第120話 嫉妬の快楽

 ざっざっざっざっざっざっざっざっざっざっざ。

 少女はただ走っている。

 ねっとりと泥のような濁る視線を躍動する肢体に絡ませても、怯えた子ウサギのように震える視線を返しはしない、ひたむきに前を見る。

 べっとりと背後をつけ回し嫉妬の足跡を轟かせても、返ってくるのは悲鳴でなく規則正しい呼吸音だけ。

 少女は没頭し無我の境地で走る。まるで我等らなど無いかのよう。

 才能ある者が突き進み才能ない者など省みない真摯な傲慢。

 ああ、羨ましい。


 ざっざっざっざっざっざっざっざっざっざっざ。

腰からむっちりと引き締まった素肌を晒して伸びる二本の太股が躍動する。

 太股を構成する筋肉の上には必要最低限の脂肪がうっすらと滑らかに乗っているだけ。

フライドチキンよりも涎が垂れて齧り付き喰い千切りたくなるような本能を刺激するラインを描く足が彼女の輝かしい記録を文字通り支えているのだろう。

 あんな足があれば、もっと輝けた。その他大勢なんかで終わらなかった。努力が足りないなんて言わせない。

 同じ努力をしては及ばない。

 なら倍の努力をすればいいと頑張れば、躰が壊れてアスリートして終わった。

 ああ~羨ましい。


 ざっざっざっざっざっざっざっざっざっざっざ。

 どっくんどっくんどっくん。

 彼女から響いてくる。

 悲鳴じゃ無い。

 それは鼓動。

 嫉妬の足跡など打ち消さんばかりの意思すら覗える鼓動がドラムの如く力強いビートを刻む。

 意思に共振するように集められた酸素をへばること無く規則正しく黄金の足へと送り続ける心臓。

 あんな心臓があればもっとがんばれた、もっと努力出来た、きっと選手に選ばれた。

 あ~あ~羨まし。


 ざっざっざっざっざっざっざっざっざっざっざ。

「はっはっはっは」

 彼女の紅くまだあどけないが艶めかしさを秘める唇が蠢動し、小鳥の囀りのようにリズミカルな呼吸音で喘ぐ。

 その喘ぎに過ぎ去る彼女を振り返らずにはいられない。

 耳が惹かれ振り返れば、髪を靡かせ真っ直ぐ先だけを前だけを見て走ることだけに専念する機能美に輝く女神が映る。

 走る才能だけじゃ無く美しいなんて。あんな容姿があればきっとひいきされた。きっとせんしゅにえらばれた。きっとあの顔でコーチを誑かしたんだ。きっとそうだ。

 ああっ羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい、妬ましい。

 我々を影に追いやる眩しい才能が妬ましい。

 羨ましいから、影から背後からじっと見詰めて。

 妬ましいから、躓きしくじるのをじっと待つ。

 追い付けない非才には待つことしか出来ない。

 いついつまでも羨ましいと待って妬んで待って、躓きをじっと期待を秘めて待つ。


 どれほど走ったのであろうか。

 走る女神でもその身は生身、限りは有る。

 彼女は精神力を振り絞り体中に残るエネルギー全てを燃やして走り切り、糸が切れた人形のようにパタッと倒れた。

 コートに胸を潰して伏す彼女。

 でもその顔は悔しさよりもやり切った充足に満ち足りていた。

 それは好きなだけ走った満足か。

 コートの男との約束を果たした達成感か。

 彼女の背中はまだ上下に動いている呼吸をしている。

 今ならまだ助けられる。

 一時休めば回復するかも知れない。

 だけど、そんな暇はあ~げない。

 天を舞う鷹を見上がることしか出来ない地を這う虫螻

ひとたび地に降りた鷹なら貪れる。

 今の彼女こそ地に落ちた鷹、その才能溢れ輝く肢体にぼりぼりぼりぼり歯を立ててがりがりがいりがり齧り付きじゅるじゅるじゅるじゅる骨の髄までしゃぶり尽くす。

 ああ、ああっ、ああ~。待ちきれない吐息が零れる。

 決して追いつけない才能に今追いつく。

 ざっざっざっざっざっざっざっざっざっざっざ。

 足音は高まる胸の鼓動。

 さあ、さあ、さあ~、あと僅か。

 後一歩。

 ぐにゅっ。

「ぎゃあっ」

 踏み付けた足裏から伝わる柔らかい感触と共に満足げな顔した彼女の顔が歪む。

 そうそうそうそう、その顔。さっきまでの躓いたのに満足げな顔なんか認められない許せない。

 これからもっともっともっっっっとー歪ませてあげる。

 二歩。

 ぐちゅ。

「ぐあっ」

 まるでタイヤに踏み潰された蛙のような悲鳴が耳に心地いい。

 ああ、ああっ、ああ~、何度でも彼女の躰を踏み付けたい。

 ああ、ああっ、ああ~、何度でも彼女の悲鳴を聞きたい。

 才能を踏み潰すこの愉悦、いつまでもいつまでも。

