第21話 迷家


 私は悩んでいた。基本的に、水面を流される浮き草のように力を抜いて生きている私にしては、珍しいことである。

 しかしその時は本当に、鉛筆を握る右手が真っ白になるぐらい、悩んでいたのである。その後の展開を大きく左右する選択に私は直面していた。

「何をしておられるのですか?」 

 突然背後から老人の顔がぬっと現れた。

「あ、いや。これはですね」

 驚いた私は反射的に手元を隠してしまった。

「ほう。随分真剣そうな顔をしておられると思えば・・・迷路ですか」

 そう。私が悩んでいたのは、新聞の裏に載っていた迷路なのである。何気なく目に留まったのでやってみようと思ったが最後、ゴールにたどり着けず、ついついのめり込んでしまった。

「別に隠すことなどないではないですか。あなたには毎日きっちり働いていただいているのですから、ちょっとした息抜きも大事です」

 そこまで優しい言い方をされると、逆に気恥ずかしくなる。

「以前から心配していたのですが、ここでの暮らしはあなたのような若い人にとって、少々退屈では無いですか」

「いえ、そんなことは」

 確かに世間一般のような賑やかさは紅廊館には無い。しかし毒草を植え替えたり、人形に殺されそうになったり、そこそこ刺激的な毎日を送っている気はする。その日々を楽しいと感じているからこそ、私は紅廊館に住み続けているのだ。

「そういえば、私の知り合いに迷路や謎の好きな方がいましてな」

「へえ、そんな方がいらっしゃるんですね」

「しばらく会っていないのですが、もしご興味がおありなら紹介して差し上げましょうか」

 冨田の知り合いは概ね変わった人であるが、それに加えて迷路好きとはまた、興味深い嗜好の人である。

「面白そうな人ですね。是非お会いしたいです」

「左様でございますか。では、また連絡をしておきます・・・」


 後日、私は冨田から一枚の紙切れを渡された。そこには簡単な地図で、迷路好きだという友人の居場所が示されていた。

「今回は初めてなので少々手加減はするとおっしゃっていましたが、果たしてどうなることやら」

 なにやら含みのある言い方をする冨田に見送られ、私は地図の場所に向かった。

 

 紅廊館を出て何本か道を曲がっていくと人通りの多い大通りに出る。近辺にも歴史的な建築物が密集しているせいで、平日でも観光客が多い。異国から来た客人たちの間を歩きながら、私は目的の場所を目指して歩き続けた。

 聞き慣れない言葉、香水や汗の入り交じった独特な匂い、様々な靴が地面を踏みしめる足音。周囲から情報が一気に流れ込んでくるようで、やはり人混みは苦手だ。 

「ここ、か」

 しばらく迷った末、私はビルの間にある狭い路地の入り口にたどり着いた。人が一人、肩をすぼめてようやく通れるぐらいの広さだ。両側は真新しい歯医者と目医者なのでおそらく今の私には関係が無い。しかし地図の指示によると間違いなくこの場所なのである。

 路地の向こうには、微かに緑の茂みが見えた。とりあえずあそこまで行ってみようか。私は覚悟を決め、足を踏み出した。背中にきゅっと力を入れ、壁に体が擦りそうになるのを辛うじて回避しながら、茂みの方に向かう。じめじめとしたコンクリートの地面が表通りの喧噪を吸い込み、周りの空気の質が段々と変わっていくのを感じた。

 これは、紅廊館の庭と同じ空気だ。

 茂みは思ったよりも大きく、路地を完全に塞ぐように横たわっていた。ここで行き止まりか。そう思ったが、ふと足元に目を落とすと、コンクリートだった道が、いつのまにか苔むした煉瓦に変わっていた。 

 もっさりとした茂みにそっと手を差し込んでかき分けると、その奥には生い茂った木によって作られたトンネルがあった。煉瓦の道はその先に続いている。

 私はトンネルの中に入った。

 先ほどの路地よりもさらに狭く、歩く度に腕や肩が枝や葉に当たる。何度か別のひんやりとしたものが触れたが、気にしないよう努力をしながら進んで行った。


 トンネルを抜けると、目の前に二階建ての家が現れた。全体は灰色の石造りだが、一階部分はお店のショーウィンドーのようなガラス張りだ。近づいて覗いてみると、中には絵が飾られているのが分かった。

 ショーウィンドーの横には、重厚な作りのドアがある。その上に掲げられた看板に

 『画廊 ラビリンス』

と飾り文字で書かれてた。

「やっぱりここか」

 迷路好きな住人が住んでいるのだから、もっと原色が塗りたくられた奇抜な建物を想像していたのだが、案外落ち着いた雰囲気の場所のようだった。

 ドアの中心には犬の顔を模したノッカーがついていたので、私はそれに手をかけて二回、打ち鳴らした。

「冨田さんのお友達ですね。どうぞお入りください」

 ドアの向こう側から聞こえてきたのは、意外にも若い女性の声だった。

「失礼いたします」

 私は声に従ってそっとノブを押した。

 

