第30話 子煩悩
ある朝、いつものように挨拶に行くと冨田の姿が見えない。紅廊館の中をあちこち探してみると、彼は裏庭に座って地面に何かを撒いていた。すぐ近くで雀がたくさん群がって地面をつついている。
「おはようございます」
「おはようございます。よいお天気ですな」
すでに日差しはそこそこ強く、暖かいというよりは暑いぐらいの気温だったが、確かによく晴れていた。
「どうされたんですか?朝から庭に出られるなんて珍しいですね」
「いえ、ちょっと考え事をしておりまして」
そういう冨田の顔には、いつもは無い陰が差していた。
「何かあったんですか?」
「先日、電話がかかってきましてな。私に相談したいことがあるとおっしゃるのです」
「いつものことじゃないですか」
「相談の内容を聞いてみるに、どうもいつものことでは無さそうなのです。電話なのであまり詳しくはお聞きしていないのですが、妖の関係ない問題らしいのです」
「そんな人がどうして紅廊館に」
「知り合いに聞いたとおっしゃっておられましたが、どうも前後の文脈からして私を占い師か何かと勘違いしておられるようでして。とにかく話を聞いて、なんらかの答えをもらいたいと、そうおっしゃるのです。あまりにも食い下がるので、とりあえず会って話をすることにはなったのですが、はてどうしたものやら」
冨田の言い方からすると、相手は問題を解決したいというよりむしろ、誰かから口添えしてもらいたがっているように思われた。そういえば以前、ある程度が箔のついた人間から同意をもらうことで、自分の意見に自信を持てるようになる人が一定数いるのだと何かで読んだことがある。それにしても、日頃人間にはあまり興味の無い冨田の元にそんな依頼が舞い込むのは、なんだかとても滑稽に感じられた。
「いずれにせよ、受けてしまった以上はきちんとお返事をしてさしあげなければ」
冨田が腰を上げて家の中に入ると、雀たちもまたどこかに飛び去っていった。
紅廊館を訪れる来客は九割八分、妖もしくはそれに関わる案件をひっさげている訳だが、今私たちの前に座っているサラリーマン風の男性は、残りの二分に属する珍しい類いの人間だった。
「秋本と申します。本日はお忙しい中お時間をいただき、誠にありがとうございます」
彼は深々と頭を下げた。態度こそ礼儀正しい社会人といった感じだが、顔に笑みはなく、来た時からずっと沈痛な面持ちを崩そうとしない。
「いえいえ。こちらこそお役に立てるかどうか分かりませんで」
「そんなことはございません。冨田様には思った通りのことをおっしゃっていただければそれで十分なのです。ですからどうか、しばしの間お付き合いください」
いかにもな堅苦しい口調で秋本は言った。
「それで秋本さん。お電話でお聞きしたところ、あなたは突然出て行かれた奥さまとお子さんをお探しになっておられると、そういうことでしたね」
「はい、どうにかならないでしょうか」
「どうにか、と言われましてもなあ」
もともとこういう人間同士のいざこざにはあまり関わらない冨田は、明らかに困った顔をした。
「お願いします、冨田さん。私たち家族の幸せにためにお知恵をお貸し願えないでしょうか?」
秋本は畳に両手をつき、頭を下げた。銀色の腕時計が嵌まった左腕の袖口からは、赤黒い傷跡が覗いていた。
「電話では大まかにしかお聞きしていないので、お手数ですが今一度、詳しくお話願えませんか?お答えするのはそれからです」
「分かりました」
冨田に促され、秋本は自分と家族に起こった出来事を話し始めた。
不動産関係の会社で勤務しているという秋本は五年前、現在の奥さんと結婚し、程なくして男の子を授かった。初めての子どもを二人はとても喜んで、翔太と名付けた。奥さんはもちろんのこと、秋本自身も忙しい仕事の合間を縫って、積極的に育児に関わるようにしていたという。
「あの頃はとても楽しかったんです。かわいい子どもと優しい妻に恵まれて、自分はこの世で一番の幸せものだとすら思っていました。それがまさか、こんなことになるなんて」
彼は話しながら頭を抱えた。眼鏡の奥の真面目そうな瞳には、彼の置かれている状況の厳しさがありありと映し出されていた。
「これはあの頃に撮ったものなんですが・・・」
