第20話 夜奏

「出かけようと思うのですが、一緒に来ていただけませんかな」

 冨田は普段めったに紅廊館から出ようとしない。珍しいこともあるものだ、と思いながら私は、「どこへ行くんですか?」と聞いた。

「昔の知り合いなのですが、実は最近怪異に悩まされているようでしてな。彼の様子を見に行こうと思うのです」

 概ね予想はついてはいたが、やはり妖つながりのことであった。

「分かりました。お供しましょう」


 私たちは幾つか電車を乗り継いで都会を離れ、郊外へと出た。

「この辺りも、昔はずっと田畑が広がっていたのですよ」

 立ち並ぶ真新しい住宅地を眺めながら冨田は言った。

「あの頃、妖と人との距離はとても近かった。狐や狸に化かされたという話もよく聞いたものです」

「昔は良かった…と」

「いえいえ、そのようなことを申すつもりはありません。今は今で、幸せな時を紡いでいる人々がここにはたくさんいる」

 折しも踏切の外から幼い子供が母親と電車に向かって手を振っているのが見えた。

「それは、素晴らしいことなのです。ただ、人々と妖の間がどんどん隔てられていくのは、少し寂しく思いますな…」

 そう言って冨田は一人静かに頷いた。


 人気のない無人駅で私たちは電車を降りた。

「随分遠くまで来ましたね」

「何、大したことはありません。参りましょう」

 冨田の足取りは意外にしっかりとしていた。ともすれば私がおいていかれそうなぐらいだ。

 降りた駅の前には小規模な商店街があったが、大半はシャッターで固く閉じられていた。もう既に役目は終えたとばかりに、のっぺらぼうな顔をこちらに露わにしている。

「そういえば家は付喪神になるんですか?」

 その様子を見ながら、私は聞いた。

「家、ですか?」

 冨田はしばらく考えた。

「家の妖にはマヨヒガというものがおりますが、あれはどちらかというと家の幻のようなものですから寧ろ蜃気楼などと同族でしょう。家が付喪神になるという話は聞いたことがありませんな」

「食器や日用品に比べると、家の方が百年保存されることは多いかなと思ったのですが」

「なるほど。しかし家というのはその時々の持ち主によって手を入れられ、変わっていくもの。形を保ったまま使い続けられる器物とは、また違うのではないでしょうか」

「そういえばそうですね」

 確かに百年間一度も増改築が行われない家など、ほとんどないだろう。

「もちろん、霊の宿る家というのは実際にございます。所謂幽霊屋敷ですな。けれどもそれは死んだ人間の霊であって、家そのものに霊魂が由来している訳ではないので、やはり付喪神とは言えないでしょう」

「なるほど。ものに魂が宿る場合でも、色々と条件が違うんですね」



 私たちはやがて目的地へと辿り着いた。

「ここは…小学校?」

 広いグラウンドの奥に、白い校舎がちょこんと鎮座している。

「昔の知り合いがここで教師をしておりましてな。どうも最近困ったことがあるというので、こうしてきた訳です」

「なるほど…」

 校門の前に立っていると、校舎の方から人影が現れた。

「あ、冨田先生!」

 その人影は冨田をみとめるや否や嬉しそうに言った。

「お久しぶりです。この度はご足労いただき、本当にありがとうございます」

 近づいてきたのは人の良さそうな男性だった。年の頃は三十終わりから四十始めといったところか。

「お久しぶりです、斎藤君」

 冨田も顔を綻ばせている。

「そちらの方は?」

 斎藤と呼ばれた男は私の方を見て言った。

「まあ、助手のようなものです。私もいよいよ年になってきましてな、一人では手が回らないことも多い。色々と手伝ってくれるので助かっておるのです」

「そうですか。今日はご無理を言って申し訳ありません」

 富田のことを相当尊敬しているのか、斎藤の腰はとても低かった。

「それで、今日は私に見てほしいものがあるというお話でしたが」

「そうなんです。とりあえず中にどうぞ」


 私たちは斎藤の案内で、学校の応接室に通された。

「今は夏休みですから子どもたちもいないですし、楽になさってください」

 そう言いながら彼は麦茶のコップを私たちの前に置いた。

「これはこれは、お気遣いありがとうございます」

 冨田も慇懃に礼を言うと、麦茶を啜った。

「いやあ、生き返りますな。この頃はめっぽう暑いですから年寄りには堪えます」

「そうでしょうね。健康は財産ですから、気をつけないといけません。僕もこの年になると・・・」

 斎藤と冨田はこんな世間話をしばらくしていたが、やがて話は本題へと移った。

「それで、斎藤君はなぜ私を呼んだのですかな」

「実はうちの学校に、幽霊が出るんです」

 眼鏡をかけた実直そうな教師の口から放たれる幽霊、という言葉にはいささかアンバランスな印象を受けないでもない。しかし彼が冗談を言っている訳ではない証拠に、彼の額からは幾つもの脂汗が滴っていた。

