第24話 八尺様
八尺様
ある日いつものように庭掃除をしていると、猫又がやってきた。
「ねえ、人間」
「何?」
私は手元から目を離さずに聞いた。
「あんたはいつまでここに居座るつもりだい?」
「なんだよ突然」
「いや、ちょっと思っただけさ。まさかずっとここにいて、庭掃除とか爺さんの使い走りばかりやり続ける訳じゃないだろう?」
「さあ、どうだか」
正直、私は今の生活にすこぶる満足していた。確かに恐ろしい妖と対面したり、理不尽に呪われかけたことが何度かあるにはあったが、それを除けば冨田も悦子さんも優しいし、給料だって決して安いわけではない。仕事を変えるにしても、紅廊館以上に条件の良い仕事が今の時代見つかるのかどうかは怪しかった。
「どうしてそんなことを聞くんだい」
「いや、人間の仕事っていろいろあるからさ。他の仕事に興味は無いのかなあ、なんて思っただけだよ」
「他の仕事?」
「この間たまたま見た仕事は面白かったよ」
「どんな仕事?」
「人が死んだ家の片付け」
いきなり物騒な単語が飛び出した。
「事故物件ってことかい」
「その辺はよく知らないけどさ、一人暮らしのおばあさんが死んだ後に、家に何人か人が来て掃除や片付けをしているのを見たことがある」
「それはおばあさんの家族とかじゃなくて?」
「いや。全員工場で働いてる奴が着てるみたいな分厚い服を着てたから、きっとそういう仕事をしてる人たちなんだと思う」
「なるほど」
身寄りの無いお年寄りが亡くなったときに遺品整理や家のクリーニングをするために呼ばれる業者があるという話は、私も以前は聞いたことがあった。こんなことを言うと不謹慎かもしれないが、人が死ぬということは意外にも多くの人を動かし、多くの財布を潤すのだ。
嘘か本当かは知らないが、葬式に箔をつけるために参列する人をお金で雇うことすらあるらしい。しかも死んだ当人にはそんなことは全く分からないのだから、なんだか少し滑稽な話である。
その時パタパタという音が聞こえてきたかと思うと、突然門のところに一人の人物が現れた。目深に被った帽子にサングラス、そして顔の下半分を覆うマスクという見るからに不審な格好をした人物は、庭に立っていた私の姿をみとめるやいなや言った。
「お願いします!た、助けてください!」
「とりあえずお座りなさい。そんな状態では碌に話も出来ないでしょう」
冨田は突然の闖入者に慌てたそぶりも見せず、冷たいお茶を相手に勧めた。
「あ、ありがとうございます」
サングラスとマスクの下から現れたのは若い男の顔だった。げっそりとこけたような頬とすっと尖った顎が、見る者にまるで彫刻のように鋭利な印象を与える。しかし今その顔は明らかに恐怖に歪んでいた。彼はおどおどと周囲を見回しながら、差し出されたガラスのコップを受け取った。中身を一口飲んだ後、彼は聞いた。
「ここは紅廊館、ですか?」
「いかにも」
「では、冨田というのは・・・」
「私のことですな」
「そうですか、良かった」
乱れていた息がやっと落ち着いてきたらしく、男の上気していた顔が次第に白くなっていく。
「それで、あなたは一体どのようなご用件で来られたのですか」
男は座布団の上で正座に座り直すと、深刻そうな顔をして切り出した。
「実は僕、追われているんです」
「ほう、追われている」
冨田の眉が片方だけピクリと動いた。
「はい。しかも人間ではなく化け物に」
膝に置かれた彼の手は、力が入って真っ白になっている。
「そいつの名前は『八尺様』といいます」
彼は心底恐ろしそうにその名前を口にした。
