第25話 金魚の幽霊


金魚の幽霊



真っ暗な闇の中に、私は立っていた。

周りを見回すと、遠くに薄ぼんやりと光るものが見える。この景色には見覚えがあった。

最近夜ごとに見る夢だ。また同じものを見ているのか。

私は惹かれるようにその光に向かって歩を進めた。近づくにつれ、光の中にいるものの形がはっきりと見え始める。

1人の女性だ。

鮮やかな赤い着物を身に纏い、まるでスポットライトに照らされているように、光の輪の中に立っている。

彼女は泣いていた。美しい着物の袖に顔を押し当て、微かな嗚咽を漏らしている。もっと近づいて、何か声をかけた方が良いのだろうか。

しかしなぜか、体を動かすことも、声を出すこともできない。私に出来るのは、彼女が泣いている様子をじっと見ていることだけである。

突然、泣いていた彼女が顔を上げてこっちを見た。不気味なほど真っ白な顔をこちらに向け、紅の唇がゆっくりと動いた。

「…た…す…け…て…」

確かにそう聞こえた気がする。

ここで目が覚めた。


「これは金魚葉椿というのですよ。ご存じですか」

紅廊館の庭掃除をしていると、縁側で新聞を読んでいた冨田が近くの木を指差して言った。

「キンギョバ?」

「ここをご覧なさい」

冨田は木のそばまで歩いて行くと、枝を優しく引き寄せた。枝についた深緑色の葉は、先端が三つに分かれている。

「この部分が金魚の尾鰭のように見えることから金魚葉椿と呼ばれています」

「へえ」

言われてみれば金魚を上から見た形とよく似ている。

「金魚といえば、あの子はお元気ですか?」

冨田は慈しむように葉を撫でながら言った。

「あの子?ああ、はい。生きていますよ」

あの子、とは数日前に紅廊館にやってきた金魚のことだ。近所の疎水でぐったりしているところを、悦子さんが見つけて連れてきたらしい。鰭も入れると手のひらを超えるぐらいの大きさだった。先日降った大雨で、どこかで飼われていたものが流されてきたのではないか、と冨田は考えているそうだ。

「もう少し元気になったら、いずれ庭の池に入れてあげましょう」

「そうですね。いつまでもバケツは可哀そうですから」


「そう言えば最近、変な夢を見るんです」

昼食を食べている時、私は冨田に言った。

「変な夢、でございますか」

「はい。それも何日も続けて同じものを」

「変わった話ですな。どのような夢ですか?」

「暗闇の中で、赤い着物を着た女の人が泣いているんです。彼女は最初、私から遠いところにいたので何を言っているのか聞き取れませんでした。でも、日を追うごとに、彼女が私に近づいてくるように感じられるんです。昨夜見た時は、声がはっきりと聞こえるぐらいの位置にまで迫っていました」

冨田は私の話を興味深そうに聞いている。

「それで、その女性はなんと言っていたのですか?」

「掠れるような小さな声だったのではっきりとは聞き取れませんでした。それでも口の動きから『たすけて』と言っているように思いました」

「助けて、ですか…」

冨田は難しい顔をした。

「少し考えてみます。またいずれ、きちんとお返事ができるかと」

「分かりました」

「ところで、午後も引き続き庭掃除をしていただけますか」

「はい、そのつもりですが。どうしたんですか?」

「いえ、実はこの後紅廊館にお客人が来られるのです。ですから、彼に見ていただく場所を先に片付けていただこうと思いましてな」

「そうだったんですか」

「はい、またあとで説明いたしますので、よろしくお願いします」

「分かりました」

 返事をしながら、客人が新たな面倒ごとを持ち込んで来なければいいな、などという考えが頭をよぎった。

「それにしても、この辺りも物騒になりましたなあ」

 だしぬけに冨田が言った。

「どうかしましたか?」

「新聞に載っていたのですが、この近くの川で女性のご遺体が見つかったそうです。発見されるまでにしばらく経っていたようで、身元はまだ分かっていないようです。早くご家族の元に帰れたらよろしいのですが・・・」

「嫌な話ですね。大雨で川に落ちたんでしょうか?」

「そうかもしれません、もしくは・・・」


                * * *

 

