

「「「え!?」」」

「実沙ちゃんの力なら可能よ。良かったわね。貴方の力友達のために役立てられるわよ」

 なんだかんで神狩の補佐をしていただけ合って子供扱いが上手い。実沙はちょっとそう言われると悪い気はしていない。

「この場は俺とお前で抑えるぞ」

 一乃葉と淺香は前に出て悪意の下僕共を抑えに行く。

「実沙ちゃん、お願い。私をあそこまで投げて」

「いいのね」

「うん。お願い」

「分かった。私がみぞれの本気のお願いを断れるわけ無いじゃ無い。

 行くわよ」

「うん」

 実沙はしゃがむとおもむろにみぞれを足を持った。

「え?」

「歯~食い縛りなさいよ」

「えっえ!?」

「どりゃああああああああああああああああああああああああああ」

 実沙はみぞれの足を持つと雄叫びと共にジャイアントスイングを始めた。

「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああ」

 みぞれの本日二度目の悲鳴が島に響き渡る。

「一発かましてきなさい」

 実沙は丘の上からみぞれを放り投げ、みぞれは見事穴にホールインワンするのであった。

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