ことの発端は、父親の実家がある牧野という田舎に家族で帰省した時の彼の体験だった。丹田村家には他の多くの家と同じく、夏休みの間にその実家を訪問する習慣がある。こういう行事は子どもの年齢が上がるに連れておなざりになりがちなのだが、二十歳になる将輝君はしっかりと家族に付き添って祖父母を訪問する、模範的な孫であるらしかった。
そういうわけで父、母、将輝君、そして三つしたの妹は今年もワンボックスカーに乗り、祖父母の待つ田舎へと向かった。
毎年孫の顔を見るのを楽しみにしている祖父母は息子家族が来たのをとても喜び、歓迎してくれたという。とりわけ今年で成人し飲酒が解禁になった将輝君は、すっかり舞い上がった祖父に夜遅くまで晩酌に付き合わされたりもしたそうだ。
そんなのんびりとした休暇を過ごしていた時、事件は起こった。
田舎に帰って何日か経ったある日の午後、将輝君は家の縁側で寝転がっていた。本人ははっきり言おうとしなかったが、どうやら前日夜に飲み過ぎて二日酔いを起こしていたらしい。祖父母は畑仕事、両親と妹は近所の父の同級生の家を訪問のためそれぞれ留守で、家にいたのは体調の優れない将輝君だけだった。
彼はまだ鈍い痛みを訴える頭を抱えながら、見るともなしに縁側の向こうに広がる庭を見ていた。庭の縁をぐるりと取り囲んでいるのは青々とした生け垣で、表の道から家の中が見えないようになっている。彼はその緑の壁をぼーっとしながら眺めていたのだという。
その時、ふと将輝君の視界の端に、何か白いものが現れた。彼はそれにつられ、少しだけ視線を上に向けた。
生け垣の上からひょっこりと顔を出していたのは白い帽子だった。まるで喫水まで水面に沈めたヨットのように、するすると緑の木々の上を滑っていく。生け垣の高さは将輝君の背より高く、少なく見積もっても二メートルぐらいはあったという。その上から、誰かが被っているのであろう帽子がのぞいていたのだ。見た感じ女もののようである。
将輝君は最初、帽子が風に飛ばされているのかとも思ったそうだが、帽子のある高さが変わらずに移動していくので、やはりその下には誰かがいるようだった。
すると彼は
とにかく気になった彼は縁側から庭に飛び降りると、生け垣の内側からそっと帽子の後を追いかけた。
しばらく歩いて行くと、やがて家の裏手に出た。そこにそれまで威圧的な城壁のように立ち並んでいた生け垣が、裏口の木戸があるせいで一旦途切れている場所がある。将輝君はその木戸に歩み寄ると、掛け金を外してそっとそれを押し開いた。
家の裏は山へと続く暗い一本道だった。彼はそっと首だけを木戸から出し、周囲を見回した。
そして見た。
木戸から出て左側、すなわち山に続く道を少し行ったところを、それは歩いていた。
白い帽子に白いワンピース、それを凌駕するほど白い肌。そして、まるで不自然に縦に引き延ばしたように高い身長。
彼女が歩く度、足元の落ち葉が微かに音を立てる。
カサリ、カサリ、カサリ。
夏の木々が作るトンネルの下を、彼女はゆっくりと歩いていた。
カサリ、カサリ、カサリ。
世界からそれ以外の音が消えてしまったかのように、彼の耳に響いていた。
そして同時に、彼の鼻を不快感のある甘い匂いが刺激した。将輝君はその時直感的に悟った。
自分は何か、見てはいけないものを見てしまったことを。
彼は自分の好奇心を悔いながら、そっと木戸を閉じて今の光景を見なかったことにしようと思った。
ところが、そこで錆び付いた蝶番が「ギィ」と音を立てた。
彼女の歩みがぴたりと止まり、足音もしなくなった。
そしてつばの広い帽子を被ったその顔が、ゆっくりと彼の方を振り返った。
「・・・ぽ・・・っぽぽ・・・ぽ」
彼女はそんな不可解な言葉を口にしていたという。いや、正確には将輝君にそう聞こえたというだけなのだが。