冨田は出不精である。余程の用事がない限り、紅廊館の敷地から足を踏み出そうとはしない。

しかしそんな彼が今、とある瀟洒なマンションの下に立っていた。手には風呂敷包みを大事そうに抱えている。

「ここで間違いなさそうですな」

冨田は建物を見上げながら呟くと、振り向いて言った。

「では、参りましょう」


目的の部屋は階段を何階分か上り、狭い廊下を少し入ったところにあった。初めて訪れるであろう家のインターホンを、彼は容赦なく押した。

ピンポーンという間の抜けた音が冗長に響く。

静かな廊下をさぁっと風が吹き抜けた。そのまましばらく経ったが、誰も出てくる気配は無い。

「いないのでしょうか」

「いえ、確実にいます」

冨田はドアの覗き穴に顔を近づけた。

「いらっしゃったようですな」

彼が言うのと同時に、ドアがバタンと開き、1人の男が現れた。

「どちらさまですか?」

男はげっそりと疲れた表情をしており、見るからに機嫌が悪そうだった。

「突然失礼いたします。実は奥様に御用があって伺ったのですが」

「妻ですか?」

男の眉間に皺が寄り、さらに機嫌を悪くしたように見えた。

「はい、以前お借りしていたものがありましたのでお返しに参ったのです」

冨田はそう言って風呂敷包を見せた。

「そうですか。では僕から渡しておきますので、お預かりします」

男は終始ぶっきら棒な口調を崩そうとしない。

「ありがとうございます。この度はお貸しいただきとても助かりました、と奥様によくお伝えください」

冨田はにこにこしながら男に荷物を渡した。

「それでは私たちはこれで。失礼いたします」

「わざわざありがとうございます。妻にも伝えておきます」

そう言ってドアを閉めようとする男に、老人はもう一言、言い添えた。

「すみません、言い忘れておりました。此方といたしましても非常に丁重にお取扱いしたつもりだったのですが、万が一、不備がございましたらすぐにご連絡ください、とお伝えいただけますか?」

「はあ、」

ここまで言われると、自分の知らぬ間に妻がこの見知らぬ老人に何を貸したのか、気にならない訳がない。実際、男は我慢ができず、冨田の背を見送りながら風呂敷を少しだけめくって中を見た。

ところが、中身を見た途端、男の顔はみるみる蒼白になっていった。

「…どこで…これを…」

男は喉から絞り出すように呟いた。

「おい、待ってくれ!」

 男は玄関先で一目もはばからずに叫んだ。

「それについて、ゆっくりお話しをしますか?」

振り返った冨田にそう言われると、男は目の前に並んだ二つの顔をゆっくりと見比べ、恐る恐る頷いた。


「始まりはこの新聞でした」

家の中に招き入れられた冨田はリビングのソファに落ち着くと、おもむろに懐から新聞紙を取り出した。

「雨により増水した川で、身元不明の女性がご遺体となって発見されたという記事です。見つかった位置はちょうど、このマンションの前を流れる疏水が流れ込む川の下流です」

男は眉間に皺を寄せたまま、黙って聞いている。

「そしてほぼ同じ時期に疏水でこちらが発見されました」

そう言うと冨田は先ほどの風呂敷を改めて解き、中身を露わにした。

「この、よく肥えた金魚が」

広口瓶の中でふわふわと泳ぐ金魚と、それを思いつめた表情で見つめる男は非常に奇妙な取り合わせである。

「金魚というのは、非常に興味深い魚です」

突然冨田は話題を変えた。

「彼らの発祥は中国。元々はフナの一種を品種改良して生み出されたものです。最初はもちろん庶民の手には渡らず、皇帝や貴族などの上流階級の人間だけが愛でるために繁殖させられていました」

冨田の手がそっと瓶に触れると、中の金魚はくるっと一回転をした。

「そのため彼らは色々なものを見ていたはずです。宮廷の華やかな生活も、その裏にある嫉妬、愛憎、姦計…金魚の逸話に妖艶な話が多いのも、こういった背景があったからでしょう」

男は何も言わない。

「江戸時代の小説に『梅花氷裂』という作品がございましてな。簡単に言えばよくある妾と正妻の愛憎劇なのですが、その妾は正妻によって金魚鉢に顔を突っ込まれ、溺死させられてしまうのです。そしてその怨念が金魚に宿る、といった具合の話なのですが…」

立て板に水を流すように喋り続ける冨田に対し、男はまだ口を開こうとしない。しかし膝が尋常ではないほどガクガクと震えていた。

「恨みを持った死者というのは怖いものです。殺された妾は金魚の形をした怨霊となって正妻に襲いかかりました。未練を残した死者は必ず、殺した相手に復讐をしに来るのです」

「…ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

ついに男は下を向いて小さな声で呟き始めた。

 冨田は彼の様子を見て、少し哀れむような顔をしたが、その語気を弱めることはしなかった。

「…あなたは、奥様を殺めた。奇しくも『梅花氷裂』と同じ方法で。そして奥様の遺体と金魚鉢を、増水して流れの早くなった疏水に捨てたのです。本当はもう少し早く、妻が失踪した夫として警察に出向くおつもりだったのでしょうが、どうやら罪悪感と恐れから踏み出すことができなかったようですね」

「…全部、知っているんですね…」

 男は目を上げて、畏怖の表情で冨田を見つめた。

「この子に、いえ、奥様に直接聞きましたから」

男は目を剥いて、瓶の中の金魚と不気味な来客たちを見比べた。

「金魚の幽霊は雄弁です。あなたの気が短いことも、ことある毎に奥様に暴力を振るっていたことも。そしてその仕打ちに耐えかねて逃げだそうとした奥様を玄関先で捕まえ、髪を掴んで近くに置いてあった金魚鉢に」

