第412話 安息

 記憶を頼りに丘の上に建つホテルに戻ってきた。

 丘をぐるっと囲んだ無骨な塀は悪意あるものを拒絶する鋼鉄の意思を感じる。それでも門は開かれ正門を潜り俺は丘を登っていく。

 下から見上げていけば、日本庭園と違った職人が細部まで手を加えた庭園と西洋の城を移築でもしたかのようなホテルが一枚の絵画に収まる芸術。

 美しい風景を楽しみつつ登り切ればシンプルでいて微細な彫刻が施された壮麗なるエントランスが迎えてくれる。エントランスの脇には王宮の衛兵のように身じろぎ一つしない警備員が両脇に立つ。彼等は境界の守護者。彼等の間を通って境界を越えて中に入ればそこは異世界。

 俗世の煩わしさから切り離されたプレムアムな時間が始まる。

 塵一つ無く綺麗に清められ磨かれた床を踏んで鳴らす靴音はご機嫌のリズム。心地よく歩いて行ける。

 ここは舞台。

 見ろあの客の自分は貴族とでも言うばかりに澄ました顔。使える従者とばかりに恭しいホテルマン。

 ホテルマン一人一人客の一人一人が役を演じて非日常を積み上げていく。

 ただ泊まるだけに金持ちが高い金を払うのも少しは理解出来る。まあ自腹なら絶対に泊まらないけどな。ビジネスで十分だ。

 少し気取って上階のバーで酒でも嗜みたくなるが、まずは仕事。俺は大原が泊まっている部屋に向かった。

 今日の予定は伝えてある。多分部屋にいるだろう。

 部屋の前に着きインターホンを押す。

 待つが反応がない。

 ドアノブを回すが当然鍵が掛かっている。

 まあ子供が4人もいるんだ部屋でじっとしているのも難しいだろう。ここはなかなか見所もある。子供達を連れて歩いているのだろう。

 仕方が無いスマフォで大原に電話する。

 ・

 ・

 ・

 出ない。

 影狩に電話をする。

 ・

 ・

 ・

 出ない。

 何をやっているんだ彼奴ら。何かあったのか?

 ないな。

 彼等が何かトラブルが発生していたら連絡一つしてこないということは無いし、彼奴らほどの手練れが2人もいて連絡するもなく制圧されることもない。

 蓋を開ければ子供の世話が忙しくそれどころでもないというところだろう。自衛隊が誇るエリートエージェントも子供の前では形無しか。

 館内放送で呼び出すか。

 いや。

 まあ別に急ぐ必要も無いか。

 三目の話では島村達の受け入れには、後二~三日掛かるらしい。島村達の受け入れ先は、伊豆大島近傍の島にある特殊案件処理課直轄の学園「千条学園伊豆分校」。昔から色々と事情のある生徒を世間から隔離する為に利用されているらしい。民間の定期便もない島だ、流石のマスコミもよっぽどのことがなければ船をチャーターしてまでこないだろう。この世間から隔離された環境で治療を行い、頃合いを見て音畔学園に戻す予定である。

 そういう訳で数分数時間を争って合流する必要は無い。三日もあるんだ。慌てる理由は何も無い。必要も無いのに急ぐのも合理的じゃないな。折角俗世から切り離され、この素晴らしいホテルにいるんだ。仕事のことなど綺麗さっぱり忘れて俺も非日常を楽しませて貰おう。

 取り敢えず俺は、18:30にエントランスで合流してディナーに行こうと大原にメールを送信した。

 美女と楽しむディナーは素晴らしいものになるだろう、楽しみだ。だがディナーが素晴らしいからとそれまでの時間を浪費していい理由は無い。それまではこのホテルで何をしようかな。


 一旦エントランスに戻った俺は館内の案内板を見る。

 定番のレストランにバー、カフェ、大浴場。演奏も演劇も出来るホールに美術館もあるのか。それほど大きくはない分質に期待してしまう。

 それと個人や家族に貸し出すミニシアターもあるのか。映画館ほどではないが部屋の壁一杯に広がる画面で見る映画はさぞや迫力があるんだろうな。う~ん、映画鑑賞も捨てがたいな。

 そういえばホールでは何をやっているんだ? それを確かめてから決めるか。

「お客様」

 案内を1人じっと見る俺を不審にでも思ったのかホテルマンが声を掛けてきた。

 見るとフロントスタッフとは違い金刺繍が施された白の衿詰めの制服を着ていた。ポニーテールにまとめたロングウェーブの金髪、ブルーグレイの瞳、透き通るような肌の白さと日本人にはない美しさに輝いている。年の頃は30代のようだが成熟した肉体に10代や20代の女性では醸し出せない色気を制服で封じ込めて落ち着いた清冽な感じを受ける。