 ショーウィンドーから見えた通り、壁にはいくつも絵が並んでいた。古そうな油絵もあれば、抽象的な現代アートの額もある。室内では黄色っぽい間接照明がいくつか淡い光を放っているだけで、少し薄暗い。

 しかし、私を招き入れた声の主はどこにもいなかった。

「あのー、すみません」

 私は周囲を見回しながらいるのかも分からない相手に呼びかけたが、今度は返事が無かった。

「参ったな」

 冨田の友人だと言うからすっかり油断していたが、よくよく考えると人間では無い可能性の方が高いのである。

 あの老人は半分妖だから大丈夫だとしても、純粋な人間である私の扱いはまた違ってくるかもしれない。もしかしたら人間をここに閉じ込めてからゆっくり食べるような恐ろしい相手だったのでは・・・

 私は氷のような冷たいものが背中を駆け上がっていくのを感じた。

 その時、ふと壁にかけられた絵のうち一枚が目に留まった。最初はただの肖像画だと思ったが、改めて見つめると描かれているのはそれだけではなかった。

 人間の顔が大きく描かれているのだが、細かい部分を見ていくと、その顔は南瓜やトウモロコシ、レタスといった野菜をパズルのように組み合わせて作られたものだった。

「変わった絵だな」

 細部まで描き込まれたそれをじっくり見たくなり、私は絵に向かって一歩踏み出した。

 その時、突然額縁が眩い光を放ち始めた。絵とまともに向かい合っていた私の視界は、あっという間に真っ白になった。


 気がつくと、私は柔らかい地面の上に横になっていた。

「何?ここ」

 起き上がって辺りを見回す。さっきまでいた画廊はどこにも見当たらない。私が寝ていたのはふかふかとしていた芝生の上だった。

 そして目の前には、妙な曲線を描いた赤い建物があった。

 私はその建物をよく観察したが、どこにもドアや窓らしきものは無かった。その代わり、地面から屋根まで続く縦方向の溝のようなものが、側面に何本も彫り込まれていた。

「あら、なかなか良いチョイスじゃない」

 突然、上から声が降ってきた。先ほど私を画廊に招き入れたのと同じ声だ。

「すみません」

 私はどこから聞こえるのかも定かでは無いその声に呼びかけた。

「あなたは、誰ですか?どこにいるんですか?そして、ここはどこなんですか?」

「そんなに焦っちゃだめよ」

 私の混乱を知ってか知らずか、天の声は静かに私の言葉を留めた。

「それは今に分かること。それより、あなたの置かれた状況を楽しんでみたら?ほら、後ろを向いてご覧なさい」

 言われるがままに後ろを振り向いて、私は「あっ」と言った。

先ほどの赤いものの後ろに、黄、緑、橙、黒など様々に彩られた建物が増えていた。どれも同じように丸っこい形をしていたが、壁の表面はつるつるだったり、でこぼこだったり、色々だった。

そして同時に、私はそれが建物では無いことにも気付いた。

「・・・野菜?」

 最初赤い建物だと思ったのは大きな大きなパプリカだった。その後ろに並んでいるのは、トマト、人参、玉葱、茄子、ゴーヤなどなど。普段紅廊館の台所でも見慣れているような野菜が、何百倍にも拡大されて目の前に転がっていた。

 私はふと自分がここに来る前に見ていた絵を思いだした。野菜の寄り集まった肖像画。私はあの奇妙な絵の世界に吸い込まれてしまったらしい。

「ようやく飲み込めたみたいね」

 天の声が笑いを堪えるような声で言った。

「ようこそ。アルチンボルドの世界へ」


 パプリカの近くに「スタート」と言う文字と矢印が書かれた、木製の立て札が立っていた。

 矢印の示す方向を見ると、パプリカと隣の玉葱の間に開いた狭い隙間を指している。

「ルールは簡単。スタートから入ってゴールに向かうだけ」

 さも単純なことのように言うが、私は全体が俯瞰できる新聞の迷路ですら、ゴールに到達できない人間である。自分自身が鉛筆の先になって壁の間をかけずり回らなければならない今の状況では、カラフルな野菜に囲まれて一生を終えることへの不安が増すばかりである。

「大丈夫。どうしても出られなくなったら助けてあげるから」

 とりあえず生きて帰るためには、この得体の知れない声の主を信用するしかない。私は諦めて、スタートの奥へと足を踏み出した。

 

 畑にやってくる昆虫たちにとって、野菜というのはこんな風に見えているのだろうか。茄子の表皮に浮き出た細かい凹凸を手でなぞりながら私は思った。助けてやるという優しい言葉がけに背中を押されて早二〇分。私は完全に迷っていた。

