第291話 ストックホルム症候群
大分人里から離れ人の姿を見かけなくなるにつれ木々が増えていく。窓を閉めていても空気の味が変わったのを感じ取れる。
「ここで止めてくれ」
「はい」
大原が車を止めたのは山の中腹にある別荘地へと続く道の入口。渓谷を流れる川に並走する舗装されたこの道を上っていけば15分ほどで黒田がいる別荘地に着くだろう。
「こんな所で止めてどうするの?」
早速ユリが聞いてくる。
「ここからは山の中を通る脇道を通って別荘地に向かう」
この道が開通されてからは使われなくなった昔の登山道がここから延びていることは調査済み。ほんと最近の地図の精密さは怖くなる。当然車は通れず歩いて行くことになる。
「えーーなんで~」
「文句を言うな。黒田ほどの男が見張りを立ててない訳が無いだろ」
一人置いておけば別荘地への出入りする車両の監視が出来るんだ置いておかない理由がない。
「そんな事言ったら脇道に見張りがいない保証も無いんじゃ無いですか~」
「そこは運に賭けるしか無いな」
あながちユリの言うこともただの我が儘じゃ無い。
黒田の性格を考えたら脇道にだって見張りを置いているだろう。だが黒田は俺が追跡してくると思っているだろうが、こんなに早いとは思っていないはず。実際影狩が追跡してくれていなければ、こうも早くは追いつけなかった。
そこに僅かな隙が生まれる。流石の黒田も人員を無数に使えるわけじゃ無い。可能性が低いなら何しに来たか知らないが限りある人材はそこに注力して目的の早期達成を優先するだろう。
盤面は終局に近い、ここで焦って稚拙な一手を打つわけにはいかない。嫌らしく相手の隙を突いていき、少しでも勝率を上げていく積み重ねが決戦時の勝敗を分ける。
今のところ俺のアドバンテージは追い付いたことを知られていないこと。今はこれを大事に主軸にする。
「そんなの疲れ損かもしれないじゃん」
言い方が悪いというか我が儘女っぽい言い方と普段の行いが悪いのでばっさり切り捨てたくなるがユリが言うことも一理ある。
ユリが言う通り黒田が抜け目なく監視を置いていたら、わざわざ登山をした分だけ俺達は無駄に時間と体力を削っただけで無く車という武器すら自ら捨て去ったマヌケに成り下がる。
ユリが言う通りこのまま車で突撃していく力押しもありと言えばありだが、その場合黒田に察知され応戦してくれればいいが逃げられたら面倒になる。
黒田の目的の邪魔だけをするという手もあるが、時間は俺の味方か?
時間が経てば警察の大軍が俺を逮捕すべく追ってくる、のんびりとはしていられない。だが逆に如月さんが逆転の証拠を見付けてくれる可能性もある、あるが他力を当てにして今出来るベストを尽くさないのは趣味じゃ無い。
やはり、ここで俺の手で決着を付けよう。
「そうだな分かった、二手に分かれよう。俺は山道を行く。万が一見つかった場合は影狩との合流を目指しつつ囮に成る。残ったチームで黒田に強襲を掛けてくれ。最悪黒田を逃がさなければいい」
逃がしさえしなければ後は黒田にやられたように罪を捏造するなりどうとでも出来る。黒田は俺を逃がしたことで詰めの盤面をここまで盛り返された、俺は同じ轍は踏まない。
「ひゅう~かっげき~」
ユリが初めて嬉しそうに同意した。
「戦力を分散するのですか?」
大原が軍人らしく戦力の分散を危惧する。
「どのみち車を放棄は出来ないから、元々一人はバックアップとして誰かを残さなければならないとは思っていたことを考えればそう愚策でも無いだろ」
今回天見にユリがいる。二つに分けても戦力的には十分、寧ろまとめた方が効率が悪い過剰戦力とも言える。
「なるほど」
大原は納得してくれたようだ。
「ユリと大原は残ってくれ」
大原は真面目で能力的にも信頼できる。分散して戦う以上大ざっぱは許されない、緻密な連携が要求されるが大原なら別働隊として任せられる。そしてユリは隠密行動に向いていると思えないからな~。それでいて旋律士としての戦闘力は十分なので戦力のバランスが取れる。
「はい?
ちょっちょまった~天見さん行っちゃうの、天見さんも残しましょうよ。やっぱ、いい男はいい女を侍らせないとね」
「なら俺が残ろうか?」
「ぶっぶー鏡を見てください~」
ぶん殴ってやりたい。
これは単なる我が儘で理屈じゃない~そういうときはまあ現実を見せるしか無い。
「天見はどっちを選ぶ?」
「ご一緒させて貰おう」
天見はあっさりと何の迷いも無く俺を選んだ。想定通り。
「え~それじゃあ私も・・・」
「振られたんだから諦めろ、いい女なんだろ」
「く~、しょうがない。今は一時的に諦めますか」
「そうしろ、業務時間外ならストーカーをしようが俺は何も言わん」
捕まっても俺は関与しない。
「ふんだ。天見さんお仕事終わったら私の魅力じっくり教えて上げるからね」
「いや、終わったら私は帰る」
ユリは天見にウィンクをするが天見は全く相手にしない。
「漫才はそこまでだ」
大原が用意しておいてくれた装備が入ったリュックを背負って車を降りる。嬉しいことにリュックには愛銃も入っている。警察署に忍び込んで奪還しておいてくれるとは、つくづくいい部下だ。
車から俺、天見、そして時雨が下りる。
「人質なんだから無理に付いてくる必要はないぞ。
それともストックホルム症候群で俺に惚れたか?」
「はいはい、惚れた惚れた」
時雨は溜息交じりに吐き出すように言う。俺と時雨の関係も端から見ればユリと天見の関係とどっこいに見えるとは思いたくないな。
「それは嬉しいが、本音は?」
ここで積極的に俺に荷担しては人質という言い訳は苦しくなる。
いいのか?
家より俺の方が重くなるほど惚れたのなら嬉しいが、そんな訳じゃ無いよな。
「あんな話を聞いたら旋律士として放っておけないよ」
まあ魔の力を使って国を牛耳るなんて古来より魔からこの国を守ってきた旋律士としては許せないことだろう。
実に旋律士らしい。
「なるほどね。
一時でも俺から離れたくないほど惚れてしまったか」
「君ボクの話聞いてた?
まあ、それでもいいよ」
えっいいの? 軽口を聞いた俺の方が驚いた。
「ボクは君に惚れたんだから幻滅させたりしないでよね」
時雨は挑発するように俺に笑ってみせる。
これは男としていいところを見せないわけにはいかないな。
「気合いを入れて貰ったところで行くか」
俺達は木々が生い茂げ半場獣道のようになった山道に入っていくのであった。
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