第471話 捜索
診療所から出ると空には満月には到らない月が浮かんでいた。
その姿を常に変えていく夜の女王、かつてこれほどまでに惹かれるのは初めてだ。まるで月夜に変貌する狼男にでも成ったように心が沸き立つ。
心を静め見下ろせば、楚々と降り注ぐ月明かりに森の輪郭が僅かに浮き上がる深い闇が広がっていた。森へと続く道に街灯はなく街のように家から漏れる光もない。森に入れば月明かりすら森の木々に遮られるだろう。
確かに都会の森林公園に立ち入るのとはレベルが違う、神狩が心配するのも分かるというもの。なのに闇の中裸で走り回りたい情動も沸き上がる。
「引き返すかね」
闇に魅入られる俺を尻込みしているとでも思ったのか神狩が問い掛けてくる。
「冗談」
可愛く甘えられるのも美人の特権だが突っぱねてこそいい女というものだろ。
神狩は俺が鼻で笑い飛ばしたことで意外そうな顔をする。
都会の女は軟弱とでも思っていたのだろうが、残念中身は男だ。そして合理的な男でもある。
情動を沈め思考をクリアに合理的に行こう。
「ではどうしますかリーダー?」
「まずは真ん中の道を調べましょう」
診療所を起点に下に降りていく道が3つ、山の上に登る道が1つ。
みぞれは明日に備えて町にある寮に帰ろうとしたはず。この時点で山を登る道は消せるが何か用があって港に寄ろうとした可能性は残る。だがみぞれは俺や神狩に説得されて帰ったはず。何か用が合ったとは思えない。ここはまっすぐ帰ったと思うのが一番筋が通っている。ならば真ん中の道を降りていく途中で何かがあったと推測できる。
「でも私が登ってくるとき特に何も無かったわよ」
大華が言う。
大華は帰りが遅いみぞれを心配して診療所にいると思って迎えに来たのだろう。当然真ん中の道を通って来ている。そのことから単純に道で倒れているということは無いのは分かる。
拉致という言葉が脳裏に浮かんでしまう。
いやまだだ。逃走しある程度安全な場所に移動しなければならないことを考慮すれば、まだ間に合わないということは無い。
「捜査は現場百回よ」
残念ながら安楽椅子探偵のように診療所にいながら全てを見通すマネは出来ない俺は自ら現場に足を運ぶしかない。その所為で何度死にかけたか分からないが、そうで無ければ先に進めない。
俺は真ん中の道を手渡された懐中電灯で照らしながら下りだす。
土の道だが雨が降ったばかりでも無く、大華や立日沢の捜索に出た所員達によって踏み荒らされ足跡を辿るのは無理だろう。だから自然と踏み荒らされていない道の脇に注目する。
懐中電灯が照らす円筒形の光の中に何か手掛かりがないかと目を凝らす。
だが実はこの作業が予想以上に神経をガリガリ削る。
左右の木々が月を遮り生み出す闇の壁。向ける懐中電灯の光の外は見通すことは出来ない闇。その闇の中から昼間は息を潜ませていた獣達がいつ飛び出してくるか分からない。
恐怖に理性の箍が外れ笑いながら走り出してしまいたくなるのを必死に繋ぎ止める。
ルナティックの意味をしみじみと思い知るが、理性を噛み締めるようにゆっくりと足を踏み出していく。
正直、病み上がりにはキツい。
心を支える体が不調にプレッシャーを押し返しきれない。
病み上がりの体に中腰で進んでいくのは耐えがたい苦痛をもたらす。
プレッシャーと苦痛で頭が重くなっていき目眩もする
だがここで弱音を吐いたらそれ見たことかと神狩に連れ戻されかねない。
ベットに戻って一晩ぐっすり眠れば苦痛から解放されるが後悔に押し潰されるだろう。
目眩をねじ伏せ痕跡を逃すまいと地面を睨み付けていく。
その俺の姿に何かを感じたのか大華も神狩も黙って地面に視線を落として進んでいく。
「あった」
これが昼間なら簡単に見つかっただろう、草が踏み付けられた跡があった。
森の半ばほど入り込んだところ、診療所からも町からも等距離に離れている襲うなら絶好のポイントとも言える。
早計はいけない。どっかの不埒な大人が立ちションのために道の脇に寄っただけかもしれない。だが両の足跡の真ん中には草が倒れた何かが引き摺られた跡があった。
「お姉様何がありましたの」
「ここを見て、足跡がある。そして何かが引き摺られた跡と共に森の中に続いている」
「何!?」
神狩も近寄ってきて確認する。
足跡の深さからしてみぞれで無いことは確かで男だと推測される。そして何かが男に寄って森に引き釣り込まれて行っている。
これがみぞれである保証は無い。だが状況証拠的に立日沢がみぞれを森の中に拉致した光景が想像出来てしまう。
思い込みかもしれないがもう時間も無い。賭に出るか?