男は脇に置いていた鞄をごそごそやると、一枚の写真を取りだした。どうやら翔太君の誕生日に撮ったものらしく、大きなケーキを前にして満面の笑みを浮かべている翔太君を挟んで、秋本と奥さんが座っていた。
「かわいいお子さんですな」
冨田が写真をよく見ようと顔に近づけたり離したりしていると、すっと襖が開いて悦子さんが現れた。
「遅くなってしまい申し訳ございません。お茶でございます」
彼女はいつも通り無駄のない所作で、盆に載せた三人分のお茶とお菓子を私たちの前に置いた。そのまま立ち去ろうとした時、悦子さんはふと、写真に目を留めた。
「あら、かわいい坊や。お子さんですか?」
「はい」
子どもを褒められ、秋本の顔が少しだけ明るくなった。
「おいくつなの?」
「この間、四歳になりました」
「あらあら、一番可愛い時期ねえ。うちの子たちにもこんな時期があったわ」
悦子さんの息子はもう皆大学を出ていると言っていたから、なおさら懐かしく感じられるのだろう。
「実は、妻が子どもを連れて出て行ってしまって。ここ数日、何も手につかないんです」
「それは大変ね。何かあったの?」
「いえ、それが。特に心当たりがなくて。僕自身、仕事も育児も頑張っていたつもりだったんですが・・・」
「難しいわねえ。そういうことって自分ではなかなか分からないもの」
悦子さん、今日はなかなかぐいぐい行くな。そう思って冨田の方を見ると、彼は素知らぬ顔でお茶を啜っていた。やはり妖の絡まない話は、いまいち興味が湧かないようだ。
「でも、坊やを奥さんに任せっきりにはしなかったんでしょ?」
「はい」
「育児書とかも読まれたの?」
「たくさん読みました。妻も私も」
「お風呂に入れたり」
「いつも夜に私がやってました」
「離乳食も」
「準備するのはいつも妻だったんですが、あげるのは私もよくやっていました」
「子どもって最初はなかなか食べてくれないでしょ。一口含んだと思ったらすぐに吐き出しちゃったり」
「ああ、ありましたね」
「温度とか味も色々試してみるのよねえ」
「いろいろやってみましたねえ」
「結局でも、子どもって甘いのが好きだから、シロップとか蜂蜜とかで誤魔化すんでしょ?」
「結局そうなっちゃうんですよねえ」
楽しそうに昔の話をする悦子さんに釣られたのか、秋本も乾いた笑みを浮かべた。
「あら、私ったら喋り過ぎちゃって。すみません」
悦子さんは急に我に返ったのか、恥ずかしそうに謝って部屋を出て行った。
「では、続きをお聞かせ願いましょうか」
自分の皿のお茶菓子を食べ終わった冨田は静かに言った。
秋本家がおかしくなったのは、二ヶ月ほど前からだった。
ある日秋本が家に帰ると、玄関を入った所に翔太が座っていた。
「どうしたんだ?パパを待っていてくれたのか?」
すると驚いたことに、翔太は目に涙を溜めて首を振った。そして蚊の鳴くような声で、
「ママが・・・ママが・・・」
と繰り返した。これはただ事ではないと思った秋本は、慌てて靴を脱ぐと、翔太を抱き上げて家の奥に駆け込んだ。
リビングでは奥さんが一人、放心したようにソファに座っていた。
「どうしたんだ?」
声をかけると、まるで突然目が覚めたかのように彼女は秋本の方を見た。まるで何かに怯えるようかのように、目が見開かれていたという。秋本がふと台所に目をやると、もう八時を回っているのも関わらず、夕食の準備をした形跡が無かった。
「あなた・・・」
奥さんは立ち上がろうとすらせず、不安げな顔で自分を見ている翔太のことすら、まるで眼中にないようだった。
「なあ、どうしたんだよ。何かあったのか?」
秋本はとりあえず奥さんの気を落ち着かせようと、隣に座って肩に触れようとした。
その途端、奥さんはバッと彼の手を払った。そしてソファから飛び上がると、
「触らないで!」
と叫んだ。
秋本は突然のことに頭がついていかず、呆然と座っていた。
「何だ、お前・・・」
「何だじゃないでしょ!触らないでって言ってるの!」
「どうしたんだよ一体。昼間に何かあったのか?」
しかし奥さんは怯えた顔をしたまま彼を拒み続けた。仕方が無いのでその日は秋本が食事を作り、翔太に食べさせた。
洗い物が終わった頃には、奥さんはソファの上で寝てしまっていた。