女の顔はゆっくりと回転すると、その場で固まっている将輝君の方を見た。
その目は、人間のそれにしては余りにも虚ろで、白濁していた。
「ぽ・・・ぽ・・・ぽ・・・」
単純な一音だけが何倍にも増幅されるようにして、彼の耳に響いた。
このままでは危ない。頭では分かっているのに、体が見えない力で押さえつけられ、動けない。
女はゆっくりと踵を返し、彼の方に歩いてこようとした。
その時、突然玄関の方から声が聞こえた。
「ただいまあ!」
妹の声だ。途端に固まっていた将輝君の体に力が戻った。彼は急いで木戸を閉じた。
「将輝君、どこにおるの?具合は良くなった?」
祖母が彼のことを探しているらしい。将輝君は答えようとしたが、舌が顎にくっついたようになって、言葉を発することができなかった。ただただ心臓だけがいつもよりも数倍早く血液を送り出す音が体の中に響いているだけである。彼はそれを聞きながら、ぴっちりと閉じた木戸に背を向けて立つのが精一杯だった。
「将輝君!こんなところにおった」
祖母が裏口から顔を出したのと、将輝君が地面に倒れるのはほぼ同時だった。
気がついた将輝君の耳に入ってきたのは、祖父母と両親がぼそぼそと話をしている声だった。
「・・・熱中症じゃろうか・・・それとも・・・」
「・・・わからん・・・だとしたら・・・」
「・・・また・・・われたんか・・・」
「・・・でも、そんな・・・」
寝かされてた布団から起き上がると、皆が一斉に彼の方を向いた。
まだぼんやりと白濁した意識でも、自分に向けられた視線には明らかな恐怖の感情が宿っていることを感じた。
「将輝」
最初に口を開いたのは祖父の
「お前、何か見たのか?」
返答に詰まった彼が父親の方に目をやると、最近領土を拡大してきたその額にびっしゃりと脂汗が浮かんでいるのが見えた。
「僕は・・・」
脳裏に不自然に背が高い女性の姿がフラッシュバックした。首が捻れるように後ろを向き、黒い眼窩が彼を捉える。
「・・・大きな、女の人を見たんだ」
彼がなんとか絞り出した言葉は、六畳の和室の壁に吸い込まれるようにして消えていった。誰も何も言おうとしない。将輝君を囲む大人たちは皆一様に押し黙ったまま、自分の膝に視線を落としていた。
「・・・僕・・・なんか、しちゃったのかな」
静寂に耐えきれなくなった彼は言った。ともすると遠くからまたあの、「・・・ぽぽ・・・ぽ・・・ぽぽ・・・」という不気味な声が聞こえてきそうだった。
「将輝、あのなあ」
今度は父が言った。落ち着かないのか話しながら厚い唇を何度も舌でなめ回している。
「お前が見たのは、八尺様だ」
「・・・八尺様?」
将輝君は聞き慣れない単語を鸚鵡返しに聞き返した。
「なんなの、それ」
「分からん。でかい女の姿をした化け物だ。丹田村の家はな、八尺様に呪われとるんだ」
仙蔵が言った。
「わしの爺さんが死んだとき、窓の外にでかい女がじっと立っているのを見た人が何人もいたそうじゃ。じゃがその時はすぐに姿を消してしまったのか、何も起こらなかった」
低い声で続ける仙蔵の声を聞きながら将輝君は思ったそうだ。これは自分を怖がらせようとして話しているんじゃない。本当に怖いことが起こっているんだと。その証拠に、仙蔵は話の途中に何度も考え込みながら、時には動揺を隠そうともしなかった。
「ことが起こったのはわしの親父、つまりお前のひい爺さんが子どもの時だった。親父には弟がいた。わしの叔父にあたる人だ。いや、叔父になるはずだったと言った方が正しいな」
仙蔵は含みを持たせた口調で、丹田村家の呪われた歴史について話を始めた。
当時の丹田村家には男の子が二人いた。仙蔵の父である平蔵、そしてその四つ下の弟になる圭蔵だ。仙蔵は一度仕事を求めて都会に出たが、圭蔵は田舎に残り、家の畑仕事を手伝っていた。
