第484話 昏い穴
こっちよ
泥濘む腐葉土に足を取られ
草木を突っ切り肌が浅く切られていく。
それでも声に導かれるまま走る。
こっちこっち
肺が能力以上の酸素供給が求められ膨らみすぎて破裂しそうだ。
溜まる乳酸に体が泥のように鈍い。
だが声のままに走る。
こっちだよ
背後から迫ってくる気配はなく
ここで足を止めても問題ない
それでも声に導かれるままに走る。
走る走る走る
無我の境地に到っていたのかも知れない。
導く声に洗脳されていたのかも知れない。
どれだけ走っただろう。
数分のようにも数時間のようにも思える。
「ここはどこだ?」
導かれるままに走った俺は木々が開けた場所に降り注ぐ月光にふと我に返ってみれば山中にいた。
周りの木々からの呼吸でジメジメと湿度が高く空気が肌にべっとりと血のように纏わり付く。町や港とがある側とは反対のようで、木々の切れ間から見下ろす風景は暗幕が敷かれたようで遠くの月明かりに輝く海の波の輪郭だけが見える。
そして進む先には鳥居が連なる石段が迫り上がっていた。
鳥居も元は真っ赤だったのかも知れないが、今は夜の闇に沈むほどに黒ずんでいる。階段として敷かれた平石も所々割れたり無くなっていたりする。その石段を雨が降っているわけでもないに水が上からしとしとと流れ落ちてくる。
寒い
燃えるように熱かった体が急速に冷やされていく。
雪山に放り出されたように体が震えていく。
だがこのふるえは純粋に寒いのかこの先から感じる良くない気配によるものなのか分からない。
引き返すべきだ。
このままでは下手をすれば肺炎になる。
誰かに匿って貰うべきだ。一乃葉なら匿ってくれるだろう。
月明かりのみで暗く足下が覚束ないというのに、石段は水で滑り易いだけでなく土台の土が水に濡れて崩れやすくなっている。
合理的には撤退、だが声はこの上から響いてくる。
こっちだ。
こっちよ。
こっちこっち。
こっちだよ。
力強い壮年の声、優しく手を引く妙齢の女性の声、無邪気そうな子供の声、凜とした少女の声。
様々な声色で早く来いと囁き誘ってくる。
急かしてくる。
碌なものじゃないとは分かっている。
逃げようとした脳裏にみぞれの顔が浮かぶ。
「ふっ今更か」
どうせこのままじゃ手詰まり。島の権力者に逆らった孤立無援のこの状況で逆転するには怨霊が差し出す手だって握るしかない。
覚悟を決めた。
決めた以上は悩むだけ無駄だ。
ぴちゃ
踏み出した足が石段を踏む。
一歩一歩鳥居が連なる階段を登っていく。
ぴちゃ、ぴちゃ
踏み締める度に水が跳ねて靴の中を湿らせズボンの裾が重くなって冷たくなる。
不快感に耐えながらも慎重に階段を登る。
ときどき土台が泥濘んで石段が傾いたりするがなんとか転落しないで、上まで登り切った先には木々に覆われた洞のような空間に穴がぽっかりと空いていた。
元は井戸だったのだろうか穴からは水が溢れて流れ出している。階段が濡れていたのはこれが原因だったようだ。
流れる水を踏まないように穴に近付くと、穴は水に満たされていなかった。水は昏い底から穴の縁を表面張力のように伝わって地上に到達しそして流れ出していた。
水に囲まれ穴は空いている。その穴の底は昏く深く闇で見通せない。だが声は穴の底より響いてくる。
こっちこっちと身投げしろとでも言わんばかりだ。
この穴の先に希望はあるのか?
流石に躊躇いが生じる。
遠慮しないで
滴り落ちていた水がばっとマントのように翻って俺を包み込み
俺は穴に引き釣り込まれた。
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