ところが翌朝、目を覚ました奥さんと顔を合わせて、秋本はまた愕然とすることになった。彼女はなんと、昨夜のことを何も覚えていなかったのだ。
「え?そんなこと言ったっけ?」
触るのを拒まれた話をしても、奥さんは思い当たる節がないようだった。ただ翔太が執拗に
「ねえママ。もう大丈夫?もう大丈夫?」
と繰り返すのを聞いて、何かが起こったことは察したようだった。
奥さんの奇行はこの後も続いた。家に帰ると、洗濯が終わっていない。ゴミが床に散らばっている。そんなことが何度もあった。そして決まって彼女は秋本を、そして時には翔太ですらも病的なほど拒絶したのだ。なんとかして落ち着かせようとした秋本だったが、抑えようとすればするほど奥さんの反応は過剰になり、時には暴れて周囲のものを投げたり、壊したりすることすらあった。それでも朝になれば忘れてしまうのだから改善のしようがない。
こうした日々が過ぎるにつれ、秋本はだんだん憔悴していった。
しかしすべてを決定的に変えてしまったのは、数日前の出来事だったという。
その日、いつものように家に帰った秋本は、びくびくしながら家の玄関を開けた。するとそこには、翔太が座っていた。
「あ、パパ・・・お帰り」
翔太が彼を見上げた。それを見て、秋本は息を飲んだ。翔太の片目が、ぶたれてように青く腫れていたのだ。
「おい!どうしたんだ。誰にやられた?」
そう聞きながらも、秋本は既にうすうすと何が起こったのか察していた。
「パパ、ごめん。僕が、僕が・・・お願い。ママを怒らないで・・・」
だが秋本は最後までそれを聞かなかった。彼は勢いよく立ち上がるとリビングに飛び込んだ。そしていつものようにソファで放心している妻を見つけると、何も言わずにいきなりその頬を叩いた。
「何するの!」
「それはこっちの台詞だ。お前、翔太に何をしたんだ!」
「保育園の帰り道、翔太が道に飛びだしたの。だから叱って、叩いたのよ」
「だからってあんな腫れ上がるほど叩くことないだろ!子ども相手に力加減も出来ないのか!」
「なによ!私が急いで腕を引っ張らなかったら、あの子は車に轢かれていたのよ!」
「だからお前が傷つけてどうするんだって言ってるんだ。躾にしてもやり方ってもんがあるだろ!」
二人の応酬はしばらく続いたが、しまいに奥さんが「もう知らない!」と金切り声で絶叫し、自室に閉じ籠もってしまった。
ぴしゃりと閉められたドアの前で秋本はなすすべもなく途方に暮れた。何度か戸を叩いてもみたが、返事は無かった。そして翌朝、起きてきた奥さんにはもう昨晩の記憶が無かった。
「なあ」
朝食のパンをつつきながら秋本は言った。
「一度病院に行こうこのままだと俺もお前も、翔太も、本当にダメになっちまう。そうなる前に医者に診てもらおう」
「そうね・・・」
自分がつけた翔太の痣を見て、奥さんも流石に知らないとは言えなくなったらしい。今までに無いぐらい打ちひしがれた様子で、秋本の言葉に弱々しく頷いた。
「今日、上司に掛け合って明日か明後日は休みをとる。だからそこで、一緒に病院に行こう」
「・・・分かった。そうする」
「翔太はどうしようか。お前が落ち着くまで、しばらく母さんのところにでも預かってもらった方が良いかな」
幸い秋本の母親はまだ健康で、しかも自宅からあまり遠くないところに住んでいた。
「え、でも・・・」
奥さんはちらりと翔太の方を見た。
「大丈夫かな・・・」
「大丈夫だよ。事情を話したらきっと分かってくれる。それも時間のあるときに電話して、頼んでみるよ。だから今日一日の辛抱だ」
秋本は奥さんに対してと言うより、自分に言い聞かせるように話した。最初は難色を示した奥さんだったが、やはり翔太を傷つけてしまった負い目があったのか、最後には「分かった。そうする」と同意した。
秋本は翔太の保育園にも電話をかけ、今日は自分が迎えに行くから、少し遅くなると言う旨を伝えた。
「正直にいうと、翔太を少しでも母親から遠ざけておきたかったんです。あの痣を見たら、もう彼女のことを信じられなくなってしまって」
秋本はそう言うとそっと自分の手首にある赤黒い痣に手をやった。それも奥さんを止めようとしたときにつけられたものなのだろうか。
彼は保育園に翔太を連れて行くと、今日は自分が迎えに来ると保育士さんに言い含めた後、仕事に向かった。
