第332話 お金より幸せが大事

 ふわっ幸福の先導者こと長いので命名「幸子」がテーブルから浮いたと思った瞬間には衝撃に吹っ飛ばされた。

「げふっ」

 びちゃっとゲロの海に沈み、直ぐさま起き上がる。

「ふふっ汚い汚い」

「!?」

 間一髪。

 幸子がいつの間にか放り投げた椅子が俺に向かって墜ちてくるのを避けた。避けた椅子がずぼっとゲロの上に突き刺さり、その上に幸子が気付いた時には乗っている。

 なるほど椅子は攻撃の為じゃ無くて足場という訳ね。

 ぶっ飛んだ思考を持つ魔人でも俺のゲロの海に足をツッコムのは嫌なようで。

「意外と勘がいいじゃ無い。

 はい」

 またふわっと蝶のように幸子が椅子の上で浮き上がったと思えば見えない衝撃に俺は吹っ飛ばされゲロの海に再度沈む。

「どう、しあわせになりたくなってきた?」

「まだまだ」

 ゲロに塗れ立ち上がり幸子に立ち向かう。

 あれは魔の力なのか?

 それとも純粋に武術なのか?

 攻撃動作なのか幸子が蝶のようにふわっと浮き上がるまでは視認できるし認識できている。なのに気付けばカウンターを取るどころか吹っ飛ばされている。

「がはっ」

 吹っ飛ばされてゲロに頭からツッコミつつも考える。考え続ける。

 人間は生物の中で弱いが故に頭を使い、狡賢く勝った。弱者が考えることを辞めたら敗北だ。

 魔だと片付けるのは簡単だが、それは思考停止だ。

 魔人とは己の世界をこの世界の共通認識を突き破り実現した者。なんでもかんでもありな分けでは無い。

 ならばあれが武術だろうが魔だろうが何かしらの筋がある。

 考えろ。

 最初のふわっと軽く緩い動作は目眩ましなのだろう、目を眩まし別の鋭い一撃で攻撃をしてくると推測する。

 問題はその鋭い攻撃のタネが全く分からないことだが、幸いなことに威力が無いのかいたぶる為なのか一撃で行動不能になることは無いようだ。

 ならば試行錯誤する暇はあるな。

 一つ策を試してみよう。

 連続ピンフなど倍満一発で逆転すればいいだけのこと。


「くっ」

 考えている内にも店内にあった椅子は次々と爆弾のように俺に降ってきて、避ければ幸子の足場が増えていく。

 ならばと迎撃して打ち落とせば、その隙を狙って幸子に攻撃を食らう。

 くそっ圧倒的に実力が足りない。弄ばれる。

「はい、はい、はい」

「がっぼっぐふっ」

 タネが割れないままに俺は西に東に北南と吹っ飛ばされ床を人間モップになって掃除する嵌めになる。

「ごばっ」

 そしてついに大の字になってゲロに海に倒れた。

 一撃は大したことないがそろそろ逆転が難しいほどにダメージが積み上がってきた。体中に痛みが走りもう少し遅かったらこのままゲロに海で脳内麻薬の陶酔に浸って溺死していたかもしれないな。

「ごふっ」

 幸子が俺の腹の上に飛び乗った。

「どうしあわせにしてあげましょうか?」

「余計なお世話だ」

 俺を見下してくる幸子に俺は言い返す。

「もしかしてあなたマゾ?」

「いいやサドさ」

 そういうと同時に俺はゲロの海から手を引き抜き、引き抜かれた手には銃が握られていた。

「えっ!!!」

 俺はきょとんとした幸子の額に躊躇無く引き金を引く。

 銃弾はゲロに詰まること無く射出され幸子の脳天にヒットし、幸子が吹っ飛ばされゲロの海に沈んでいく。

「馬鹿が油断しすぎだ」

 俺は無策で何度も幸子に挑んでゲロに海に吹っ飛ばされたわけじゃ無い、隅から隅まで吹っ飛ばされては手探りで幸子によって棄てられた装備を探していたのだ。時間は掛かったがいい具合に幸子の油断を誘えたので良しとしよう。

