第454話 犬

 切り替えよう。

 何はともあれ今は脱出が優先だ。

「それでどうします?」

 気付いたが俺を見上げるくむはの顔は綺麗になっていた。

 考えたくないが涙とか鼻水とか化粧とか俺の服に・・・、今は考えるのは辞めよう。

 迷いが拭えた顔は主人を得たドーベルマンやシェパードに通じる凜々しさが見えた。

 美しく、俺とは対極の強さ。

 いい主人に出会えば果て無く強くなる。

 かといって俺が彼女を導く義理はない。彼女の人生、悪い奴に騙されないことを祈ろう。

「まずはあっちのホームに降りるぞ。

 落ちないようにしっかり抱きついていろよ」

 元いた側と対面にあるホームを見ながら俺は言った。

「はい」

 くむはは俺の背に手を回してぎゅっと体温を感じるほど密着してくる。

「行くぞ」

 急がなければ。

 俺は手を交互に動かして雲梯のように電線を伝っていく。

 正直二人分の体重を支えるのはキツい。女の子がしがみ付いてラブコメのようにラッキースケベを喜ぶ余裕なんて無い。

 肩が抜けそうで腕が痺れ指が千切れそう。気を抜けば握力がすっぽ抜けて下に真っ逆さま。時間があればくむはには降りて自力で頑張ってもらい貰い、俺は電線には腕だけでぶら下がるではなく、しがみ付いて進みたい。

 だが時間が無い。

 早くしないと電線が切れて落ちるか、ワイヤーが切れて電線が絞られた弦のように解放されて俺が矢のように空に放たれる。

 せっせせっせと腕を右左と繰り出す進んでいく。

 幸い距離はそう無いなんとか握力は持ちそうで、無理して頑張ったがそれでも遅かったようだ。

 ブチッ。

 鈍い引き千切れる音が頭上から響き、腕が苦しみから解放された。

 ダンベルで無理して筋トレした後解放されたような軽さを味わう。

 当然体重がゼロになったのではなく、炭素繊維のワイヤーより電線の方が先に切れて空中に投げ出された数秒の浮遊感。その間に対応出来なければ天に昇って永遠の浮遊感を味わえる。

 俺が判断するより早く胸元から声が響いた。

「お任せ下さい」

 くむはが先程までのポンコツぶりが嘘のような頼もしい顔だった。

「私をしっかり捕まえて、決して離さないで下さいね」

 くむはは花嫁のような笑顔で言うと俺に回していた腕を放した。

 理屈もクソもプライドもクソも無い。

 ふわっとくむはから少し離れた瞬間、俺は母親を見付けた迷子の子供のようにくむはの腰にしがみ付いた。

 くむはは一方の糸を上に張ってあった蜘蛛の巣に絡ませ落下を防ぎ、もう一方をの糸を電柱に投げてけ絡ませ、グンッと引っ張れば、グンッと電柱に水平に向かって行く。

 みるみる電柱が迫ってくる。

「集えっ」

 くむはは慌てない。

 掌を上に掲げれば、その掌に糸が集まってくる。張り巡らせていた蜘蛛の巣を解除して糸を回収しているようだ。

「天の糸」

 今度は掌を前に翳せば、掌から糸が放出され電柱を中心にネットが作られる。そして俺とくむははネットに飛び込み受け止められる。

 バサッと受け止められて、びゅんびゅんと振動しつつもネットは下に伸びていく。

 やがてホームに優しく降りた。

「下に付きました。

 怪我とかはないですか」

 くむははまるで姉のように腰にしがみ付いている俺の頭を撫でながら優しく聞いてくる。

 本当にさっきまで泣きじゃくっていた女か?

 やっぱり演技?

「後で相手して上げますから今は立ち上がりましょうね」

 言われて俺はくむはの腰に回していた手を離して立ち上がった。

「それでどうします?

 ホームをそれとも電車を調律すればいいのでしょうか?」

 頼もしく感じる。

 迷い無く行動するくむははこんなにも優秀なのか?

 今のくむはが相手では勝てる気が全くしない。

「その必要は無い」

「どういう意味ですか?」

 俺が指差すのは、今までは外に通じる駅の出口があったはずのホームの反対側、そこには新たな線路が走って対面にホームが見える。

「切りが無いですね」

「そうでもないさ」

 俺の言葉に反応するようにポーーーと、遠くから蒸気溢れる汽笛の音が響いてくる。

「えっ」

 視線を向ければ黒金の蒸気機関車が煙突から煙を上げ向かってくる。

 しゅっしゅポッポ、電車では決して奏でられない機関と蒸気が織りなすメロディ。

 心に響く音を奏でほどなく蒸気機関車がやって来た。蒸気機関車はプシューーとホームで停止した。

 そして自動ドアでもないドアが自動で開く。

「予想以上に凝った趣向だな」

「乗れということでしょうか?」

「これを外から調律するのは野暮というものさ」

「分かりました。

 危険ですから私から離れないようにしてください」

「では旅立ちと行こうじゃないか」

「はい喜んでお供します」

 俺とくむはは並んで列車に乗り込むのであった。


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