 私と冨田はふかふかの椅子の上で居住まいを正すと、幽霊騒動の顛末を聞くことにした。


 この小学校の歴史は古く、その始めは明治にまで遡るらしい。そして斎藤は音楽の教師をしているそうだ。

 古い学校にはよくあることだが、教具室や倉庫の中には、使われていない人体模型その他の教材や、出自の分からない郷土資料が数多くしまいこまれている。長年の蓄積によりさすがにもう使わないものや、時代にそぐわない物が増えてきたため、そこを一度整理しようという話が持ち上がったのが、今年の初めのことだった。誰が言い出したのかは分からないが、賛同する人は結構多かったらしい。

 そして子どもたちが夏休み入った後、学校の教職員が総出で倉庫の大掃除を行った。

 溜まりに溜まった荷物がおおかた退けられて倉庫の奥の壁が見えはじめた頃、それは見つかった。

 壁際にひっそりと置かれて横の棚と同化していたのは、古いアップライト型のピアノだった。年代はざっと百年近く前のものだと推定される。外側こそ古く傷だらけであったが、斎藤が蓋を開けてみると中の機構は思いの外きっちりと残っていた。大幅な修理と調律が必要ではあるが、それでもまだ演奏が可能な状態だと彼は判断した。

 齊藤はピアノを修理してもらえるように校長に掛け合った。丁度小学校がまもなく百周年を迎えるということもあり、学校の記念碑的存在としてピアノを蘇らせることには大きな意味があると、額に皺をよせながら聞いている校長を懸命に説得した。 

 斎藤の努力は功を奏し、校長が教育委員会にピアノの修理を申し出てくれる運びになった。

 そしてピアノは埃の積もった倉庫の隅から運び出され、一旦斎藤が管理する音楽準備室に安置されることとなったのである。

 それからしばらく経った頃、持ち回りの開放プールの当番をするために出勤してきた斎藤に、一人の教員が声をかけた。

「斎藤先生、ちょっと」

「はい、なんですか?」

 彼の口調に不穏なものを感じ取った斎藤は、自分が何かしただろうかと思いながら言った。

「どうかしましたか?」

「いや、実は最近近所から苦情が来てましてね。夜遅くまでピアノを弾くのはやめてくれほしいと」

「ピアノ?」

 斎藤は驚いて思わず聞き返した。

 確かに日中には、他の業務の間をぬってピアノを弾くことも無いわけでは無い。しかし帰宅時間が他の教員よりは早めな斎藤は、夜まで居残って仕事をすることはほとんど無かった。

「僕は夜は学校にいないですよ、先生だってご存じでしょう」

「いや、それがね」

 相手の教員は口ごもった。

「最近も私が帰り際に音楽室の前を通ったら、ピアノの音が聞こえたんですよ。その時は、斎藤先生は練習熱心だな、ぐらいにしか思っていなかったんですが」

「いや、そんなことは…」

 斎藤は咄嗟にここ最近の自分の行動を頭の中で思い返した。しかし、夜まで居残って練習をしていたような日はない。それに彼の家に帰ればサイレント機能付きのピアノがあるので、練習をしたければ帰ってからそれでするのだ。 

「申し訳ないですけど、僕は知りませんよ」

「じゃあ、一体誰が弾いてるんですか?」

 ピアノを弾いているのが斎藤ではないとすると、夜彼が帰った後に、音楽室に入って勝手に演奏している人間がいるということになる。

 そんなことがあればセキュリティ的に大問題だ。

「とりあえず、ちょっと気をつけておいていただけませんか」

 教員はそう言うと、職員室を出て行った。

 後に残された斎藤の頭の中には疑問符が飛び回るばかりだった。


 その夜。斎藤はことの真相を確かめるべく、一人で音楽室に座っていた。自分が普段生活しているスペースで変なことが起こるのは、決して気分の良いものではないし、万一夜に学校に侵入している不届き者が居るとすれば、それはそれできちんと指導をしないといけない。