「森の中か、危険だな」
「でも日が昇るまでは待っていられないわ」
これがみぞれだったら一刻を争うことになる。それが分かっているからこそ神狩も苦悩しているのだろう。
「分かっている。
私が先頭に立とう、これでも一応男だ」
陰キャの理系雰囲気ながら気骨はあるようだな。
俺の好感度ポイントが上がった。
「いいえ、素人に先に行かせても痕跡を見失う可能性があります。
ここは私が行きます」
「しかし・・・、それに君は一体何者なんだ?」
「女の秘密を探るのは野暮ですよ、先生」
「ぐっ」
これで黙らせられるんだから笑いが止まらない。
「私は痕跡を辿るのに全神経を使うので、一歩下がって着いてきて警戒をお願いします。何かあったら守って下さいね」
ここでニッコリと微笑みかけておけば完璧だろ。
「分かった。任せて貰おう」
チョロいチョロすぎる。男の時の苦労は何だったんだってくらいチョロい。冗談抜きで美人最高かもしれない。
こうなると問題は・・・。
「帰りませんよ、お姉様」
大華は俺の見てきっぱりと言う。こりゃ説得できないな。
「その意気や良し。ただし私と先生の間に入って自分の身は自分で守りなさい」
「はい」
家まで送っていく時間は無く、このまま一人帰すのも同じく危険なら同行させてもいいだろう。
俺は木々が生み出す闇の壁に踏み入った。
僅か道から一歩踏み込んだだけだというのに空気の質が違う。
もはや文明から切り離された野生の世界、闇の空気がピリピリ肌を焦がす。
いつ毒蛇が草むらが鎌首を上げ蛭が頭上の樹枝から降下してくるか分からない。それでも俺は視線を地面に固定する。
引き摺られた後は森の奥へと続いていく。幸い一度人が通ったことで蛇も蛭もいなくなってくれたのかもしれない。襲われること無く痕跡を辿っていくと細い道に出た。
草に覆われつつあるが踏み固められた固い地面がかつて人が通っていた道であったことを示している。
「もしかしたら昔あった森の散策の用の道かもしれないな」
「そんなものがあったのですか?」
「ああバブルのころ観光客を呼ぶために森林の中を歩けるようにしたらしい」
「なるほど先生は島の歴史に詳しいのですね」
「ここに来る前予備知識として色々と覚えておいた」
この男はどんな理由でこの島に来たんだろうな。気にはあるが今は重要じゃ無い。
「ならこの道の先に何か建物とかありますか?」
「確か喫茶店みたいなものがあったはず」
神狩は頭の中から記憶をひねり出すように言う。
「なら地道な探偵ごっこはここまでとしましょう。
そこまで一気に行きます。案内頼みます」
これも賭だが当たっていれば一気に時間を短縮できる。
「分かった」
俺達は喫茶店に向かって走り出すのであった。
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