 道は一つで無く必ずしも相手のタネを見破らなければ勝てないわけじゃ無い。

 これぞ一発逆転の倍満。


「はあ、はあ」

 全身ゲロまみれのフルチン姿、下手に助けを呼んで見られたくない姿だな。

 奥の厨房にいけば水場くらいあるだろう。ゲロの海に沈んだ服も洗えば我慢して着れないことは無く、今の姿よりはマシなのは確実だ。

 俺が服を探すかと思いゲロの海を見渡せば、ゲロの海の一部が盛り上がってくる。

「!?」

 盛り上がったと思ったら中から幸子が飛び上がりテーブルの上に飛び乗った。

 くそがっ。

 額から血は流れているが穴が空いているようには見えない、あの一瞬で体を反らして銃弾を紙一重で躱したというのか。

 だが振り出しに戻ったわけじゃ無い。幸子は更に傷を負った。最初に負わせた掌の傷と合わせそろそろ出血が危険水域に達する頃、魔人とはいえ人、血が無くなれば死ぬ。

 時間は俺の味方、判定勝ちを狙うボクサーのように最終ラウンドは逃げまくってやる。

 勝利への筋を確信し幸子を見据える。自分が死にそうになる不幸に合ってさぞや俺を憎しみの目で睨んでいるかと思えば、その顔は恍惚だった。

「はああああああああああああああああああ~、幸せ」

 うっとりとエクスタシーに達して余韻に浸るような顔で言う幸子に嘘や演技は無い。

 此奴こそ真性のマゾ?

「知らなかったわ。

 死に迫るほどに幸せを感じるなんて」

 幸子は性を実感するように自分の体をまさぐりながら言う。

「こんなの知ったら他人の不幸で感じる幸せなんて子供の愛撫、そんなので彼幸に達する訳がないと悟ってしまったわ」

 自分で言っていて興奮を思い出したのか恍惚の顔に再び染まるだけで無く、全身から体液を出して股から何か滴り落ちている。

 何か人間、いや女として人前で晒しちゃいけない姿を晒している。

「俺が言うのも何だが、スリル依存症になったら破滅まっしぐらだぞ。

 だがまあ、その前に俺が引導を渡してやるがな。第二ラウンド開始といこうか」

「いやよ」

 俺のこれ以上醜態を晒さないで済むようにしてやろうという情けを幸子はあっさりと拒否した。

「この幸せこの余韻を家に帰って一人でじっくり味わって反芻したいわ。悪いけどあなたなんかに構ってこの余韻を穢したくないの」

 自分から仕掛けておいて勝手な女だ。俺だって家に帰って一人ゆっくり風呂に入ってちょっとした上手いもの食べてぐっすり眠りたいさ。

 だがそんな怠惰に耽るわけにはいかない。

「まさかお前ただで帰れると思ってないよな」

 俺の命を狙った奴を野放しには出来ない。明日からぐっすり眠る為にもここで決着を付ける。

「あなたを狙ったのは「榑谷 洋」よ」

「え!???」

 一瞬幸子が何を言っているか分からなかった。

「これでいいでしょ。

 何まだ足りなさそうね。

 なら私はメン・キカ。殺し屋が雇い主の名と自分の名を言ったのよ、これで満足でしょ」

 ほぼ俺の知りたかった情報を自ら言ってくれた。後は命を取るだけなんだが・・・。

「なんの冗談だ?」

「私にとってお金より幸せが大事。あなたとなら幸せになれると思っただけ。

 再見」

 キカは幻のように消え去り、テーブルの上には名刺が一枚置かれていた。

 こうして事件は一人の女の勝手で始まり一人の女の勝手で終わった。

「帰るか」

 もう疲れた。

 もう考えるのも嫌だ。

 一時間後、俺はずぶ濡れの服を着て帰路につくのであった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る