第37話 笑う者

 街灯が揺らめく水面から時雨が大友を抱えて上がってきた。大事な旋律具の小太刀も無事持ち出せたようで、腰の後ろに括り付けてあり鞘の先端から水滴がぽたぽた垂れている。

「はあ、はあ。みんなは」

 時雨は振り返るが己の起こした波紋だけが徐々に収まりつつあり新たな波紋が生まれる気配は無い。

「まずは大友さんだ」

 時雨は彼女を川辺に寝かすと、大友の少しはだけた胸元から手を滑り込ませ、頬に頬を擦り合わせる。まるで抱き合うカップルのよう。

 トクントクン、柔らかい胸に滑り込ませた掌に確かな鼓動が伝わる。

 スーハー、口まで寄せた耳に大友の息吹が掛かる。

「うん大丈夫。水は飲んでない気絶しているだけだ」

 ほっと安心して体の緊張が緩んだのか時雨の体が震えた。

「さっ寒い」

 真冬の夜、しかも運河の岸辺なんか風がストレートで吹きすさぶ。濡れた服を着ている時雨達は急速に体温を奪われていく。

「直ぐにどこかで暖めないと」

 取り敢えず時雨は大友に抱きつく。

「暖かい」

 人肌の心地良さを感じながら暫し待つが誰も岸に上がってくる様子が無い。

 焦りと不安が込み上げてくる。今すぐ捜索に行きたいが、その場合大友をこの岸辺に一人寝かせていくことになる。それでは折角助かった大友を凍死させる恐れがある。

 ここは人通りが少ないようで自分達が運河に落ちたことを誰も気付いてない可能性がある。現に救急車やパトカーのサイレンが聞こえてくる様子は無い。助けを自ら呼ぶしか無いのだが、スマフォが無い状況では助けを呼びにここを離れなくては成らない。

ギリッ、時雨は歯軋りをしてしまった。連絡が取れないもどかしさ、今ならあの時は嫌な奴だと思ったがごねた気持ちが少し分かる。

 みんなを助けたいと思う優しさと命に優先順位など付けられない人間性に時雨の心はねじ切られそうになる。

 髪が抜けそうになり、胃が痛む。

 視界に歪み、顔が般若の形相になるほどのプレッシャー。

 決断を下さなくては成らない。

 どっちかに優先順位を付けなくてはならない。

 未成熟な女子高生には過酷な選択、放り投げないだけでも褒められる。

「誰か助けてよ。あの嫌な口調でボクに命令してよ」

 決断が出来ず縋るように大友の胸に蹲ること数秒、時雨は立ち上がった。

 その何かを決断し悲壮に固められた顔は美しかった。

 そして動き出そうとした時雨の耳に、バシャリと水気を含んだ足跡が響いた。

「鵡見さん」

 さっきまでの悲壮感は吹き飛び時雨の顔に柔らかさが戻る。

「良かった。時雨無事だったのね。それに大友さんも」

 下流に流されたのか、ここまで少し歩いてきたようだ。

「はい。あれ、鵡見さんは一人ですか?」

「ええ、そうよ」

「それじゃ」

「御免なさい。彼とは車から脱出したところまでは一緒だったんだけど、その後流されてバラバラになってしまったわ」

 力及ばず申し訳なさそうに鵡見は視線を時雨から逸らした。

「そうですか」

あんな顔をされて追求弾劾出来るような時雨では無い、何となくこの話は立ち消えていく。代わりに時雨は別のことを尋ねた。

「それで、キョウちゃんを知りませんか?」

「あら、時雨と一緒じゃ無いの?」

 鵡見は矢牛は時雨と一緒にいると思っていたようで意外そうな顔で答えた。

「それが岸に上がったら後ろから付いてきているはずのキョウちゃんがいなくて」

「流されたのかしら。時雨、京が車から脱出したのは確認したの?」

 鵡見は暗く先が見えない運河を見ながら言う。

「いえ。てっきり付いてきてくれていると思っていたので」

 時雨が大友を連れ出し、矢牛がバックアップをする。僅かな時間だが其処は長年の付き合いアイコンタクトで互いの役目を割り振った。矢牛は時雨同様、厳しい訓練を積んできた旋律士、並大抵の事はこなせる能力がある。だから、時雨は安心して振り返ること無く大友を連れての脱出に専念した。

 だが大先輩である鵡見ですら下流に流された、矢牛が何かのトラブルで未だ車に取り残されている可能性だってある。

矢牛が暗く冷たい水の底、一人取り残され助けを求める顔が時雨の脳裏に浮かんでしまった。

「ボク確認してきます。鵡見さんは大友さんと救援要請をお願いします」

 時雨の判断は早い。

「あっちょっと」

 鵡見が引き留める間もなかった。

寒さで体温を奪われた。

水を吸って鎧の如く重くなった服を着ている上に大友を抱えての泳ぎ。自分が体力を著しく消耗しているであろうにことは判断できる。

自分が逆に遭難してしまう可能性を計算できないわけじゃ無い。

それでも時雨は墨汁の如く黒く先が見通せない夜の運河に再び飛び込んだ。


 暗い中目標を見失わないようにスピードは出ないが周りが見渡せるカエル泳ぎで泳ぐ。

 氷のように冷たく堅い水を掻き分ける掌は鑢で擦られるような痛みが走る。それでも時雨は水を掻き分けるのを辞めない。

 針のような水飛沫が顔に突き刺さろうとも時雨は目を閉じること無く闇夜を見据える。

キョウちゃん無事でいて、時雨はそれだけを一心に祈り辛苦を乗り越えていく。

「馬鹿な娘」

 中々辿り着かないもどかしさを抑えつつ車が沈んだ当たりまで泳ぎ着き、一旦息を整える時雨の耳に鵡見の呟きが聞こえた。

「えっ」

 耳を疑う嘲笑に時雨が振り返ると、鵡見は其処に立っていた。

 大友は岸に寝かせたまま。

 助けを呼びにいく事も無く。

 鵡見は其処に悠然と立ち時雨を見ている。

「あら聞こえたの。流石旋律士、耳だけはいいのね」 

 鵡見の口端は三日月に吊り上がり、目は細められる。

 ニーーーと鵡見は悪魔のように嘲笑する。

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