 浸っていたい。

 気持ち悪い。

 ねっとりした闇に浸っていた気分が台無しだ。

 純粋な嫉妬とはこんなものじゃ無い。

 ずるずると泥沼の底に引きずり込んでいきつつも、腐臭の泡がぱっと浮かび上がって破裂する。二極分裂の感情、妬み女々しく嫉む双女極にはほど遠い。

 この妬み女々しく嫉む感情が快楽に裏返る時こそが恐ろしいほどに目的意識を統一されていた群集心理のほころびでありほろび。

 湧き上がる快楽に置いて行かれ一人取り残された俺は呟く。

「女は踏み付けるより、胸でも揉んだ方が気持ちいいぜ」

 湧き上がる群衆に置いていかれ俺は犬走を踏み付けようと振り上げた右足を右に逸らし、次に振り上げた左足を左に逸らし、股の下に入った彼女の胸に両手を回して抱え上げる。

「きゃあ」

 彼女の可愛い声と共にぐにゅと柔らかく暖かい感触が掌に伝わってくる。

 そこでもう一度胸を揉む。

「ちょっと」

 顔を真っ赤にした彼女の抗議の声と気持ちいい感触を自分一人で味わい噛み締める。

「意外と胸があるな」

「ばかーーーーーーーーー」

 嫉妬の群衆意識に飲まれかけていた意識が今はっきりと俺の意識になる。その意思を持って俺は彼女を抱え上げる。

「えっ」

 抱える彼女から香る汗の臭い。

 普段なら御免被るが、やり切った者が流す汗は甘露の如く甘く匂う。

「俺に全てを委ねろ」

 彼女は顔を上げて俺の目をひと瞬き見つめる。

「うん」

 彼女の躰から力みが消えて俺の胸に彼女の心も体も凭れ掛かる。凭れ掛かる彼女のままに俺は群衆の流れに逆らわないように、徐々に徐々に群衆の後方に下がっていく。

 下がっていく俺と犬走。

 ざっざっざっざっざっざっざっざ。

羨ましい羨ましい羨ましいと群衆は前を見て俺の横を過ぎ去っていく。

 追い越していく嫉妬の群れ。

 だがその嫉妬が俺達に向けられることは無い。

 嫉妬に狂った連中は前を走る背を憎らしげに見るが、置いていかれる者には興味が無い。そうあれほど自分達は置いていかれ妬んでも自分達は決して置いていかれる者に手を差し伸べるどころか振り返りすらしない。

「しかしギリギリだったな」

「ギリギリ?」

「ああ、お前が俺の予想以上に粘るもんだから、もう少しで俺の方が先に嫉妬の群衆意識に飲まれてしまいそうだったぜ」

 自分が嫉妬される対象にならないと分かって追い付かれてみたが、今度は嫉妬する側として取り込まれそうになった。七つの大罪の一つ嫉妬、人は醜い穢れた感情として忌み嫌うが決して辛いから嫌うのでは無い。麻薬と同じ、嫉妬し嫉妬に溺れるのは快楽。中途半端に浸れば理性が否定するが浸りきれば甘い酒に酔うかのような闇の快楽。

 眩しい彼女の才能に当てられ俺の危うく浸り切りそうになった。ひとえに下らない快楽に嫉妬の群衆が歓喜したから俺は正気を取り戻せた。

「えっ。じゃああなた去り際にあんな意味深なことを言っておいて、心の中では私が無様に転ぶのを待っていたというの?」

「その通り」

 しれっと言い切った、事実そうだから。それしか凡人の俺には手が無かった。

「いっ嫌な奴」

「その通り俺は嫌な奴なんだ。よく時雨にも言われるよ」

 少し自嘲気味に言う。

だがいい人のままじゃ時雨の傍にはいられなかった事実に後悔は無い。

「じゃあ、そう言えばいいじゃない。私のあの頑張りは・・・」

 彼女にその先は言わせない。彼女にあの走りを否定させたくない。

 あの時の彼女に助かりたいとか俺への負い目とかの不純物は無かったはず。

 ただ走っていて、ただ美しかった。

「無駄じゃ無い。才能ある者が頑張って頑張って死力を尽くした末にしくじる、それでこそ大衆は喝采を上げて喜び溜飲が下がる」

「最低。私は見世物じゃ無い」

「なら誰もいないグランド一人走り続けるか?」

 この俺のように。誰も見ず誰も認めず、ただ一人自分だけが認める栄光を追い求める孤独な道。

「それは」

「嫉妬と喝采は表裏一体。清濁合わせ呑む、お前が嫌いな大人になれ」

「ほっんと嫌な奴」

「たまには道化を演じるのも必要と言うことさ。

 さすればこのように危機も脱せられる」

「えっ」

 そこは静かな夜の運動公園、月の光が楚々と降りしきる。

 嫉妬に狂った群衆はもういない。

 少女を抱える青年がただ立つ。

「ねえ」

「なんだ?」

「いい加減名乗りなさいよ」

 彼女は咎めるようにねだるように口を尖らせて言うのであった。

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