そしてその日の夕方、仕事を少し早めに切り上げた秋本は、急いで保育園に向かった。ところが園に翔太の姿は無かった。
「翔太君ですか?先程お母さんが向かえに来られましたよ。お父さんの都合が悪くなったから、やっぱり私が来ました、と言われて。もうお家に帰っておられる頃だと思いますけど・・・」
若い保育士は不思議そうに首を傾げた。
秋本は「ありがとうございます」とだけ言うと、慌てて家に戻った。
外から見ると、窓に明かりがついていない。玄関のドアを壊れんばかりに押し開け、彼は飛び込んだ。
家の中は真っ暗で、誰もいなかった。
電気をつけ家中を探し回ったが、奥さんも翔太君もどこにもおらず、声も聞こえない。ふとリビングのテーブルを見ると、一枚の紙が置かれていた。
そこにはこう書かれていた。
「さようなら、ごめんなさい」
もし本当に奥さんの行方が分からないのであれば大事件である。口にこそ出さなかったが、親子心中、という言葉が脳裏を掠めた。もしそんなことになったら、秋本はもう立ち直ることが出来ないだろう。
「それで、警察には?」
冨田が聞いた。確かにこういう場合、まず駆け込むべきは警察だろう。
「それが行ってはみたのですが、まともに取り合ってくれなくて」
置き手紙を見た秋本はまず奥さんの実家に電話をした。しかしもちろん、向こうの両親は彼女も翔太も来ていないと言った。念のため秋本自身の実家にも連絡を入れたが、返事は同じだった。
そこで彼は意を決して警察に電話をした。
ところが、電話の向こうから聞こえてきたのは信じられない言葉だった。
「奥さんがお子さんと?置き手紙まで。ああ、そりゃ家出ですよ。よくある話です。大抵の人は三日も待てば帰ってきますから、それまで待ってあげてください」
何の危機感もない台詞を聞いてかっと頭に血が上った秋本は
「ふざけるな!」
と叫んで受話器を叩き切った。腸が煮えくりかえるような思いだった。何が家出だ。うちのことなど何も知らないくせに。
彼はもっと力になってくれそうな相談相手を探すべく、同僚や知り合いに片端から声をかけはじめた。
「それで、どうして私のところへ?」
「冨田先生はこれまで色々な問題を解決されたと聞きました。そのうち幾度かは、殺人事件の犯人を看破されたこともあるとか。ですからどうか、妻を探すのにそのお力をお貸し願えないでしょうか。もう、時間があまり無いんです・・・」
秋本は悲痛な声をあげて、何度も頭を下げた。冨田はその様子を見ながら、少し困った顔をしていた。
その時、廊下から
「冨田さん。今よろしいですか?お電話です」
と悦子さんの声がした。
「すみませんな、少しだけ外させていただきます」
冨田は立ち上がるとそそくさと部屋から出て行った。
部屋に残された私と秋本は、何かを話すでもなく、お互い視線を合わさないようにうつむいていた。
「どうするんですか?」
秋本が帰った後、冨田はすっかり疲れた様子で縁側に腰掛け風に当たっていた。
「どうする、とは」
「秋本さんの奥さんを探すんですか?」
「そうですな・・・」
庭の緑をぼんやりと見つめながら冨田は言った。
「とにかく奥様が、心配です」
それきり彼は黙ってしまった。
一週間ほど経った後、冨田は再び秋本を紅廊館に呼び出した。
「何か分かったんですか?」
顔を合わせるなり秋本は言った。あれからまた頼れるものを探してほうぼうを駆けまわっていたらしく、その顔には明らかな疲労が滲んでいた。
「まあお座りなさい」
座布団を勧めると、この間と同じように冨田と私は彼と向かい合った。
「さて、あなたの方も独自で奥様を探しておられるということでしたが、その後、何か進展はございましたか」
「いえ、まだ何も。弁護士や社会福祉関係の方にもお会いしたのですが、情報が少なすぎる上、通院歴等もなかったので、なかなか難しい状態です」
「やはり、そうでしたか」
冨田は彼の説明に相槌をうちながら、懐を探って一枚の茶封筒を取り出した。
「これが、今の私にできる最適なお返事かと」
「あ、ありがとうございます」
秋本は目の前に置かれた封筒に飛びついた。
「開けてもよろしいですか?」
「はい。もちろんです」
彼は大急ぎで袋の口を開け、中を覗いた。そして入っていた紙を取りだした。
そこで、動きが止まった。