 一瞬鋭く此方を値踏みしたかのような目をしたが直ぐに柔らかい感触を出す。どうやら彼女の値踏みでは俺は不審者レッテルは貼られなかったらしい。

「私はこのホテルのコンシェルジュ「ソフィア」と言います。何かお困りでしょうか?」

「別に。何か面白いものが無いのか見ていただけだ」

「それでしたら是非コンシェルジュにお任せ下さい」

 ぐいぐい来るな。迫ってくるとその豊満な胸に目が行ってしまい不審者レッテルを貼られそうだ。気の抜き過ぎは自重してくれぐれも視線は上げておこう。

 初めて会う職業だがコンシェルジュとはこういうものなだろうか? 今までコンシェルジュがいるようなホテルに泊まったことが無いからな。正直言えば、此方から話し掛けないのに話し掛けてくる店員は好きじゃないが、まあ折角のホテル試してみるか。

「六時半にここで待ち合わせでね。それまで時間を潰せるようなものはあるか?」

「それでしたら美術館などいかがでしょうか? 当館の美術館は小さいながらも逸品が揃っています。丁度見終わるごろには時間になっていると思いますよ」

 どうせオーナーの私物に近い美術品の展示だろ。あまり惹かれないな。

「そうか。ホールでは何かやってないのか?」

「すいません本日の公演の予定はありません。来週でしたらオーケストラによるコンサートが入ってます」

 それは残念だな。生演奏というのを聞いてみたかった、意外と世界が開けたかも知れない。寧ろ滞在を延ばすべきなのか?

「なら今日の所は大人しく美術館を見させて貰おう」

 無いなら仕方ない。ミニシアターという選択肢もあったが、折角コンシェルジュが俺の為に進めてくれたんだ。受け取らせて貰おう。

「是非楽しんできて下さい」

 お節介なソフィアの笑顔に見送られ俺は美術館に向かった。


 そう大きな美術館ではなく、予想通りこのホテルの創業者が集めた絵画や陶磁器が展示されていた。現代アートはないようで昔ながらの素人でも見れば分かる美しいものが並べられている。

 エントランスにいたときも思ったがあまり流行ってないのか俺以外の人はいない。おかげで時間を掛けてもせっつかれることも高級ホテルの美術館を1人見て歩く俺が奇異の目で見られることも無い。

 一つ一つを傍に設置されている解説を読みながら堪能していく。

 ゆっくりと自分のペースで、静寂と美しさに包まれる贅沢な時間を味わう。

 思いのほか素晴らしい時間を過ごせている。

「ほう!」

 今までの展示品と趣が変わり目を引かれたのは一際大きな絵でプラチナブロンドが美しい少女と老人が並んだ人物画であった。如何にも商売で成功した老紳士と世界の愛を一身に受けたかのような少女がこのホテルを背景に並んでいる絵。

 創業者とその孫ってところか。いつもの俺なら金持ちの顕示欲と思うところだが、今回は素直にこの美しい世界を創造した一族に敬意を感じた。

 このホテルからは創業者の気風、世界を感じ取れる。

 俺は絵に一礼してから通り過ぎる。


 美術館を堪能した後はエントランスに戻って来たが、まだ少し時間が合った。俺はソファーに座りカフェから配達して貰ったコーヒーを呑みながら本を読むことにした。

 普通ならレディーとのディナーが待ち遠しく時間を長く感じるかもしれないが、この素晴らしい空間で読む本はいつもより光景が脳に映り込んでくる。光陰矢の如く過ぎていく。

 ああ本当に俗世の煩わしさから解放されそうだよ。

 一銭も稼ぎ出さない時間が流れていくが、これが素晴らしい人生と断言できる。


「お客様、お風邪を引きますよ」

「ああ、待っている間に寝てしまったようだな」

 目を開けるとショートにした髪型で少し堅い感じがして高校生なら委員長でも似合ってそうな女性が此方を覗き込んでいた。

「ふふっお疲れのようですね。当ホテルの大浴場に入ってはいかがですか? 細胞から弛緩して疲れなんか溶けてしまいますよ」

 にっこりと笑いかけてくる女性は銀刺繍が入った白の衿詰めの制服を着ている。コンシェルジュではないのかな?

「それは素晴らしい時間を過ごせそうだ」

「是非堪能して下さい」

「だが、俺としたことがうっかり大事な用事を忘れていた」

 旅の恥は掻き捨て。日常から離れた世界という舞台なら普段と違う自分を演じるのも旅の余興。

「はい、チェックインがまだですね。先に済ませて下さいね」

「それも大事だが、それよりもっと大事なことさ」

「なんでしょうか? 私にお手伝いできますか?」

「簡単なことさ。俺の目の前にいるチャーミングな女性の名前を聞いてなかった」

 自分でもちょっと気取りすぎたと思う。

「ふふっありがとうございます。

 私は当ホテルのコンシェルジュ「大原」。ソフィアさんと違って成り立ての新米ですが誠心誠意おもてなししますよ」

 失笑ものの俺に対して大原は柔らかく笑って答えてくれた。

 出来るな。銀が新米、金がチーフか何かといったところだろうが、接客レベルは高いぞ。

「それは期待してしまうな」

「今お客様がちょっと考えたような鼻の下を伸ばしたようなサービスはできませんが、それ以外はお任せ下さい」

 ウェットな切り返しも上手い。旅路の恋と惚れてしまいそうだ。

「じゃあ、急いでチェックインしないと勿体ないな」

「ではフロントに案内しますね」

 こうして俺は休暇を堪能すべく大原に案内されてフロントに向かうのであった。


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