第394話 マーラ

 図書館で俺に話し掛けてきた謎の少女が表れても正直俺に驚きはなかった。そうかとどこか腑に落ちている。正直あんな出会いをした人間がこの事件に全くの無関係だった方が戸惑うし、事件後に正体が気になってしょうが無くなる。そういった意味では関係者であることがハッキリしてスッキリするが、敵か味方かはまだ分からない。

 実は野上の後を追って山に入ったときから気配は感じてはいた。ただ本命に辿り着ける千載一遇のチャンスをフイにしたくなかったので放って置いたんだが、向こうも同じ気持ちだったのか敵意が無かったのか互いに干渉すること無くここまで来た。

 そしてこうして間近で対面しても強烈な敵意は感じない。水永の件ではどんな思惑かは分からないが助け船を出してくれた。ドケチの公安が密かに出した助っ人と言うことは無いだろうから、別の線から飯樋を追っていた別組織のエージェントというのが妥当な線だろう。

 話の持っていきようではwin-winの取引が出来るかも知れない。

「男同士の会話はもうよろしいのでしょうか?」

「待っていてくれたとはな。慎み深い女性なのか盗み聞きをするはしたない女性なのか、どっちなんだろうな」

 先手は譲ってくれたようだが、これ以上岡目八目で横から致命打を打たれる前に盤上に上がって貰った訳だが、まずは彼女の目的をハッキリさせないとな。

「さあ、殿方のご想像にお任せしますわ。

 ただ私としては殿方のお話はとても面白かったですわ」

 口元に手を添える何気ない挙措がたおやかな花を連想させる。

「それは良かった。だったら君の意見も聞いてみたいな」

「私のような女の意見をですか」

 小首を傾げてさらっと髪が流れる何気ない仕草すら悪魔的に魅力的だ。

 顔仕草話し方全てが美しく男の心を鷲掴みにする。肉欲だけなら誰もがこの少女を選ぶだろう。

「君からは頭の固い男の脳を引っ繰り返す刺激的な話が聞けそうなんでね。

 君はこの世界をどう思う?」

「美しいわ。この下でアフタムーンティーをしたら素敵でしょうね。

 あなたも誘ってあげましょうか?」

 美しいか。

 常識を捨てて見れば、美しい肉体を持った少女達が穏やかな顔で藤の花のように垂れ下がっている光景は妖精の花園のようで美しい光景なのかも知れない。

 だがそういった目で鑑賞出来る人間がどれほどいるのか、やはりこの少女も普通じゃない。そして同じそういった目で鑑賞出来る俺としては俄然その先も聞きたくなる。

「思想についてはどうなんだ?」

「可哀想な少女を救ったまでは評価しますけど、その後は駄目ね。

 こんなただぶら下がっている人生に何の意味があるのかしら?」

 ある意味至極ごもっともな意見だが、この光景を見てこうなった経緯を聞いて言える言葉じゃない。穏やかな笑顔を浮かべていた飯樋すらぴくっと頬が反応したのが面白い。

「人間はその生を謳歌してこその人間でしょ」

 なるほど生の謳歌か、俺では思い至らなかった。

 なるほど俺はどちらかというと飯樋に近い思想を持っていたようで随分と引っ張られていたということか? それとも俺は辛い経験をした彼女達に同情していた? まさかな。

「飯樋の言なら彼女達は生を喜んでいるそうだが?」

 辛い経験をした彼女達は救われたと俺は思いたいというのか。

「これが、ただ生きているだけですわ。端から鑑賞する分には美しいけど、彼女達自身には何の意味があるというのかしら?」

 彼女に心底失望した顔で言われると俺でさえ申し訳ない気持ちになる。

「生きるために生きる。それこそが四苦からの解放であり幸せだ」

 飯樋が黙ってられないとばかりに横から割って入ってきた説法を述べる。

「だったら最初から黴にでも生まれてくればいいのですわ。私達は人間なのですよ。

 よりよい生を謳歌してこそ人ですわ」

「そういった欲望は人を滅ぼす」

 ルネサンス期に花咲いた人間賛歌、飯樋の仏教的死生観とは相容れない思想だな。

「人とは欲望ですわ。それで滅ぶならしょうが無いじゃ無いですか」

 少女はあまりに当たり前のように言う。

 なるほど。心が頷いてしまった。

 俺もまた欲望に呑まれて時雨を手に入れようとする男だからな。

 俺が本当に合理的だったら時雨なんかに手を出さない、あれが目の前の少女よりよっぽど危険な女だということは計算しなくても分かる。

 だが後悔はない。

 飯樋より少女に共感するとは、俺も中々に俗が残っていると新たな自分を発見した気分になる。

「ならあなたは彼女達はあのまま滅べば良かった言うのですか?」

 飯樋は初めて見せる厳しい顔で少女に問う。

「私でしたら彼女達に苦しみなんて忘れてしまうほどの真の女の喜びを教えてあげましたわ。

 この状態からでも喜びに目覚めるのかしら、試してみましょうか?」

 彼女は天使のような顔で悪魔のように飯樋を誘うのであった。

「あなたはマーラなのか?」

「いいえ、そう言えば自己紹介がまだでしたね。

 私はシン世廻の天夢華。あなたを勧誘に来ました」

 天夢華。中塚が漏らしていた名前。

 残念ながら敵確定か。


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