「どういう、ことですか・・・?」
彼は何度も紙をひっくり返して見つめた。
紙は白紙だった。
「ですからそれが私に出来る、一番良いお返事なのです。あなたのような大嘘つきに対する」
冨田の静かな声が四畳半の和室を満たした。
「大嘘つき・・・誰がですか?」
秋本がこちらを見た。その眼には、妻を失った男の悲哀では無く、目の前の人間に対する怒りが燃えていた。
「ですから、あなたですよ。この間あなたがお話になったことは真っ赤な嘘なんです。いえ、奥さんとお子さんがあなたの元を去った、という事実は本当だったようですが」
男は唇を噛みしめたままわなわなと震えていた。
「先日あなたは仕事と育児、両方に対して積極的に取り組む良き主人、良き父親をひたすら演じておられました。本当はあなた自身が、奥様やおこさんに手を挙げる、残虐非道な人間であるということをひた隠しにして」
目の前の秋本はまだ何も言わない。だがその体の中では熱せられた怒りが膨張しているのが感じられた。それはあらぬ疑いで自分が愚弄されたことに対してなのか、隠し通せると思っていた真実を見抜かれてしまったことに対するものなのか。
「もっとも今回、最初にあなたを疑ったのは私ではありませんでした。もし話を聞いたのがここにいる二人だけであれば、奥様を探すのに私も協力していたことでしょう」
秋本は冨田の言っていることを理解できないのか、眉間に深い皺を寄せたまま、じっと彼の話を聞いていた。
「あなたが嘘をついていると見抜いたのは、悦子さんでした」
「えっ」
男の口から驚きが零れた。もっともな反応だ。まさか自分の計画が、ほんの数分会話しただけの主婦によって崩されるなどとは、思いもよらなかっただろうから。
「あなたと会ったとき悦子さんは、何か分からない違和感を覚えたそうです。俗に言う、女の勘というものでしょうか。それを確かめたかった彼女は、写真が目に入ったことを口実にあなたに話しかけました。悦子さんはとても謙虚で、自分の分をわきまえておられる方です。私と客人が話をしている時に割って入るなど、普通では考えられません。彼女があのようなことをする時は、確実に理由があるのです」
だから悦子さんが秋本に絡んでいるとき、冨田は素知らぬ顔をして茶を飲んでいたのだ。
「そして彼女の違和感は本物でした。秋本さん、あの時悦子さんと交わした会話を覚えておられますか」
秋本の目が宙を泳いだ。きっと覚えていないのだ。もっとも同席していた私も、冨田に言われるまでは思い出せなかったのだが。
―育児書とかも読まれたの―
―たくさん読みました。妻も私も―
―最初はなかなか食べてくれないでしょ。一口含んだと思ったらすぐに吐き出しちゃったり―
―結局でも、子どもって甘いのが好きだから、シロップとか蜂蜜とかで誤魔化すんでしょ?―
「秋本さん。あなたは育児書を買って勉強されたと言っておられましたね」
彼は無言で頷いた。
「ではなぜ、蜂蜜を離乳食に入れてはいけないということを、ご存じなかったのですか?」
真っ赤だった顔が今度は蒼白に変わった。だが何か反論しようとはしなかった。
「育児を行う方の間では常識だそうですね。乳幼児はまだ腸内細菌のバランスが整っていないため、蜂蜜を食べると乳児ボツリヌス症という食中毒に似た病気になる可能性があるそうです。場合によっては死ぬ可能性もあるとか。わりと育児書等にも書かれている情報らしいですが、秋本さんはご存じなかったのですか?」
秋本を怪しんだ悦子さんは、会話の流れで咄嗟に罠を仕掛けた。そして彼はまんまと嵌まってしまったのだ。
冨田が席を外したとき、本当は電話などかかっていなかったらしい。悦子さんが冨田を呼び出したのは、自分の感じた違和感を告げるためだったのだ。
「そうなると、あなたが育児に積極的に参加していたというお話にも、疑いを向けざるをえなくなります。そしてあなたがなぜ、嘘をつく必要があったのかも」
秋本は畳の目をじっとみつめたまま固まっていた。
「写真を見る限り、お子さんがおられるというのは本当でしょうし、奥様と一緒に失踪したのも本当です。ですが、家の中で暴れたり、暴力を振るったりしていたのは奥様ではなく、あなたです」
「そんな・・・」
ようやく秋本の口から言葉が漏れた。唇がぷるぷると震えている。
