第281話 勝負

「悪意、夢魘迷宮」

 俺は今初めて時雨に向かって技を放つ。

 技と言っても悪意をただ霧状にして放つだけのお粗末なものでセウの悪意の扱い方には足下にも及ばない。

 それでも俺だけの魔、俺の力。

 あの時俺という器に神の如き力で悪意が押し込められた。

 悪意は空気に似て非なるもの、それがドロドロの液状に変わるほどに凝縮されて俺に詰め込まれた。こんな事普通にすれば俺という器は破裂するが、あの時は俺の周りも悪意に囲まれ奇蹟とも言うべきバランスで内圧と外圧が釣り合った。

 だが今は違う、凝縮されたウランの如き悪意はエントロピーの法則の如く外部に広がろうとしてに俺の精神を破裂させようと内圧を高めている。それを押さえる外圧も押し込める神の力も無い。徐々に高まっていく内圧を俺の意思だけで押さえつけている所為で思考も鈍って気持ち悪い。

 今の俺は薬缶の蓋を閉めきってお湯を沸かしているに等しい。

 薬缶は俺でお湯は悪意。

 このままならいずれ俺は破裂する。

 俺が破裂すれば地獄こそ顕現しないが街一つが一時悪夢に沈む。

 まあそうなったら失敬さ。

 そんなわけで俺の内部から溢れようとしている悪意の圧があり、ちょいと穴を開けてやれば外に噴き出していく。

 穴は小さすぎれば勢いが無く、大きすぎれば勢いでそこから亀裂が入って俺の精神がそこから崩壊する。

 大きくなく悪意が勢いよく吹き出せる、俺はシャワーのような小さい穴の集合体をイメージして腕を振り払えば吹き出る悪意が霧状となって時雨に襲い掛かる。

「はっ」

 だがそんな赤い霧に白銀の刃が突き刺さり切り裂かれた。裂かれた先には小太刀を振るう時雨が凜と立つ。

 固体だけで無く霧状のものすらその流れを読んで切り裂くか。

「みんな早く逃げて」

「ひいいいっ」

 時雨の声に威勢良く現れた警官達は蜘蛛の子を散らすように逃げていく。

「でも君が」

「いいからっ」

 踏み止まって時雨を気に懸ける警官を時雨は叱咤する。

「ボクに任せて、ね」

「分かった」

 そして優しい笑顔で時雨が諭せば警官も情を残して退避していく。あの警官は時雨が窮地になれば命に代えても戻ってくるだろう。

「相変わらずの魔性の女っぷりだな」

 切り裂かれようが、切り裂かれた裂け目に俺は赤い霧を注ぎ込む。なんと言っても有り余るほど悪意はあるんだ出し惜しみする必要は無い。

「はあああああああーーはっ」

 一回りして小太刀を振るって赤い霧を裂き。

 二つ廻って音叉で赤い霧を叩けば、赤い霧が霧散する。

 踊るように時雨は音叉を振るい小太刀を払う。

 小太刀の先端にまで神経が行き届かせ、体を旋律を奏でる一個の楽器と化す。

 来るか、俺が惚れた時雨の旋律が始まる。

「いつもの脇役だったら鑑賞していられるが、今回はそうもいかないな」

 だがどうする?

 このまま赤い霧を放っても切り裂かれるだけ、それでも雲霞の如く押し続ける策も悪くないが芸も無い。

 俺と時雨の全力勝負、それじゃつまらない。

 時雨が技なら俺は小細工で。

「悪意、夢魘回廊」

「!」

 赤い霧が積乱雲の如く渦を積層させて巻いていく。

 襲い来る赤い霧を時雨は踊りつつ切り払うが、先程のように一振りで切り払えない。一部は切り払えても一部はそのまま時雨に忍び寄っていく。

 時雨はターンをしつつ後退して赤い霧を躱す。

 よし。

 今までは均一の赤い霧を放っていたが、今の攻撃では意図的に不均質の層を作った。一様なら流れを一つ見破られ一気に切り裂かれたが、不均質の赤い霧ならそうはいかない。ミルフィーユの如く複合されている分流れは複雑に絡み合い一振りで切り払えるほど単純じゃ無い。それぞれを切り裂くか圧倒的な力がいる、どちらにしろ手間が掛かる。

 俺が掛ける手間を時雨が掛ける手間が上回ったとき時雨は赤い霧に呑まれる。

 なのに時雨は乱れなく舞う。

 息も乱れず。

 指先一つ乱れない。

 美しき鶴の羽ばたきの舞い。

「綺麗だ」

 初めての感動と同じ言葉を呟いたとき一際大きく音叉が振るわれ。

 プーーーーーーーーーーーーーーンと小太刀が共振し世界に美しい、一音が響いた。

 トンと音叉を振るえば小太刀が共鳴し、共鳴した小太刀が複合する赤い霧を次々と切り裂いていく。

 厳かなる教会に響くトライアングルのような澄んだ音。

 一音響いて舞い踊り、二音が響いたときには旋律が紡がれ出す。

 少女は可憐に踊り、旋律を奏でる。

 幻想的に硬化質。

 雪国の夜。

 降り積もる雪原。

 雪が音を吸収し、風すら凍り付く。

 月光だけが楚々と降る。

 空気すら砕けそうな幻想。

 その幻想を砕く鶴の一声が鳴き響く。

「雪月流、風凍る夜」

 時雨が小太刀を天に掲げて降り降ろせば、赤い霧は瞬く間に白い霧となって霧散した。

 あれほど悪意が充満し吐き気がする不浄なる空間だった地下駐車場が清浄な空間に生まれ変わった。

「どう、降参する?」

 時雨が得意気に俺に問う。

 確かに見事で美しかった。流石俺が惚れた女の舞い。

 だが、勝負は別さ。

「まだまださ」

 不敵な台詞に乗って俺の体から湧き出る赤い霧が一瞬で地下駐車場に満ちていく。

「そんな」

「地獄を顕現する悪意の量、この程度と思って貰っては困るぜ」

「君はそんな物を抱えているんだね」

 一瞬目の錯覚か時雨が悲しそうな目をする。

「いいよ来て、ボクが全て受け止めてみせる」

 時雨は優しく微笑むのであった。



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