そんな彼が二十歳になった頃、ある日突然姿を消したのだ。
いつものように朝、畑仕事に出かけていったのだが、昼になっても夕方になっても戻ってこない。不審に思った家族が畑まで様子を見に行ったが、圭蔵はどこにもいなかった。
日も傾きはじめ、いよいよ事態が異常だと気付いた家族は、村の駐在さんのところへ遣いを走らせるわ、近所の家々に片っ端から聞いて回るわ、大騒ぎをして彼の姿を探し回った。
しかし村人総出で探しても、圭蔵の行方はいっこうに分からない。
もうどうしようも無い家人たちは途方に暮れていた。
そこへ村の男の子が一人、父親に付き添われてやってきた。
彼はその日近くを流れる川で遊んでいたのだが、その時になんと圭蔵の姿を見かけたのだという。
「うん。確かに圭蔵おじさんだったよ」
彼は言った。
「圭蔵おじさんが背の高い女の人と一緒に歩いてた」
これを聞いていた家族の中のある者たちは真っ青になった。
子どもの話に出てきた人物と、圭蔵の父親が死んだときに何人かが見かけたと言われる女性が酷似していたのだ。
「その女の人は、どれくらい背が高かった?」
「うーんとね、圭蔵おじさんよりもずっと高かったよ。八尺ぐらいはあったかな」
結局、それきり圭蔵の姿は村から消えた。そして背の高い女は『八尺様』という名前を与えられ、丹田村の家に言い伝えられることとなった。
「それからも、丹田村の家に男の子が生まれる度、八尺様の姿を見る者が現れた。お前の父さんが大人になってからはすっかり話を聞かなくなっていたから、わしももう大丈夫とどこか高をくくっていたのじゃが、そうか。出たか」
祖父はまた沈黙した。
「それで、僕はどうすれば・・・」
「とりあえず今夜は外に出てはいかん。八尺様はすぐ近くにいるんだからな。明日の朝、家族で車に乗って出なさい。村を出るまではわしも着いていく」
「でも親父。そんな化け物を一晩やり過ごせるのか?」
将輝君の父親が言った。
「奥の部屋に将輝君を入れろ。朝まで絶対に出すな。そうすれば大丈夫だ」
将輝君はその日、家の奥の部屋で過ごすことになった。部屋の周囲には盛り塩がされ、正面の入り口以外は引き戸も窓も全て目張りがされた。
「いいか。わしらは今晩は絶対に声をかけない。明日、日が昇ったらここを開ける。それまでは何があっても戸を開けるな。分かったな?」
「分かった」
祖父の厳しい口調に、将輝君は頷くしかなかった。
その夜、将輝君は部屋の真ん中に敷かれた布団に横たわっていた。明日に備えて寝ようとは思うのだが、気持ちが高ぶって寝られそうにない。それに目を閉じると昼間の八尺様の顔が浮かんでくるので、無意味に何度も寝返りをうって気を紛らわせていた。
その時、どこからともなく、カリリ、カリリと音が聞こえてきた。
カリリ、カリリ、カリリ。
誰かが戸を引っ掻いている。
カリリ、カリリ、カリリ。
それと一緒に、微かに別の音がする。
「・・・ぽぽ・・・ぽっ・・・ぽぽぽ・・・」
「っ!」
将輝君の背中を冷たい物が駆け上がった。
来た。
彼の目に、背の高い白い女が長い爪で部屋の戸をこじ開けようとしている光景が浮かぶ。
彼は咄嗟に頭から布団を被り、その不穏な音を少しでも遠ざけようと必死になった。
しばらくすると、音が止んだ。
いなくなったのだろうか。
すると今度は突然、ドンドンドンと強く戸が叩かれた。
「おい!開けろ!わしだ!」
祖父の声だった。随分と慌てた様子で声がうわずっている。
「ここはもうダメだ。今から村を出る。早く出てこい!」
「将輝、早くしろ!もう時間が無いんだ」
「お兄ちゃん、出てきて!」
家族の声が一斉に聞こえ始めた。
