第400話 救済の果て

 飯樋が覚悟を決めたように印を結べば、鏡合わせのように果無も印を結んだ。

「安い挑発です」

 長い旅の果てに身に付けた救済の技を馬鹿にするように真似されては流石の飯樋も怒気を孕む。

「忘脱」

 飯樋は怒気を含めて救済する。


 道ばたに髑髏が石と同じように転がり、積み上げられた死体に手を合わせる者なし。

 親が娘を犯して売り払い、子が親を殺して食う。

 獣にも劣る世界が広がっていた。

 そこには礼節や慈悲など無い。生き残る為皆野獣に身を落とし喰らい喰らわれる生活をしていた。

 比較的裕福な家に生まれ親の愛を受け聖人が残した人の道を学ぶ機会があった私にとってそんな世界は見るだけで胸が張り裂けそうになった。

 だからこそ救済の道は無いのかと旅に出た。

 世が乱れるのが原因と悪を片っ端から討ち滅ぼす修羅の道を邁進した。

 後に名君と呼ばれる者達に力を貸して太平の世を築いて生活が安定しても人は真の意味で救われず、苦しみは蔓延していた。

 それ以上は個人の問題だと余計な干渉を辞めるように諭す仲間もいた。

 だが止まれなかった。

 人々の顔から苦悶が消える日を願って救済の道を探った。

 人々の救済それこそが願い。

 本当か?

 余計なお節介と思われようとも私は人々を救いたい。

 本当か?

 本当だ。

 本当にか?

 くどい、私は人々の救済を求める。

 本当か? 苦しむ人の顔を見たくなかっただけじゃないのか?

 それが何か? 苦しむ人の顔を見たくない、それと人々を救済したいは言い方が違うだけで同じじゃ無いか。

 自分では気付いてないようだが、それは同じではない。

 どういう意味だ? 私を惑わすか。

 もっと己に問い糾せ、本当に救いたかったのは己じゃ無いのか?

 !?

 分からない教えよう。

 自覚がないのなら自覚せよ。

 お前は優しい。

 それは裏を返せば共感性が強いということ。

 お前は魔に目覚めるほどに人の何千倍と高い共感生を持つ。

 人が苦しむ顔を見れば己のように苦しんだり悲しんだりしただろう。

 それの何が悪い。

 自覚せよ。

 結局のところ自分が苦しみたく無かっただけじゃ無いのか?

 今までよぎったこともない考え。まさに悪魔の囁き。

 一度こんな考えを吹き込まれたら、二度と私は純真な気持ちで人を救えない。

 問え。

 救いたいのは本当に他人か己か。

 お前は自分を救いたいが為に世の摂理をねじ曲げているだけじゃ無いのか?

 わっわたしは・・・。

 苦しむ人の顔を見て胸が張り裂けそうになった。それをもう一歩踏み込めば、苦しむ人の顔を見て胸が張り裂けそうになって苦しんだのは誰だ?

 他ならぬ私。

 救いたかったのは私自身だというのか?

 ならば答えは出ているはずだ。

 お前は長い旅路の果て己を救済する道を見付けたはずだ。

 はい。

 ならば躊躇うな。

 しかし苦しむ人々を置いて自分だけだが救われる事が許されるでしょうか?

 仏教の本質は自己救済。己が救われる為の教え。

 己を救えるのは己だけ、自惚れるな。

 お前は弥勒菩薩にでもなったつもりか?

 まさに驕り高ぶり、旧約聖書のソドムとゴモラに匹敵する慢心。

 天に滅ぼされるべき。

 私はそんなにも罪深き人だというのですか?

 だが仏の慈悲は無限大。

 傲りを捨てよ。

 そしてまずは己を救え。

 ああ、ああ、長い年月を生きて生きた私に懸けられた初めての言葉。

 その言葉に私は縋った。


 全てを忘れる。

 辛い時代の記憶は捨て、この時代で私はやり直す。

 あの時代に比べれば天国のような時代で平々凡々の人生を送るかも知れない。

 毎日必死に働いて食べて寝る。たまの晩酌のビールがご褒美。誰も傷付けること無く誰にも傷付けられることも無い。

 平々凡々これ幸福なり。


 忘却の力を己に向ける。

 今こそ私が救済されるとき。


「そんな訳あるかっ

 私の救済の思いをねじ曲げるな。

 はあっはあっはあ」

 飯樋は悪夢から目覚めたように息を荒らし汗でぐっしょりまみれている。

 飯樋は共感生が高い、人の心と同調してしまうくらいに。

 他人の心と同調することで人の苦しみを理解し人が本来持つ忘我の能力を増長させて辛い記憶を忘れさせ、更にはそこから浸食して全ての記憶を封印する。

 だが同調した人の心を覗くということは自分もまた覗かれるということ。

 飯樋は果無の心と同調し辛い記憶を消そうとし逆に邪念を囁かれ誘導された。

 そして己の救済を否定した視線の先には果無が立つ。

「我を捨てろという割には中々に我に執着するじゃ無いか」

 にやにやとワルをする仲間を見付けた不良のような顔をしていた。


 果無は辛い記憶を忘れ風化されるどころか鮮明に心に刻み込んだ男。

 毎夜PTSDに魘され心が歪みいつ発狂するか分からないリスクに晒される見返りに凡人でありながら強靱な精神力を得た。

 人は所詮強い意思があれば大抵のことは成し遂げられる。逆に強い意思がなければ何も成し遂げられない。

 事実、果無は常人では成し遂げられないことを常人の身で成し遂げてきている。

 そんな果無が忘れることで救われる共済を認められるはずが無かった。記憶が無くなろうと魂が認めない。


「恐ろしい、最初の印象通りあなたこそ悪魔」

 飯樋はいつもの善人の仮面が剥がれ落ち実に人間らしい表情をしている。

 今の彼奴なら友達にだって成れそうだ。

「その悪魔に負けたんだ。約束通り俺の配下になって貰う・・・」

 俺と飯樋は同時飛び退いた。蔦が襲い掛かってきたのだ。

「ふふっ植物をいかせるなんて初めて。おかげで少々手こずったわ」

 いつの間にか蔦から解放されていた天夢華がいた。

「やっぱりお前も自力で逃れたか」

 こうして俺、飯樋、天夢華の三つ巴は復活し振り出しに戻るのであった。


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