第205話 新たなる強敵
日本庭園が広がり苔むす道に浮かぶ飛び石の先には玄関がぼうっと浮かんでいる。
ひんやりと澄んだ空気。
やはり門の外と内とでは世界が違う。
都会の全てを呑み込む混沌の空気がここでは異物を許さない清冽な空気に満ちている。
俺のような人間には些か居心地が悪い。
「どうかしたのかい?」
呉さんが立ち止まる俺に訝しげに声を掛ける。
「見事な庭に見穫れていただけです」
「そう言って貰えると嬉しいが、これでなかなか背負うには少々重い庭さ」
「でしょうね」
この庭、観光で見る分にはいいが受け継いで維持するにはどれほどの力がいるか。名家に生まれて安穏としているような輩では直ぐさま禿鷹に食い散らかされるだろう。
「だがこういった背負うには重い物が逆に守ってくれてもいる」
しみじみと言う呉さん。
確かに重いかも知れないが不況知らずで職にあぶれることは無い。
日本が平和で安定しているのは、ここ数十年ほど。僅か二代前で世界戦争があり、その後も冷戦があり世界不況もあった。旋律士は命を賭けるというが、普通の人間は職を得ることから必死だった。あぶれれば直ぐには死なないが、腐るように徐々に死んでいく。
この世界に安穏と生きていける奴なんて、そうはいないさ。
「さて、立ち話はこれくらいにして早く中に入るとしよう。母さんも時雨から話を聞いて君を待っていることだろう」
うげっ、そうか、そうだよな。父が居れば母も居るか。
まあ、今更か。一人も二人も変わらない。
家に入り当然時雨の部屋に案内されるなどという甘い展開にはならず、だだっ広い客間に案内された。
床の間には合って当然のように心が落ち着く華が活けてある。素人の俺でも分かる程度に派手すぎず侘びしすぎず、何とか流の華道を嗜んだ人間が活けたのが分かる。欄間の鳳凰の彫刻も襖の山水画も見事な純和風の十畳の部屋、時間があればゆっくりと眺めていたい芸術に溢れる空間には、机も無く座布団のみが人数分敷かれていた。
呉さんと時雨の対面に座るとき胡座などという選択の余地は無く正座で座る。正座をするなんて何年ぶりなんだろうな、ボロアパートでは胡座が普通だったからな足が直ぐさま痺れてしまいそうだ。
呉さんと時雨と間に何も挟まず直にこうして対面すると緊張する。その緊張を緩和するように女性が間に割ってくる。
「まあまあ、すいませんね。お父さんも時雨の彼氏を連れてくるなら一言言っておいてくれれば色々用意も出来ましたのに、気が利かない人ですいませんね。
これお茶です」
時雨の母自らが俺の前に茶托に乗せられたお茶を置いてくれる。てっきり女中さんが持ってくるか無視されるかと思っていたのに意外な対応。この人には歓迎されてないことは無いのか名家の格で下らないことはしないのか。
雪月 五月雨。日本髪と着物が似合う瓜実型のしっとりとした美人で時雨の未来を見ているようでもある。大人しく優しそうだが、この人も旋律士だったのだろうか? だとしたら、油断して下手に甘えれば手痛いしっぺ返しが来る。
「ありがとうございます」
時代劇の如く手を突いて頭を下げる俺を自然と受け入れ五月雨さんは声を掛けてくる。
「それと足は崩していいわよ。今の若い人に正座は辛いでしょ」
「お言葉に甘えさせて貰います」
足が痺れてはいざという時に動けない、無礼と思われようが素直に甘えさせて貰う。
常在戦場の心意気のサムライを気取るわけじゃ無いが、ここは俺にとって心休まる場所じゃ無い戦場だ。
「ふ~ん、簡単には心を許さないのね、借りてきた猫みたい」
ニコニコ笑っているが一瞬だが俺を値踏みする目をしたことを見逃さない。
「じゃあ、お母さん今日は腕によりを掛けてお料理するね。
果無さん」
「はい」
当然だが名字で俺を呼ぶ、認められてはいない。寧ろその方がいい、無条件で受け入れられる方が何か企んでいるのではと勘ぐって心休まらない。
「嫌いなものはあるかしら?」
夕飯をご馳走になるとは一言も言ってないが、逆に言えば夕飯までは生かしておいて貰えるということなのか?
幾らなんでも毒殺はしないだろ。
「特には無いので」
弱点を晒さないわけでは無い。まずくなければ何でも食える。
「好きな物は何かしら?」
ここは素直に好意と受け取っておこう。
「酢豚とか好きですね。あっパイナップルは入ってない方がいいです」
俺は酢豚にパイナップルを入れるは酢豚に対する冒涜だと思っている派だ。
「そうなんだ。酢豚ね~。ちょっと材料の用意が無いわね。買いに行かなくちゃ」
「いえそこまでは」
この人放っておけば本当に買い物して用意してしまいそうだ。
「遠慮しなくていいのよ」
「それに時雨さんが普段食べているものを食べてみたいです」
「あら~もう見せ付けちゃって。分かったわ。じゃあお母さん一旦退散するね。
時雨も手伝って」
「えっでも」
時雨は迷い俺と呉さんの間に視線を迷わす。自分が巻き込んだことに責任を感じているのだろうが、俺を巻き込んだ意図は今だ知れない。
まさか俺への嫉妬で迂闊に巻き込んだということはないだろ。
時雨はそんな迂闊な女じゃ無いし、そもそも俺に嫉妬しない。
「彼氏にいいとこ見せなきゃ」
人のいいようで時雨を俺から引き離そうにする策略にも見える。
まあ、遅かれ早かれ俺は呉さんとのタイマンを避けることは出来ないだろう。今日を逃れても明日にはアパートに乗り込んできそうだ。
「時雨さん、俺は平気だから」
「そう、分かった。でも無理しなくていいよ」
無理か。
所詮、天上人と凡人。その差は俺が身に染みて実感している。
天から垂れたロープを掴む手を苦しくて離してしまえば、二度とロープを掴めること無く地上に落下するのみ。
「時雨の料理楽しみにしているよ」
時雨が去り障子を閉めれば、この仕切られた空間に俺と呉さんの二人きりになっていた。
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