第343話 癒やし

 ふう~疲れた。

 溜息を付いて肩がどっと重くなる。

 部活を廻り明日の授業計画の承認を貰い最後に日報を書いたところで、やっと解放された。文句を言いたくても嘉多はこの後俺の指導で遅れた自分の仕事をするそうだ、しかもプレイスレス。何も言えない。

 教師になるつもりのない俺では教師になることでの恩返しは出来ないので、行方不明事件を解決することをもってせめてもの恩返しとさせて貰おう。

 申し訳ないと後ろ髪を引かれつつも俺もこの後外で影狩との打ち合わせがあるので、まだ多くの教師が残る職員室を後にした。

 生徒のほとんどは帰宅し残っているのは一部の推薦狙いの部活動生のみ。職員室からは煌々と未だに明かりが漏れているが、俺は生徒の姿が消え薄暗い廊下を一人職員用の玄関に向かって歩いて行く。

「おや、随分と疲れていますね」

 進む先の廊下の薄闇から滲み出てくる人影に声を掛けられた。

「ん?」

 薄暗いなか目を凝らしてみれば声を掛けてきた男は痩身の三十代くらい、眼鏡を掛けたニコニコと無害そうな男。

「その顔、覚えていないですか。朝礼の時にはいたのですが、まあ影薄いですからね」

 男は照れ笑いしながら頭を搔いている。

 朝礼での印象とかの問題ではない、俺は事前に入手した教員名簿には一通り目は通してある。知らない職員なんていないはずなんだが記憶が中々励起されない。行方不明になった女生徒に関係無い教師だって名前は怪しくても顔くらいは覚えた自信はあったんだが、疲れているのか? 記憶力が低下したとは思いたくないな。

 脳髄をまさぐり名前と担当教科を思い出す前に名乗られた。

「カウンセラーの飯樋です。

 どうです疲れているようですし帰る前に一緒に一服でもしますか?

 愚痴くらいは聞きますよ」

 カウンセラーね、教員名簿にそもそも載ってなかった可能性があるな。もしそうなら、じいさんに情報伝達の瑕疵で依頼料上乗せしてやる。

 しかしカウンセラーなんて役に立つのか? 

 学力、運動、進学、親との軋轢、クラス内の人間関係と人間である以上学生でも悩みの重さも大人と変わりはしない。いや寧ろ強制的に人生の岐路の選択を迫られる分、ある意味大人より重いプレッシャーが掛かっている。

 それを赤の他人に話した程度で解消されるのか? それこそ薬を使った洗脳に近いことでもしなければ無理なような気もするが、まあカウンセラーで救われる奴がいるというなら別に否定はしない。

 そして今回に限り興味無しと無関心を決められない。カウンセラーということは失踪した女生徒が悩みを相談している可能性がある。

 もしあるなら、その情報は無視できない。

「勤務時間外ですし、ビールくらいは出してくれるんですか?」

「学校内でアルコールはちょっと」

 馬鹿を装い甘える俺に飯樋は苦笑いしながら応える。

 性格は真面目な方か、軽い気持ちでカルテを見せてくれとは頼めそうもないな。

「酒はコミュケーションに最適なツールじゃないですか。

 飲べば心も口も軽くなる」

 カウンセラーにも通じる心理。実際に酒を飲めば心が楽になり、故に弱い者は依存し過ぎて廃人になる。しかしたかがアルコールという化学反応で心のありようが変えられるとは、所詮心は脳が作った反応に過ぎない証左なのか。

「まあ否定はしませんが、僕もクビにはなりたくないのでそれは後日にしましょう」

「楽しみにしてますよ」

 来ない日と書いて後日と読む、社交辞令に社交辞令を返しておく。

 理事長のごり押しで入ってきた教育実習生が煙たがられているのは、ひしひしと感じている。それに事前情報ではこの学校の上層部は俺の雇い主の理事長派と校長派に別れていて、校長派の方が優勢らしい。現場の先生方も微妙な情勢下迂闊に俺に接触したいと思わないだろ。

 先生も人の子、組織の子ってね。

 誰もが遠ざかる火種の俺にわざわざ優しく接触してきた此奴の狙いは何だろうな?

 校長派からのさぐりとか? 

