第302話 終幕

 母の腹の中。

 羊水に包まれ愛に包まれる。

 生老病死の無い解脱の世界。

 生まれた誰もが戻りたいと願う望郷のユートピア。

 純白たる世界。


 これが味わえるのなら奴隷にもなろう。

 幸福たる奴隷。

 

 愛。

 愛は強い。

 強いが故にどこか狂っている。

 どこか狂っているが故に強い。

 そうでなくしてどうして子供に無償の施しを与えられる。

 どうして子の為に命を投げ出すことが出来る。

 犬ですら我が子の為に飼い主に牙を剥く。

 愛は強い。

 強いが故に狂っている。

 狂っているが故に強い、合理の対極。

 愛。

 打算が無い至高の愛は純白。

 純白故に貴く、純白故に染まりやすい。

 愛は強いが故に人は愛に苦しみ。

 愛に苦が滲めば、あっという間に悪意に染まる。

 愛深まるとき悪意も深まり、人はもっと強く狂う。


「なっなんで」

 乃払膜は自分の腹に突き刺さったナイフを信じられないといった目で見ている。

 みるみる染み一つ無かった完璧な肉体が赫く染まっていく。

「我が愛を受けてなぜ?」

 乃払膜は今度は自分にナイフを突き立てる黒田に問い掛ける。

「くはーーーー。

  くはーーーーーー。

 乃払膜様が悪いのですよ」

 黒田は涙を流しながら吐露する。

「愛を与えてやったじゃないか」

 乃払膜は掠れる声で黒田に問い掛ける。

 あああれだけ神々しかった乃払膜様から生気が失われていき、手を伝って感じる乃払膜様の生気に黒田は至福に綻んでいく。

「だからですよ」

 訳が分からず絶望に染まっていく乃払膜様の疑問を解消させるべく俺が答える。

「果無、お前なら分かるというのか?」

「一神教の教えが世が広まり愛は善、強いほどいいなんてイメージを抱いてますが、仏教においては強すぎる愛を決して肯定しません。

 愛なんて響きはいいが、合理から離れた狂った感情ですよ。

 ちょいと悪意の一滴を垂らせば容易く歯車は狂う」

「?」

「つまりですね。あなたは二人の人間の前に無邪気に立った時点で破滅が決定したのですよ」

「?」

「まだ分かりませんか。

 やはり貴方様は学究の徒で俗世には疎い。

 複数ならまだ良かった。もう少し愛が弱かったら問題は無かったかも知れない。

 だが愛は強く二人の前に立った。

 あなたほどの強い愛を与える方はもっと慎重に用心して然るべきなのに、あなたはあまりにも無邪気に黒田の前で私に関心を示してしまった。

 そうなるとどうなりますかな」

「?」

「黒田は自分を見てくれない乃払膜様に苦悩した。

 愛に苦が混じって悪意へと変貌する。

 まっ有り体に言えば嫉妬ですよ。

 七つの大罪、最も醜き感情は最も貴き感情愛から簡単に裏返る」

 俺は乃払膜様に種明かしを丁寧にして上げ、喜ばしいことに乃払膜様の顔から疑問が消え納得した表情になる。

「ぐはっ。

 そうかもしれないが、こうも簡単に裏返るものなのか?

 お前黒田に何かしたな」

 吐血し乃払膜様の顔により一層死相が深く刻まれる。もはや助けられない。

 俺に出来ることは乃払膜様の一生に一度しか見れない昇天の瞬間をこの目に焼き付けることだけ。

「ええ、悪意の滴を垂らさせて頂きました。

 それでもあなたがもう少し用心深かったら効果は無かったでしょうね。

 あなたは人間の感情など愛でどうにかなると愛を過信しすぎた。

 愛は決して善だけでは無い強い感情で容易く人は愛に狂う」

「お前には我の愛が効かなかったのか?」

 まあそもそも俺が黒田に悪意を仕込まなければこうはならなかった。

 俺は一度乃払膜様の魔を見ている。

 知っているなら対策をする。

「私は私自身に予め悪意を仕込んでおきました。

 それは乃払膜様の強い愛を受けて発芽しました。

 お恥ずかしながら、こんな私に愛を注いでくれる乃払膜様を独占したいと思ってしまいました」

 強い愛は執着を産み独占欲へと裏返る。

「げに恐ろしきは人間か」

 それを最後に乃払膜は納得した顔で途切れた。そして凭れ掛かる乃払膜を黒田は嬉しそうに支えている。

 愛は消え悪意のみが残った。

「黒田、国家反逆罪で逮捕する。

 気付いていたとは思うが証拠は録音させて貰ったさっきの発言だ」

 黒田に手錠を掛け俺は懐に忍ばせておいたボイスレコーダーを黒田に見せるが興味はなさそうである。

 過去の黒田にしてみれば俺をタダで帰す気は無かったので気にして無く、今の黒田にとっては本当にそんなことどうでもいいのだろう。

 乃払膜を独占して幸せそうな顔をしている。

「なんか後味悪い終わり方だね」

 今まで後方で様子を伺っていた時雨が出てきて何とも言えない顔をして言う。

「そうか、俺は嬉しいぜ」

「君にとっては罪が晴れてそうだろうけど」

「そんな程度で俺は喜ばないよ」

「じゃあ何が?」

 俺の笑顔に時雨は小首を傾げて俺に問う。

「時雨が俺を信じてくれたことが、ありがとうな」

 俺は流れるように時雨に抱きついた。

「ちょっちょと、しんじったって」

「俺が洗脳されたと思って時雨が介入してきたら、おじゃんだった。

 時雨は俺を信じて待っていてくれたんだろ」

 俺が無策に洗脳されたと時雨が思って乱入してきたら、俺は乃払膜を守る為に全力で時雨と戦い、全てがご破算になっていたかも知れない。

「そりゃ君が無様に洗脳されるはずが無いと思って様子を見ていたけど」

「それが嬉しいんだ、ありがとう」

 つまり時雨にとって俺は無力で守るべきモブからランクアップされたわけだ。

 俺は一層強く時雨を抱き締める。

 その柔らかい体を体全体で感じて、その暖かさを味わう。

 惚れた女をその手に掴む至福。

「もう、いい加減にしろ」

 褒美なのか一時ほどの猶予を与えてくれた後に時雨は俺を押しのけた。

 最高のご褒美を貰ってこの事件であった辛いことなど帳消しになった。

 終わってみればハイリスクスーパーリターン。

「じゃあ、予定通り後始末を頼むよ」

「分かったわ」


 地獄で少女が舞い出す。

 悪意で赫く染まる地獄。

 雪降る夜を告げる鶴の一鳴きが響いた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る