 そう腹をくくった彼は、件のピアノが本当に聞こえるのかどうか、とりあえず試してみることにしたのである。

 夏の日は長いが、一度傾けば意外とあっという間である。窓から差し込んでいた僅かな残照もやがて消え、音楽室の中に充満していた蒸し暑い空気も、次第に薄れていった。そして代わりにえもいわれぬ気味の悪さを伴った静寂が、校舎内を支配し始めた。

 斎藤は教室の前方だけ電気を点けて本を読みながら、その時をじっと待っていた。目の前には大きなグランドピアノがある。何か異変があればすぐに気付くはず。彼は本に目を落としてはいても、耳は微かな音も逃すまいとそばだてていた。

 しかし彼がそうやって構えていられたのも最初の内だけだった。炎天下でのプール監視で体に溜まっていた疲労が、眠気という形で徐々に表出し始めたのだ。斎藤は次第にうつらうつらとし始め、いつの間にか眠ってしまった。


 本の上に突っ伏していた耳を突然貫いたのは、調子外れなピアノの音だった。

(なんだこの音は!)

 斎藤の眠気は一気に吹き飛んだ。決して出鱈目に弾いている訳ではない、寧ろきちんとした曲を弾いているのにもかかわらず、音と音がぶつかり合って不協和音の連鎖を生み出している。

 頭を上げた斎藤は反射的に音楽室のピアノの方を見やった。

 ところがそこには誰も居ない。

 その時彼は、不協和音が別の場所から聞こえてくるのに気付いた。

 調子外れな、どこか錆びて擦れるようなぎこちない音色。

「そうか」

 鳴っているのはあの古いピアノだ。ひらめいた斎藤は慌てて準備室に突進した。

 部屋を隔てるドアを開けた途端、軋むような音楽はさらに大きくなった。部屋の隅に運び込んだ傷だらけのアップライトピアノ。その蓋が開いて、黄ばんだ歯がずらりと顔を出していた。

 そしてピアノの前に、誰かが立って一心不乱に鍵盤を叩き続けている。日が落ちて暗くなった準備室の中でも浮きがって見えるほど、その人物は真っ黒だった。本来なら聞く人の心を癒す美しいハーモニーが、微妙な音のずれにより一種の拷問具となって絶対音感を持つ斎藤の耳に襲いかかった。 

 無理も無い。おそらく七十年間ほど調律していないピアノで奏でているのだ。音が出ているだけでも奇跡に等しい。しかしそんな状況下でも、ピアノの前の人物はまるで気にならないかのように演奏を続けていた。

 斎藤の我慢はついに限界に達した。

 一際大きく音がはずれた時、おもわずもたれかかった壁をドンッと叩いてしまったのだ。

 その途端、ピアノの音がぴたりと止まった。演奏者が彼の方をゆっくりと振り返る。

真っ白な顔が、ぼおっと彼の方を向いた。

 そして次の瞬間、その姿はふいっと消えてしまった。

 斎藤は起きていることの処理に頭が追いつかず、しばらくそこに立ち尽くしていた。

そして一息ついてからようやく、彼は自分が所謂心霊現象に遭遇したことを悟ったのである。


「そこで、たまたま以前知り合った私の元に連絡を」

 斎藤の話を面白そうに聞いていた冨田は言った。

「はい。もう私一人ではどうしたらいいか分からなくなってしまったので。こうしたことに知見のある方というと、もう冨田先生ぐらいしか思いつかなかったんです」

「なるほど」

 老人は腕を組んで考え込んだ。

 そしておもむろに尋ねた。

「それで斎藤君は私に、何をして欲しいのですか」

「何を…?」

 彼は質問の意味をいまいち測りかねているようだった。

「例えばそのピアノに、誰かの幽霊が憑いているとしましょう。あなたはそれを払ってしまえば良いとお思いかもしれません。しかし幽霊というのは、未練があるからそこに残るのです。この場合、それを無理からに引きはがすようなお祓いを行うのは本当に最善策でしょうか」

