第487話 理解を超えた戦い

 水に拘束され自由が効かないが、目をぐるりと回して打開策を模索する。

 下に円錐状に広がる穴の壁は膣のようにぬめりとした赤黒い襞になっている。その行き着く先は骸骨が一面積み重なっていて、落下に適した柔らかそうな場所は無い。硬いカルシウムの塊の上にこの高さから落下しては無事には済まない、下手をすれば骸骨の肋が突き刺さって即死だ。

 何かするなら落下速度もなく壁との距離もそんなに無い、落ち始めたこの瞬間しか無い。

 銃を抜くと同時に俺を拘束していた水を撃つ。

 パシャッと水は弾け飛び拘束から解放され、俺は自由を取り戻した。


 島社会のユガミの犠牲にされてきた者達が投影してきた負の感情。穴の裏側に垢のようにこびり付いていたあらゆる人間の赤黒い感情が、穴が裏返ることでポロポロと剥がれては虚無の穴に降り注がれて負の闇に虚無を沈めようとする。

 怒り

 恐怖

 悲しみ

 恨み

 憎しみ

 人間を闇に沈める赤黒い感情の放流、そんな者に触れたらそんなに前向きで正の感情に溢れた人間でも一瞬で負の感情に沈む。

 だが悲しいかな虚無の前では意味が無い、所詮一時の盛り返しに過ぎなかった。虚無の前には徐々に穴は呑み込まれ出す。

 穴の必死の抵抗。負が降り積もり限界を超えたとき、恒星が自らの重力に潰れて超新星となるように、限界を超えた負は超新星のように爆発して包み込もうとした虚無を弾いた。


 恨み辛み怒り悲しみが裏返って光り輝く希望となる。


 そうかお前が廻との戦いで裏返っていく狭間から俺を呼んだのか。

 負の穴に残っていた希望、島の誰もが穴に負を投影する中、唯一穴を見上げて墜とされた少女。少女は唯一穴に希望を投影した。

 蠢く負の底に沈められて尚諦めずに自分が表に出る機会を虎視眈々と狙っていた、希望。

 どこまで読んでいたか分からないが、俺と穴を衝突させて己が表に出る機会を掴み取った。

 俺を利用したか。そして更に傲慢なことに、その希望の光、正の感情で俺の虚無を消し去ろうとする。

 それは善意。

 俺を救えると思った傲慢たる善意。


 ならば俺のアイを見よ。


 虚無と負は似ているようだが性質は全く違う。

 正も負も確かに実在する。

 喜んで悲しみ。

 祝福し妬む。

 愛して憎む。


アイ

 それは喜怒哀楽 正負全ての感情と違う。

 軸が違う

 次元が違う

 故に交わらない

 アイ i 虚

 虚情であり感情ではない。

 感情だけで全てを表せると思うは傲慢

 虚情は確かにあり誰もが持っている。

 だが自覚する者はごく少数で大多数は感情だけを認識する。

 だが俺は心が壊れ虚情を認識した。

 認識すれど実在せず。

 実在しないが認識する。


 さあ、俺のアイを識れ。


「こなくそ」

 俺はぐるっと体を返して上を向くと同時に足下に残る水を足場にして上に飛び上がった。

 飛んでいく先の穴から広がる夜空。

 木々の隙間から見える煌めく星々は文字通りの希望。

 希望を掴もうと必死に上で伸ばす。

 だが悲しいかな少し遅かった。

 あれでも決断までに数秒いや数瞬遅かった。

 飛び上がって尚穴には腕は指先すら穴の縁に届かない。

 このまま落下するしかないのか、指先は頂点を極め緩やかに落下軌道に移る。

 だが落胆はない。希望に届かないのはよくあること、絶望するより次善策。だが今日はないかが違った俺の腕に何かが絡まった。

 そして上に引っ張り上げられた。


「ふう、大丈夫か」

 腕に絡まった鞭に穴の上に引っ張り上げられればそこには魯蓮がいた。

「ああ助かった。ありがとう」

「いいってことよ。だがそれはそれとして、お前は誰だ。俺は美人さんを助けに来たつもりだったんだがな」

 星空の下に立つ俺は男に戻っていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る