「ここ、さっきも通ったような」

 丁字路で門番のように二つ並んだトマトに挟まれ、途方に暮れていた。進んでいるつもりが、同じ場所をぐるぐる回っているだけにも感じる。

「どうしたものかな」

 天の声に助けを求めようかとも思ったが、一度始めてしまった以上、自力でゴールまでたどり着きたいという気持ちの方が強かった。

「今どの辺りなんだろう?」

 歩き疲れた私は傍らに横たわっている巨大トウモロコシに何気なく手をついて寄りかかった。

 その時、手に当たった粒が、まるでボタンを押すようにぼこっと陥没した。

「ん?」

 とてつもなく嫌な予感がした私は慌てて手を引っ込めた。しかし、へこんだ部分はもう元に戻らない。そのまま立ち尽くしていると、後ろの方で突然どーんという音がした。

驚いて振り向いた私は絶句した。

 通路を塞ぐようにして巨大なジャガイモが転がってくる!どこかの映画で見たことがある展開だが、身の危険を感じた私は次の瞬間駆け出していた。

 すぐ後ろに迫るゴロゴロという音に追われながら、ひたすら突っ走り、角を曲がり続ける。その時、目の端に脇道の入り口が見えた。私は躊躇うことなくそこに飛び込んだ。

ジャガイモは唸り声を上げながら私の足先を掠めて走り去っていった。

「ふぅ」

 久しぶりに体を動かしたせいで、すっかり息が上がっている。しかし、大変な目に遭ったというのに、私の心中にはなぜかわくわくとした気持ちが広がっていくのを感じた。この状況を子どものように意外に楽しんでいる自分がいる。

 自分ではそう思わなくても、私はどこか刺激的なものを自分が求めていたことに気付いた。

「だから、か」

 冨田は私の内にある欲求をはじめから見抜いていたのだ。

 よし、じゃあ思いっきり楽しんでやろう。


 やがて私はゴールにたどり着いた。

 大根の輪切りでできた大きな丸扉に、ゴールの文字が刻まれている。私は力を込め、それを押した。


「おめでとうございます」

 扉の向こうから、今日何度も聞いた声がした。

「えっ」

 そこにあったのは最初の画廊だった。

 しかし来たときと違って、部屋の中央には小さな丸いテーブルと椅子が2脚置かれていた。そして片一方の椅子には、白黒のメイド服を着た女性が座っていた。

「あなたは」

「私はこの画廊の主、迷家と申します」

「マヨイガ、さん」

 以前冨田から聞いたことがあった。人里離れた山奥に突然豪邸が現れることがある。それを作り出すのが、迷家という妖だと。しかし、私の聞いた伝承とはいろいろと違う。

「あら、妖だって時代に合わせて姿形は変えていかなければなりませんのよ」

 彼女は持ち手の細いおしゃれなティーカップにお茶を注ぎ、私に勧めた。

「ありがとうございます」

「いかがでしたか?アルチンボルドの名画、いや迷路は」

「いや、やっぱり苦手ですね」

「でもきちんと自分でゴールされたじゃないですか。ご立派ですよ」

「答えを求めるのは、いささか癪だったもので」

「その心がけは素敵ですわ」

 彼女はにこりと笑って言った。

「どうして、このようなことをされているのですか」

 私は聞いた。

「私も、昔は古式ゆかしい迷家をやっておりました。でも時代が移ろうにつれて山に入る人も少なくなり、私の元へたどり着く人も減っていきました。私は、元来もてなし好きなのです。そこで、人と出会えるような場所を求めて移動したのです」

「移動・・・」

「私が目をつけたのは家々の間の路地でした。ここは人の生活に身近な場所でありながら、驚くほど人通りが少ないのです。ここなら丁度良い頻度で人が訪れるだろうと、私は考えました」

 彼女には彼女なりの悩みがあったのだ。

「でも、どうして迷路なんか」

「それは偶然でした。ある日私の元を訪れた人が、この本を落としていったのです」

 迷家はどこからともなく一冊の雑誌を取り出し、私の前に置いた。手にとってぱらぱらと捲ると、その中の一ページに迷路のコーナーがあった。

「人間はこういう娯楽を好むのか、と私は初めて知りました。そして色々と工夫をしながら自分の中身を作り替え、結局このような形に収まったのです」

 彼女の話を聞いてから部屋の中を見回すと、あちらこちらに彼女が苦労した跡が見える気がした。

「素敵ですね」

 私は素直に言った。

「何がですか?」

「人を楽しませようという、あなたの心意気です。その為に自分の内面を変えるなんて、なかなかできることじゃありません」

「そう言っていただけると、私も頑張った甲斐がありました」

 迷家は心底嬉しそうに笑った。

 そして試すような目で私を見て言った。

「どうですか。今度は別の絵で、挑戦してみませんか?」

 断る理由はなかった。


「喜んで」

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