将輝君は慌てて戸に手をかけ、引き開けようとした。
その時、祖父の声が脳裏をよぎった。
(明日、日が昇ったらここを開ける)
ここを開ける。
本物の祖父ならこんな回りくどいことはせずに、いきなり戸を全開ににするはずだった。
「何をしとるトルんだ、早く開ケロ」
扉の外でなおも聞こえる祖父の声には、少しずつ変な雑音が混じっている。
「将キ、早くでテきなさイ!」
「お兄tyあn!はyくデてきテ」
「ハヤ#ク出ろ!!」
外で叫んでいるのが家族でないのは明白だった。
将輝はそっと戸から手を離すと、また布団をすっぽりと被り、音を遮断した。
朝までそうして震えていた。
ガラッと音がして勢いよく戸が開いた。
「将輝!」
祖父と父が同時に駆け込んできた。
「じいちゃん!」
「もう大丈夫だ。よく頑張ったな」
祖父は彼の肩を抱くと、立ち上がらせた。
「車の用意はもう出来てる。早く行くぞ」
また顔を汗で濡らしている父が急かした。
車までいくと、既に母と妹がそれぞれ運転席と助手席に座っていた。
「お前はわしと父さんの間に乗れ。出来るだけ体を低くして、外から見えないようにするんだ」
祖父はそう言いながら自分が先に後部座席に乗り込むと、将輝君を引っ張り込んだ。その後に間髪をおかず父が体を押し込む。
「村を出るまでは何があっても車を止めんでください」
祖父はハンドルを握る母に言った。
「分かっています」
母はアクセルを踏むと、勢いよく車を発進させた。
将輝君は言われた通り、頭を下げて窓の外から見えないようにしていた。
誰も話そうとはせず、重い空気が狭い車内に充満していた。
その時将輝君の耳に、エンジン音に混ざってあの声が聞こえてきた。
「ぽぽっ・・・ぽぽぽっ・・・ぽ・・・」
将輝君は思わず外を見そうになったが、その瞬間祖父の手に頭を押さえつけられた。
「見るな。ここで見たら元の木阿弥だ」
車と併走しているのか、八尺様の声はどこまで追いかけてくる。
将輝君は八尺様が窓からこちらを見ている様子を想像して、身震いした。
やがて、その声がプツリと聞こえなくなった。
「村を出たか。もう大丈夫だ」
祖父はそう言うと、母に車を止めさせた。
「わしはここから歩いて戻る。お前たちも早く行きなさい」
「分かった」
祖父を降ろすと、車はまたフルスピードで走り始めた。
将輝君はそこで初めて外を見た。
祖父が道に傍らに立っている祠に向かって、一生懸命手を合わせてる姿だけが見えた。
八尺様の姿はどこにも無かった。
「それで終わったと思っていたんです」
将輝君はこれまでの経緯を説明すると、ふっと息を吐いた。
「だが終わりではなかったのですな」
「はい」
冨田の言葉に彼は頷いた。
「先日、祖父から電話がありました。村の外れにある祠に、通りすがりの車が突っ込んで事故を起こしたそうです。それで祠がバラバラに壊れてしまったと。祠が効かなくなれば、八尺様は村を自由に出ることが出来るようになる。祖父はそう言ったんです」
膝を握りしめる彼の手が小刻みに震えていた。よほど八尺様が怖いのだろう。
「ただ、それを逃れる方法がある、と祖父は言いました。お前の今住んでいる街に紅廊館という古い建物があって、富田という化け物の専門家が住んでいる。その人に頼み込めば助けてくれるかもしれない、と」
「ほう、私も知らないところで随分有名になったものですな」
あまり表情を変えずに言ったが、老人はどうやら少し嬉しいらしい。
「お願いします。僕のことを助けていただけませんか」
将輝君は畳に手をつくと勢いよく頭を下げた。
「頭をお上げなさい」
冨田は顔を上げさせると、言った。
「出来る限りのことはやってみましょう。しかし、あなたにもいくらか協力していただかなければなりません。よろしいですか?」