「やめてください!」

 男は耳を塞いだまま冨田の話を遮った。

「もう、もう許してください」

日頃の優しい顔はそのままだが、冨田の目の奥には、この期に及んで妻に対する謝罪を口にしない男に対する憎悪が燃えている。

「それは、奥様におっしゃってください」

 彼は冷たく言い放った。

「あなたが、衝動的に、一方的暴力を振るい、命までも奪って、金魚に身を変えた、あなたの奥様に。良いですね」

 老人の気迫に圧されながら、男は尋ねた。

「あなたは、一体何者なんですか?」

「…ただの物好きな隠居老人、とでも思っていただければ、それで結構です」

「このことを・・・警察に通報するんですか?」

「そのつもりはありません。それに私はお代官様ではありませんから、あなたを裁くような面倒なこともしたくはありません。この後どうするかは、あなた自身の判断にゆだねます。今日こうして伺ったのは、この世界で悪事を完全に隠し通すことなどそう簡単に出来ない、ということをお伝えしたかっただけですから」

いいですか、と冨田は横を向いて問いかけた。

「冨田さんがそう思うなら、異存はありません」

「では、私たちは失礼いたしましょう。よく考えて、ご決断ください」

 冨田はそう言い置いて、魂を抜かれたような表情を浮かべる男と、ふわふわ浮かんでいる金魚を残し、部屋を後にした。


                 * * *


 冨田は出不精である。余程の用事がない限り、紅廊館の敷地から足を踏み出そうとはしない。

 少なくとも私はそう思っていた。

 それが今日はどうしたことか、先ほどやってきた客と一緒に出かけてしまった。ちなみに来客とは、黒髪に切れ長の目をした美しい青年である。

「ただいま帰りました」

 冨田が帰って来たときには、もう夕闇が迫りはじめていた。

「おかえりなさい。どこに行っておられたんですか?」

「いえ、ちょっと行きたいところがありましてな。彼に付き合っていただいたのです」

 そう言って隣の青年に目をやった。

「そういえば、まだお客様の名前を伺ってなかった気がするのですが…」

「そうでしたか。私としたことが失念しておりました、申し訳ない」

 冨田は恥ずかしそうに頭を掻いた。

「彼はアキタカ君と言いまして、古い友人なのです」

 彼の友人にこんな若者がいるとは知らなかった。するとアキタカと呼ばれた青年が口を開いた。

「あなたは今、冨田さんに私のような若い友人がいることに驚きましたね?」

「えっ」

 突然考えていたことを言い当てられ、私は面食らった。まるで心の中を見透かされているようだ。

「あなたは今『まるで心の中を見透かされているようだ』と思いましたね?」

 アキタカは畳み掛けるように言った。

 どういうことだ一体。

「『どういうことだ一体』」

 気持ちが悪くなってきた。

「『気持ちが悪くなってきた』」

「まあまあアキタカ君。意地悪はそのくらいにしてあげてください」

 冨田が横から割って入った。

「実はアキタカ君も『覚』という妖なのです。人や他の妖の心を読むことができます」

 なるほど、そうだったのか。私は納得した。

「彼には手伝っていただきたいことがあったので、一緒に出向いてもらいました。彼の力は色々と役に立つので。今日もとても助かりました」

「本当ですよ。冨田さん一人だったら、インターホンに誰も出なかった時点で終わりでした」

「いやはや。アキタカ君があそこで『確実にいます』と言ってくださらなかったら、確かに居留守をつき通されていたかもしれませんなあ」

 冨田は照れ臭そうに笑った。どうやら二人で出かけたのは無駄足ではなかったらしい。

「そもそもマンションの場所がわかったのも、金魚になった奥様の記憶をアキタカ君が読み取ってくれたからですし、本当に今日は大活躍でしたな。どうぞ、この後はゆっくりと休んでいってください」

「言われなくてもそのつもりです。悦子さんのご飯も食べたいですし」

 ハハハと笑いあって二人は紅廊館の建物に入っていこうとした。

「あ、そうだ」

 冨田がふと足を止めて、私の方を向いた。

「あなたの不思議な夢のことですが」

「はい?」

「もう、おそらく見ることはないでしょう。今夜からはゆっくりとお休みになってください」

「どういうことですか?」

「夢に出てきた女性は、もう帰るべき場所に帰りましたから」

 謎めいた言葉を残し、冨田は奥の部屋へと歩いていく。

 ふと振り返ると刻一刻と迫る夜の中に、金魚葉椿のしっぽがゆっくりと飲み込まれていくのが見えた。


 その中を、悦子さんの作る夕餉の匂いが静かに漂っていた。

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