第282話 一の女

「はっ」

 振り払われる小太刀。

 もう何度目か分からないが赤い霧が氷砕となって散った。そして直ぐさま地下駐車場に赤い霧が満ちていく。

「はあはあはあ」

 流石の時雨も旋律の連発で肩で息をしている。対して俺の中の悪意は一割も減っていない。

 このまま押せば勝てる。

 今まで惚れた女だが俺では釣り合わないと何処か引け目も感じていた時雨に勝てる。これで俺は時雨と同格の男と成れるというのに、全然嬉しくない。

「クソが、馬鹿にしているのか」

 歯軋りをし拳を握り締める。

「? なんのこと」

 思わず漏れた怒りの声に時雨が何のことが分からないと不思議そうな顔で応える。

 ちっそうか自覚無く俺を見下しているということか。

 理由は分からないが、時雨は全力で戦っていない。

 時雨ほどの身体能力の持ち主なら赤い霧が砕かれ降りしきる間に俺に剣を突き立てることが出来る。旋律の力が宿った小太刀なら俺を中に詰まった悪意ごと消し去ることが可能で、いちいち俺が吐き出す悪意をチマチマ調律する必要は無い。

 なぜしない?

 こんなことが思い付かないほど俺が惚れた女が頭が悪いわけが無い。

 そうか!

 万が一調律し損ねて俺の中にある悪意が溢れ出すのを警戒しているのか?

 優しい時雨ならありそうな話ではある。別に死ぬわけじゃ無いが純粋な悪意が見せる悪夢に苛まされれば、精神の弱い者なら現実と夢の世界の境界が崩壊するかも知れない。

 万が一にも市民に被害が出ないように気を遣っているのか。ならばこれはこの辺り一帯の避難が終わるまでの時間稼ぎということか。

 いずれにしろ時雨は勝手に縛りプレイを始めている訳か。これが俺が意図した謀略だったら堂々と胸を張れるんだが・・・。

 今一乗れない、スカッとしない。

「どうしたの? 遠慮しないで来なよ。

 ボクは君の全部を受け止めてみせるよ」

 不敵に笑ってみせる時雨のそういう台詞は二人だけのベットの上で聞きたいものだ。

 もういい、終わらせよう。

 スポーツじゃ無いんだ、正々堂々対等な条件で戦える訳が無い。

 そんなことに拘る奴は実戦では生き残れない。

 だいたい時雨だって真っ直ぐ俺を見るその目から輝きは失われていない。青みがかかったその綺麗な瞳は広い空のようであり、慢心すれば俺の方こそ吸い込まれる。

 縛りプレイだが本気だ。

「それじゃお言葉に甘えて。

 悪夢、夢魘迷宮」

「今更そんなもの」

 時雨は流れを見切って赤い霧を切り払い、俺はその切り払われた空間に飛び込む。

「なっ」 

 飛び込んでくる俺に時雨が初めて驚きの顔を見せた。

 小太刀を振り払ったばかりで生まれた隙。いつもの時雨ならその間こそ気を付けていたが、繰り返される単調な攻撃と疲れで油断が生まれた。

 弱者の俺はその隙を見逃さない。

 俺は遠慮無く時雨に向かってショルダータックルを喰らわす。

 体格的に俺の方が大きく重い。下手な小細工なしの質量攻撃の突進だが疲れが溜まっていた時雨はいなすことも出来ず喰らって吹っ飛ぶ。

「きゃあっ」

 それでも両手の旋律具を手放さないのは立派だが、今はそれが裏目に出る。両手が塞がった状態では上手く受け身が取れず白子のような生足が床に投げ出される。

「くう」

 仰向けに倒れた時雨は俺を睨みつつも起き上がろうとするが、疲労が蓄積された体では意思に応えるのにタイムラグが生まれる。

「これで終わりだ。

 悪夢に抱かれろ」

 俺が羽ばたく鳥の如く両手を広げればしゅっと悪意が葉脈のように広がり翼を形作っていく。

「悪意、堕天翔」

 時雨は悪意に抱かれて悪夢に沈む。

 多少心苦しいが、死にも怪我もしない。暫く眠っていて貰うだけだ。

 俺でさえ耐えられた悪夢だ時雨なら大丈夫問題なく目覚められる。

 俺は悪意の翼を時雨に向かって閉じた。

 地に墜ちていく羽ばたきで悪意の翼が時雨を包み込もうとする。

「矢牛流 炎螺猛進」

 時雨を包み込もうとした悪意の翼が矢のような跳び蹴りで焼き払われた。

 そして時雨の前にナイトのようにキョウが雄々しく立っているのであった。


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