「そんな証拠がどこにある!」
「『俺が養ってやってるってのになんだ。見つけたら殺してやるあのクソ女』。あなたは昨日、自宅のリビングに座っているとき、そう言いましたね?」
「!・・・」
秋本の両肩がびくっと跳ね上がった。そして血走った目をまん丸になるまで見開き、冨田を見た。
「昨晩あなたは居酒屋に行き、そこに二時間ほど滞在した後、女性と合流しましたね。女性の名前はみどりさん。あなたのお勤めになっている不動産会社とご縁がある食品メーカーで社長秘書をやっておられる方ですね。その方と連れ立ってしばらく歩いたところの・・・これ以上は流石に私の口からは申せません。それにしても、この間あれほど家族を心配して必死に話しておられたあなたが・・・誠に残念ですな。ついでに一昨日のお話をいたしましょう。会社に出勤されたのは朝八時五十分・・・」
「止めろ!」
秋本は冨田の言葉を押しとどめようとして叫んだ。
「もう、止めてくれ!」
彼は頭を抱えてその場にうずくまった。
「認めますよ!翔太を殴ったのは俺です!全部知ってるんだろ!」
秋本の後頭部を見下ろして、冨田は静かに言った。
「良いですか、世の中悪いことをすれば、どんなに隠し立てしようとも、いつかばれてしまうものなのです。まあ、あなたの場合はお巡りさんに突っぱねられた時点で何も隠し通せていなかったことは明白ですがな」
家庭内暴力を受けた人間が保護対象となった場合、その個人情報は秘匿される。秋本の相談した警察は薄情でも怠慢でもなく、ただ自分のやるべき業務をまっとうしただけだった。秋本がその事実を悪意でねじ曲げて話していたのだ。
彼は畳に額をすりつけ、ひたすら
「止めてください、止めてください」
と懇願し続けていた
「奥様も、同じことをおっしゃったのではないですか?何度も何度も。翔太君を守るために」
冨田は見たこと無いような冷たい目で、彼を見ていた。
秋本は帰っていった。いざというときのために隣室には録音機を持った悦子さんがいてすべてを記録していたし、彼が危害を加えようとした場合には妖たちが取り押さえてくれる手はずになっていたのだが、その必要は無かった。
彼は今から、警察に行くそうだ。
「それにしても、なぜ秋本は紅廊館にやってきたのでしょう」
「自分が加害者だという事実を認めたくなかったのでしょう。警察に突っぱねられ、自分のやっていることが間違っていると言う事実を突きつけられた彼は、どんな形であれ自分を肯定してくれるものを探していたはずです。事情を知らず、失せ物探しが得意な年寄りなど、ちょうど良かったのかもしれませんな」
だがそんな浅はかな考えには、天罰が下った。
「おそらく秋本さんにも、何かしらの理由があったのでしょうな。仕事が上手くいかなかったのかもしれません。ですがどんな理由であれ、他人を傷つけてはいけません
本来自分が守るべきである家族に手を挙げるなど、もってのほかです」
冨田は足元を飛び回っている今回の立役者たちにご褒美をあげながら言った。
「それで、この子たちは?」
「彼らはおくり雀という妖です。山などで人の後ろをついてくると言われています。今回はたまたまおくり雀の家族が来ていたので、お願いして彼の身辺を探ってもらったのです」
都会の景色に雀はなんの問題もなく溶け込める。彼らが秋本について持ってきた情報は想像以上に多かった。
「ちなみに奥様と翔太君は、少し離れた施設で静かに暮らしておられるそうです」
「そうなんですか」
冨田が彼らに向かって撒いているのは麻の実だ。地面をつつき回っている彼らはとても愛らしく、とてもではないが一人の男の罪を白日に晒したとは思えない。
「そういえば、言うのを忘れておりました」
ふと手を止めて冨田が言った。
「おくり雀についてこられると、その後別の妖がやってくるといわれているのですよ」
「別の妖?」
「その妖の名を『おくり狼』と言います」
どこか遠くで、聞こえるはずのない遠吠えが聞こえた気がした。秋本は無事に警察にたどり着くことができたのだろうか。もしかしたら・・・
紅廊館の庭先で Black river @Black_river
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