第22話 ティジー・ウィジー
ある日、私と冨田は一念発起をして書斎の整理をしていた。いや、正確に言うとあまりにも収拾がつかなくなっていることに対して、紅廊館家事担当の悦子さんが耐えられなくなり、「私が掃除しても良いんですが、物の価値が分かりませんから、大事な物をうっかり捨ててしまうかもしれません」という、やや脅迫気味のお達しが下ったので仕方が無く片付けをしている、というのが実際のところである。
冨田の部屋からは古今東西の妖に関する資料に加え、本物の呪いの人形やら箱やらお札を貼った石やらがあとからあとから出てくる。ある箱など、手に取っただけで
「触ってはなりません!」
と強く叱責された。
次に言われたのが、
「長時間触ると、死にます」
かなり真剣な顔をして言われた。いや、ここまでどうやって持ってきたんだよ。
ある程度大きな物や使わない物は全て外の物置へと運び出したので、蓄積していた太古の遺物があらかた捌けた。その最後のひとがんばりをしているときに、私はそれを見つけた。
それは三〇センチ四方ぐらいのガラスケースだった。埃を被っているため、中はよく見えない。せっかくの展示用らしいディスプレイが台無しだ。
「こんなの出てきたんですけど。何ですかね」
冨田の所に持って行くと、彼は持っていたポリネシアのお面(これも危なく悦子さんに捨てられそうになった)を床に置くと、汚れたガラスを布で拭いて中を覗いた。
「おお、これはティジー・ウィジーではないですか」
彼は嬉しそうに言って顔をほころばせた。
「ティジー・ウィジー、ってなんですか」
人生において聞いたことのない文字配列である。
「イングランドの湖水地方に住むと言われている、不思議な生き物です。ハリネズミの体にハチのような透明の羽、リスの尻尾を持っているのが特徴です」
確かにガラスの中には、彼の言葉通りの生き物が横たわっている。しかし既に息絶えているようで、その目は硬く閉じられていた。
「これは、妖なんですか?」
「世間的に大きなくくりで見るとそうなるのでしょうが、私は違うと思っております」
冨田はやや奥歯にものの挟まったような言い方をした。
「どういうことですか」
「その証拠がこれだと思うのです」
冨田はケースの中を示した。
「どういうことですか」
「これは、実体のある標本なんです」
そこまで言われても、私は冨田の本意が分からなかった。
「そう・・・ですね」
「よいですか。もしかしたら以前にお話したことがあるかもしれませんが、妖の存在には、人間の認知というものが不可欠なのです。物と言うよりは概念に近い存在です。見る人の精神状態によってその姿は変化します。妖が見える人、見えない人の違いもそこで生じます」
珍しく饒舌な彼の言葉を、私は黙って聞いていた。
「よく言われる、妖は死なないという理論もここに端を発しています。妖が死ぬということはすなわち、認知されなくなるということと同義です。認知されなければ姿が確定することも無く、妖はいないも同然に、消え去ってしまうのです。つまり妖の死骸などという物は存在しえないので、妖は死なないと思われがちなのです」
「そうか・・・」
彼の考えに沿うなら、私たちの前に明らかに「死骸」として存在しているティジー・ウィジーは、妖ではありえないということになる。
「しかし、こうしてれっきとした標本になっています。そしてこれを悦子さんの所に持って行ったとしても、おそらく私たちと同じ物が見えるでしょう」
しかしそうなると、ティジー・ウィジーとは一体なんなのか。まさかハチの羽をつけたハリネズミが実在する訳が無い。なぜなら、それは生物学的にあり得ないから。
だが、既存の科学の範疇などを今さら気にして何になるのだろうか。妖の存在だって、科学ではきっと説明できないのに。
「これは、間違いなく生き物です」
冨田は言った。
「しかし、私たちの知っている世界のものではありません」
私の思考はまた停止した。私たちの知っている世界、とは。
「所謂この宇宙全般と言ったところでしょうかな。物理法則が機能し、ダーウィンの進化論に基づいた生態系が存在し、私たちが生活をしているこの世界のことです。しかし、そういった規範をこの生き物は明らかに逸脱している。ならば、違う世界、ここではないどこか他の宇宙から来たと考えるのが、合理的なのではないでしょうか」
ここではない、どこか他の宇宙。
果たしてそんなものが存在するのだろか。
「私たちが認知できる範囲など、この広い世界のほんの一部なのです。その外側にどんな計り知れないものが広がっているとしても、私は驚きません」
冨田は話すのを止めようとしなかった。
「私は長年、妖に関して調べてきました。そして太古からの記録の中に、明らかに人間が認知できる以上の何か超自然的な、言い換えれば別次元とも言える存在からの介入について言及したものが含まれていることに気付きました。あるものは『奇跡』や『超常現象』と呼ばれる出来事として、そしてあるものは、この世界の生物とも、存在が不定形である妖などとも異なる、『未確認生物』という形で、記録にその姿を残してきたのです」
彼が口を閉じると、不気味な静寂が訪れた。私は手に持っているケースが急にずしりと重たくなったように感じた。
この世界にいるはずのないものの遺物が、自分の手の中にある。名状しがたい不安が足元からじわじわと這い上ってきた。開けてはいけない扉を、無理矢理こじ開けてしまった感覚。その向こうに広がっていた深い闇に飲み込まれていくような。
「あなたが紅廊館に来て、妖と関わりを持つようになってからしばらく経ちますが、やはり今一度、このことを思いに留めていただく必要があるようですな」
冨田は私の目をまっすぐ見つめて言った。
「この世は、見えている物が全てでは無いのです」
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