「カウンセラー室に行けば、ビールは無理でもお茶くらいは出しますよ。どうします?」

「折角のお誘いですしゴチになります」

 飯樋の目的を知りたいのもあるが、もしかしたらカウンセラー室に侵入してカルテを拝借する可能性もある。一度中を見ておくことは悪くない。


 カウンセラー室はパステルカラーで統一され食器棚とテーブルの他には観葉植物とベットが置いてあるだけとシンプルだった。

 何か心理学的に計算されているのであろうか?

 てっきり書類棚かなんかにカルテが入っていると思い込んでいたが、それらしき棚が無いということは、カルテは全てあのノートパソコンの中か?

 扉は古くさい鍵で施錠されているだけで、監視カメラなどのセキュリティーもない。部屋への侵入は苦も無いと思っていたのにいきなり難度が上がった。

 どうやらカルテを見たいなら策を弄する必要がありそうだな。

「はい、どうぞ」

「ああ、どうも」

 飯樋は電気ポットからティーポットにお湯を入れ、数秒待ってからティーカップにお茶を注いでくれた。

 鎮静効果でも狙っているのかハーブの匂いがする。

「そう緊張してないでリラックスして下さい」

「はい」

 そう言われても密室で初見でよく知らない男と二人きりという状況で緊張するなという方が無理だろ。

 このハーブティーにしても臭いで誤魔化して薬でも入っていたら、目撃者のいない密室では俺は人形のようになすがままになってしまう。

 そう思うと迂闊には飲めなくなってしまう、口を付ける程度にしておくか。

「ははっ、そうは言っても無理だよね。まあ初対面じゃしょうが無い」

 飯樋は此方の心情を見透かしたかのようでありながら暢気に言う。

「そうはどうも」

 俺はハーブティーを一口飲みながら応える。

「それで初日の感想はどうでした?」

「まだ授業もしてないのでなんとも」

 授業はしなかったが喧嘩は買いまくったな。だが俺が先に売ったことはない。ナチュラルに女生徒に喧嘩を売られまくるということは、最近ちょっと誤解しそうになったが俺はやはり女性に好かれるどころか普通にしていると勘に障る男なんだな。

 これじゃ教師の適正ゼロだな。

「いやいや、そんなことはどうでも良くて。

 僕は生の彼女達とぶつかり合ってきたことに興味あるんだ」

 教師でなくカウンセラーらしいといえばらしい反応なのかもな。

「若いよね彼女達。新芽の如く勢いがあって心も体もぐいぐいと伸びていく。それだけに勢いはあっても不安定、そんな彼女達と真っ向からぶつかれる若さが羨ましいよ」

「羨ましいですか?」

 教師は聖職と言うが、やっているのは普通の人間だ。一人で大勢の生徒と真っ向からぶつかっていたら磨り潰されるだけだ。

 俺はあくまで目的が他にあるからこそ出来ることで、長期で教師になる気だったら受け流していた。

 この人が羨むようなことは何もない、俺は小賢しい人間さ。

「そうだよ。

 僕では彼女達に真っ向からぶつかれない。悩んでいる彼女達にせいぜい別の道を示して上げるくらいだよ」

「道ですか?」

「そう道だよ。

 決定的なことになる前に別の道を示して上げる。それくらいしか出来ない無力なものだよ」

 別の道を示すか。俺では出来ないことだな。

 いやもしあの時この人のような人に出会えていたら、俺は別の道を選べていて心が壊れることなく今頃大学生らしく普通に恋愛なんかして青春していたのかもな。こんな悪意に晒され命を天秤に掛けるような恋は普通の人間はしない。

 この人だったら俺にどんな道を示してくれたんだろうな。

「なら疲れた俺に何かアドバイスして下さいよ」

 別に今でもいいか。今だって俺は日々戦い悩んでいる。いい道を知れるなら遅いことはない。

「まずは植物を見るといいよ」

「植物、目に優しいですね」

「目に優しく心にも優しい。

 彼等は何に囚われることも思い悩むこともなく、生きている」

「何も考えてないだけでしょ」

「そうかな? 

 ならなぜ僕達はそんな植物を見て美しいと感じ心を癒やされる?

 一切の執着無くただ生きる姿、その姿に僕達は何か感じているんだよ」

「そんなもんですかね」

「別に無理に理解する必要は無いというか、理解しようとしてはいけない。

 ただ見て感じればいいんだよ。

 きっと癒やされる。特に君みたいに人の三倍は考えるような人にはお勧めだよ」

「参考にしますよ」

 こうして三十分ほど談話した時にはティーカップは空になっていた。


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