「ありがとうございます!」
将輝君は再び米つきばったのように何度も頭を下げた。
「なんだかかわいそうですね、彼には何の責任もないのに」
その日の夜、将輝君を奥の部屋で寝かせた後、これからどうするかを冨田と私は書斎で話し合っていた。
将輝君の部屋の周りには、万が一の事態に備えてメリーさんと猫又がはりついている。
「家柄は時として大きな呪縛になるのです。当人の意思と関係なく」
冨田は手元の分厚い本を丹念に捲りながら言った。
「さっきから何を見てるんですか?」
「人名辞典です。『丹田村』という珍しいお名前に聞き覚えがあったので、もしかしたら載っているかもしれないと思いましてな。あ、見つけました」
冨田の細い節だらけの指がゆっくりとページの一点を指した。
「読んでいただけますか。私にはちょっと見えにくいので」
「分かりました」
私は彼の示している名前と、その下に細かい字で書かれている解説を読み上げた。
「
「年代的にどうやら将輝君の話に出てきたお爺さんのお爺さんらしいですな。お医者さんでしたか。お写真などは載っていますかな」
「えっと、あ。巻末の写真ページに載っているそうです」
私はページを繰って写真がまとめて掲載されているところを開けた。ずらりと白黒やセピア色の写真が並ぶ中、見覚えのある顔があるのを見つけた。
「これですね」
丹田村独歩の若かりし頃の顔は、将輝君と瓜二つだった。すっと尖った顎といい、こけた頬といい、少し癖のある髪といい、写真の中にいる丹田村独歩の方が幾分痩せている以外は本当にそっくりだ。
それを見て、冨田は満足げに頷いた。
「なるほど、なんとなく全体像が見えてきました」
「今の情報だけで、ですか?」
「ええ。まだ推測の域を出ないのですがな」
冨田はそう言うと、すっと人差し指を立てた。
「ただ、この丹田村独歩という人物が彼の高祖父であるのならば、八尺様の正体についてもある程度見通しが立ちました。しかし、これはとても厄介な問題です」
冨田は難しい顔をして考え込んだ。
「どんな風に難しいんですか」
「以前、あなたにテケテケと対峙した時のお話をしたことがあると思いますが、あの時と似たような状況です。八尺様も分類的には妖になりますが、日本で一般的な、物に生命が宿ったり神として奉られたりした結果として妖になったものではありません。寧ろ今回は人間の執念とも呼べるものが生んだ存在と言えましょう。だからこそ八尺様は丹田村家に執着しているのです。おそらく通常の妖より、話が通じない相手でしょうな」
「じゃあどうやって闘うんですか」
「私は闘いません」
冨田は言った。
「こういう場合、私はただ妖にあるべき姿を再認識させるだけです。人間と妖には適正な距離感という物がありますから。それを正すのが今回の私の役目です」
紅廊館全体にいつもとは違う異様な空気が流れていた。庭の木々もまるでこれからやってくる異形の存在を嗅ぎつけたかのように、盛んにザワザワと音を立てている。
「ぽ・・・ぽぽ・・・ぽぽ・・・」
ぽ、は発音する時にいくらかの快感を伴う破裂音である筈だが、その声はまるで老木の中を吹き抜ける風のような虚ろな響きを伴っていた。
「ぽぽ・・・ぽ・・・」
玄関に、それは現れた。
身長約二メートル。長い黒髪に白いワンピースのような洋服。少し伏し目がちで、頭には大きな白い帽子を被っていた。
「ようこそいらっしゃいました」
玄関先に立っていた冨田が頭を下げた。
「ぽ・・・」
八尺様の顔が少しだけ上がると、前髪の間から真っ黒な眼窩が覗いた。
「どうぞ、お入りください」
老人は引き戸を開けると、彼女を中に導いた。
