第29話 ふろみたがり
紅廊館も住居である以上、人が生活する上で必要不可欠なあの設備を備えている。
すなわち風呂である。紅廊館の風呂は趣深い母屋の雰囲気に調和した檜張りだった。檜風呂は湿気でかびが生えやすく管理が大変だと聞いたが、紅廊館の風呂場はいつ見ても新品同様で、木の板も黒ずんだりすることなくが新鮮さを保っていた。
冨田いわく、定期的に「あかなめ」という妖が現れて風呂垢やかびを全部舐めとっていってくれるらしい。巷にステンレスや樹脂で作られた、掃除が容易な風呂桶が流通したせいで、昔ながらの木製の風呂は今やとても貴重なのだという。だからあかなめも喜んでやってくるのだそうだ。冨田からすれば風呂掃除はしなくていいし、妖は来てくれるし、ということで一石二鳥という訳だ。世の中、うまくできているものである。
私はその日も、疲れを癒すために風呂に身を沈めていた。湿気を吸った木製の風呂桶が私の体を優しく受け止めてくれる。息を吸い込めば蒸気とともに、少しツンとした芳醇な檜の香りが鼻腔を満たした。
幸せだ。
頭がぼうっとする心地よさを味わいながら、全身から疲労が流れ出していくのを感じていた。
その時、視界の端で何かが動いた。
気のせいかと思ったが、しばらくすると今度はもっと派手に動くものがあった。
私は恐る恐る首を回してそちらを見た。
風呂場の一角には換気用の窓がある。その向こうで何か、大きな影が動いていた。
するとその途端、ガリガリガリッと、窓の磨りガラスが音を立てた。
外にいる何者かが引っ掻いているのだ。
ガリガリガリッ、ガリガリガリッ。
私は湯の中で少しずつ体をずらし、窓から遠いところに移動した。いきなり立ち上がらなければ、向こうはこちらに気づかずにいてくれる気がしたのだ。
次の瞬間、ズリッという鈍い音とともに窓が引き開けられた。
「うわっ!」
「うわじゃないよ。なんだ、あんたかい」
そう言いながらのっそりと入って来たのはなんことはない、猫又だった。
「てっきり爺さんがいるもんだとばかり思ってたよ」
猫又は器用に窓枠から風呂桶の縁に飛び移ると、そのままゆっくりと周囲を歩いて私の顔の近くまでやってきた。
「人間てのは変わった生き物だねえ。自分から釜茹でになるなんて」
「嫌な言い方をするなよ」
「だってそうじゃないか」
猫又は濡れた前足をぷるぷるさせながら言った。
「なんだってすき好んでびしょ濡れになろうと思うのか、私にゃ分からないね」
「分からなくたっていいよ。猫は人間とは違うもの。そんなに言うなら、わざわざ入ってこなけりゃいいじゃないか」
「爺さんがいると思ったからね。たまに入ったままうたた寝してるから、危ないったらありゃしない。だから起こしてやろうとしたのさ」
そういえば冨田は随分と長風呂なイメージがあったが、あれは風呂の中で居眠りをしていたからなのかもしれない。救急車のお世話になるようなことがあってはいけないので、あとでしっかり言っておかないと。
「それにね、人間」
猫又は私が風呂桶の上に半分だけ出してやった蓋の上に飛び乗った。
「飼い猫は風呂は嫌いだけど、風呂場に来るのは嫌いじゃないんだよ」
「なんで?」
「そりゃ飼い主を守らなきゃいけないからさ」
「守る?」
私は風呂桶から出て、湯を頭から被りながら聞いた。
「溺死から?」
「いや、風呂場に現れる魔物からさ」
シャンプーを泡立てて、髪の間に手を入れる。視界に白い泡が垂れてきたので、慌てて目を閉じた。
「魔物?」
「そうさ」
猫又は、おそらく風呂蓋の上に座ったまま、話を続けた。
「あんたたち人間は頭を洗うとき、必ずそうやって目を瞑るだろう。犬や猫ならそれでも耳と鼻が効くから大丈夫なんだけど、生憎人間の耳と鼻はそんなに良くない。目を閉じた途端何もできない赤んぼうと一緒になる。そこを狙って襲ってくる魔物が、昔はよくいたんだよ」
「まさか」
私はこれまでの人生で何百回と目を瞑ったまま頭を洗ってきたが、そんな魔物に襲われたことはない。
「そんなことある訳…」
「じゃあなんで、家で死ぬ人間は大抵風呂で死んでるんだい?」
猫又の声が少し低くなった。同時に背筋がゾクッとする。姿が見えないと、まるで人間の女性に問い詰められているような気分になった。
「それは体温が急激に変わって…」
「そんなの言い訳に過ぎないさ。それに体温が変わるのも、足を滑らせて頭を打つのも、全部魂を取るために魔物がわざと引き起こしてるものだったとしたら?」
目を瞑っていても、自分の手が震えているのが分かった。早く頭を流したい。早く目を開けなければ。
手探りで手桶を掴もうとするが、こういう時に限ってどこにあるのかわからない。
その時突然すぐそばで、ドタン!と大きな音がした。
心臓が飛び跳ねた。
「…猫又?」
返事はなかった。
その代わり間髪を入れずまたドタン!と音がした。
「うわあ!」
今度は本当に飛び上がった私は、座っていた椅子から滑り落ち腰をしたたか打った。
「ねえ、猫又」
「しっ、動くんじゃないよ。今いるんだから」
いる?
何がいるんだろうか。まさか風呂場の魔物が魂を取ろうと襲ってきたのだろうか。だとしたら猫又は、今まさにそいつと闘っている最中なのかもしれない。
そんなことを考えている間にも、ドタンバタンという音はずっとしていた。
その時、手に硬いものが触れた。
桶だ!
私は浴槽があると思われる場所にそれを思いっきり突っ込むと、バシャンと水音がした。桶を引き上げ、中のものを頭にかける。ザバァというと音とともに、緩い液体がシャンプーの泡を運んでいった。
ようやく目が開けられるようになった私は周囲を急いで見渡した。
風呂場には誰もいなかった。
いや、いた。私のすぐ横に、ずぶ濡れになって不機嫌な猫が1匹。
「なにもあたしにまでかけるこたないんじゃないかね」
猫又はブルブルと首を振って雫を払った。
「ごめん…」
「全く、これだから人間は」
「あ、魔物は?」
「魔物?そんなのいないよ」
私の言葉に彼女は呆れた顔をした。
「でも、あんなにドタンバタンって音を立てて」
すると猫又は無言のまま前足で床の一点を指した。その先には黒くて短い紐のようなものが落ちていた。
「…ムカデ」
濡れた床に伸びているのは夏の風物詩、ムカデだった。叩かれたのか、ぺしゃんこだ。
「貸し1つ、だからね」
猫又はもう一度ブルッと身震いすると、何も言えない私の横を通ってまた窓から闇の中へと消えていった。
「…ありがとう」
しばらくしてようやく発した私の言葉は、湿った檜に吸い込まれるようにして消えていった。
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