「ぽぽ・・・ぽぽっ・・・」
玄関を入った所にはなぜ長細い机が置かれており、黒い布がかけられていた。そして机の前には、若い女性が喪服を纏って座っている。
「本日はお越しいただきありがとうございます。故人もさぞかしお喜びのことだと思います」
女性は八尺様に向かって頭を下げた。
「さあ、奥に進んで、故人へのご挨拶をお済ませください」
八尺様は相変わらず無表情な顔のまま、頭を打ちそうな廊下を冨田に導かれて進んでいった。
「こちらが斎場になります」
冨田は襖をさっと引き開けた。
「ぽ・・・」
八尺様の顔に、微かに驚きの色が現れた。
部屋の中には黒い服を着た男女が沢山座っていて、皆一様に前を向いて座っている。彼らの視線の先には立派な祭壇が築かれており、その中心には黒縁の額に入った丹田村独歩の写真が置かれていた。そしてその傍らには写真とそっくりな人物が立ち、「高祖父は、非常に、立派な医師でした・・・」と喋っていた。
「丹田村独歩は亡くなりました」
写真とそっくりな人物―将輝君はそう言うと顔を上げ、まっすぐ八尺様の虚ろな目を見た。
「丹田村独歩は亡くなりました」
「丹田村独歩は亡くなりました」
突然、その声が何倍にも増幅され部屋中にうわんうわんと響いた。
「丹田村独歩は亡くなりました」
「丹田村独歩は亡くなりました」
「丹田村独歩は亡くなりました」
いつの間にか部屋中に集まった人々も口を揃えて言い始めた。
「丹田村独歩は亡くなりました」
「ぽぽ・・・ぽぽぽぽぽっ・・・」
八尺様は気圧されたようにふらりと一歩後ろに下がった。
「丹田村独歩は、亡くなりました」
その途端、前を向いていた聴衆が一斉に八尺様を見た。
「ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽっ!」
人に恐怖を与える存在であるはずの八尺様の顔が、逆に恐怖したように歪んだ。
彼女の方を向いている顔は皆、寸分違うことなく同じ、丹田村独歩の顔だった。
そして正面に据えられた拡大写真の丹田村独歩の口がゆっくりと動いた。
「私は死んだのだ。だからもうお前も私を追いかけるのはやめろ。分かったな!」
厳かな口調で、丹田村独歩の遺影は言った。
「ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽっ!」
八尺様は絶叫すると、その場に崩れ落ちた。そしてそれきり、動くことは無かった。
「あー、つかれましたわ」
喪服姿の若い女性―
「いきなりお呼び立てして申し訳ありませんでした」
冨田は頭を下げた。
「お葬式なんて私初めてやりましたから、難しかったですわ」
迷家は家の幻を作り出す妖だ。今回はたまたま冨田の知り合いで私とも面識のあった彼女に、八尺様に対する罠として丹田村独歩の葬式を演出してもらったのだ。
「それで、八尺様は?」
「遺影が喋ったのを目撃して、崩れて塵になってしまったようですな。彼女もやっと、あの姿から解放された、ということでしょうか」
「あの」
背後から将輝君が言った。
「ありがとうございました」
「いえ、あなたがご無事で何よりです」
冨田は優しく微笑んだ。
「それで、結局八尺様って何だったんですか?」
「そういえばまだ説明していませんでしたな」
同じく聞かせてもらっていなかった私もそれは知りたかった。
「あなたの高祖父である丹田村独歩は医者で、専門は解剖学でした。おそらく非常に優秀な医者、そして研究者であったのでしょう。ところが彼は、人体を研究していくうちにある危険な思想にたどり着いたのです」
「危険な思想、ですか?」
「そうです。彼の著作は『生命の器としての人体』。彼は人体を器と見なし、その中に人工的に命を入れることができると考えていたのです。そしてその実験に耐えうる器を作り、実験を敢行しました」
その時私は、人名辞典の記述を思い出した。丹田村独歩は「死体の不正な入手」が発覚したしたため大学を追われた。
常識的な実験を行うためなら、献体を手に入れることも可能だったはずだ。
「彼は死体に命を吹き込むつもりでした。ですからその為の死体を、おそらく土葬されたものを墓所から掘り出したりして手に入れたのです」
光景を想像するとなかなかにおぞましい。
「そして実験は成功しました。詳しい手段は分かりませんが、とにかく死者から作られた継ぎ接ぎな体に命が吹き込まれたのです。それが八尺様です」
「人造人間ってことですか」
「そういう言い方も出来るでしょう」
冨田は将輝君の言葉にそう答えた。
「ところが独歩氏はその後すぐに大学を追放されてしまいました。八尺様を作るために用いた遺体の出所がばれたのかもしれません。東京にすらいられなくなった独歩氏は牧野の実家に戻りました」
「その時八尺様は」
「おそらくですが、大学かもしくは街のどこかに置き去りにされたのでしょう。彼が背の高い女性を連れている記録が公式にあれば、必ずどこかに記録が残っている筈です。ですが調べたところ、それはどこにもありませんでした。もしかしたら独歩氏はその時既に、自分の創造物に対する恐れを抱いていたので、そのような行動に走ったのかもしれません」
「じゃあ、八尺様は自力で牧野に戻ったってことですか?」
「その通りです。ところがやっとそれらしきところにたどり着いた八尺様を待っていたのは、年老いて変わり果てた独歩氏、そして・・・」
「若かりし頃の丹田村独歩にそっくりな丹田村圭蔵、だった」
将輝君がため息をつくように言った。
「だから圭蔵さんは襲われたし、丹田村の家の男は皆八尺様に狙われ続けていたんですね?彼女は若い丹田村独歩の姿しか認識できなかったから」
「そうです。そしてその勘違いが結局玄孫のあなたにまで及んだ。一世紀以上にもわたるそれを断ち切るためには、若い頃の丹田村独歩が死んだということを、思考回路の単純な彼女でも理解できる形で提示する必要があったのです」
「だから偽のお葬式を行ったんですね」
「そうです」
冨田はそう言ってから私の方を見た。
「もっとも、その案を出して下さったのはあなたでしたが。あんな妙案をよく思いつきましたな。たいしたものです」
「いや、私はそんな・・・」
突然褒められて私は面食らった。
たまたま運良く、先日猫又と話した葬式のことを覚えていただけのことである。
「でも、なんで八尺様は崩れてしまったのでしょう?」
迷家が上手い具合に話を逸らしてくれた。
「おそらく既に彼女の体は、人体として耐えられる年数を超えて活動していたのです。ですが自分を作った独歩氏を求め続けるという原動力があったので、なんとか動くことが出来ていました。彼女がずっと『ぽ』と言い続けていたのが何よりの証拠です。あれは『独歩』の『ぽ』だったのです。彼女はずっと、自分の創造主の名を呼び続けていました。そして独歩氏の死が明確になった今、彼女が動く意味は喪失したのです。それが決定した瞬間、彼女の体にはこれまで耐えていた時間が一気に流れ込んだのでしょう」
冨田はそこで将輝君の顔を見た。
「あなたと丹田村家が八尺様から解放されたのと同じように、八尺様も丹田村家から解放されたのです」
将輝君はその言葉を聞いて再び、私たちに向かって深々と頭を下げた。
「冨田さん、皆さん。本当に、ありがとうございました」
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