「最善策、ですか」

 斎藤は冨田の言葉を復唱し、頭の中でその意味を反芻しているようだった。

「その場合はやはり、その幽霊の未練をきちんと解決してあげるのが最善策なんではないでしょうか?」

「そうですね」

 冨田は彼の回答に満足そうに頷いた。

「やはり妖と人間、どちらもが納得をして終わることができなければ、解決したとは言えませんからな」

 彼は茶を置くと、すっと音も無く立ち上がった。

「では、始めましょうか」


 校舎の端にある音楽室のドアを開けると、学校特有の鼻につく油引きの匂いがどっと中から零れだした。それにどこか懐かしいものを感じる。

「これが今授業で使っているピアノです」

 教室の前でいかにも音楽室という雰囲気を作り出している大きなグランドピアノを指さして斎藤が言った。

「ほう、立派なものですな」

 黒い鏡のような表面に、冨田がそっと手を触れる。

「もう少しスペースがあれば紅廊館にもピアノを置きたいのですがな」

「ピアノは弾けないんじゃなかったですか」

「いやいや」

 冨田はゆっくりと首を振った。

「私が弾くのではなく、弾ける方をお呼びするのです。近所の方々や妖たちを呼んで演奏会を開いても面白いかもしれませんな」

 面白い思いつきではあるが、生憎世間の人は冨田が思っているほど妖に慣れていないと思うので、一緒に音楽鑑賞ができるのかどうかははなはだ不安である。

「ここを抜けると準備室です」

 教室を横切った私たちは、斎藤の案内に従って入り口と反対側にあるドアを潜った。

 音楽準備室は音楽室の四分の一ほどのこじんまりした部屋だった。埃っぽい匂いが充満していて、あちらこちらに楽譜や本で築かれた山がある。

「すみませんね。これでも頑張って片付けた方なんですが」

 斎藤が恥ずかしそうに言った。

「隅にあるのが、例のピアノです」

 古いアップライトピアノは流石に先程大きなグランドピアノを見た後では見劣りして感じられた。

 表面の塗装は傷だらけで、中の木の部分が見えている箇所がいくつもあった。そっと手を触れてみると、ギィという不穏な音が聞こえた。

「これでもまだ演奏はできるのですか」

 冨田は上蓋の傷を手で確かめながら聞いた。

「中の金属部分が錆び付いてしまっているので、音が出ない鍵盤が結構あります」

 丸みを帯びた蓋がそっと開かれ、中から黄色くなった鍵盤が顔を出す。

「それに音の出るところも」

 いくつかの鍵盤が同時に押される。お世辞にも綺麗とは言いがたい和音が響き渡った。素人耳でもだいぶ調律が狂っているのが分かる。

「この有様なので、もし本当に演奏できるようにしようと思えば、修理には相当な時間がかかりそうです」

 斎藤が話している間も、冨田はピアノの周りをうろうろしながら検分していた。彼の興味があるのはピアノでなく、あくまでもそれに憑いている幽霊なのだ。

「このピアノの出自などは分かっておるのですか?」

「昭和初期に海外で作られたもののようです。その後日本に輸入され、音楽教育に非常に熱心だった当時の校長が購入したという記録が残っています」

「それでは、このピアノはずっとこの学校にあったのですね」

「そういうことになりますね」

「なるほど、分かりました」

 そして彼はピアノのある部分をすっと指さした。

「ここをご覧なさい」

 私たちは促されるまま、彼が示した部分を見た。黒い塗料が明らかに溶けかけている部分がある。

「塗装で分かりにくくなってはいますが、ここにあるのはおそらく焼け跡です」

「焼け跡?」

「はい。この焼け跡の正体が分かれば、事態を解明するのに一歩近づけるかと思うのですが。この学校の歴史が分かるような資料は何かありますか」

「それでしたらこの間同じ教具室から古い資料が色々と出てきました。百周年に向けて改めて調査をしたいということで、まだ残してあります」

「そちらの方を拝見することはできますか」



「空襲?」

 冨田の口から出た言葉を私たちは口を揃えて聞き返した。

「あのピアノがこの学校に入ったのは戦前です。お若いお二人はご存じないかも知れませんが、この辺りは戦時中酷い空襲に遭っていましてな。町中にあるこの学校もおそらくその被害を免れてはいないと思われます」

 埃っぽい教具室の中で、冨田は目の前に置かれた紙束を丹念に繰っていった。紙面には鉛筆書きの細かい字が並んでいる。

「なんですか、これは」

「昔の宿直の日誌です」

 昭和中期頃まで小学校には宿直室というのがあって、宿直の人間が泊まりで夜警をしていたという。

「ありました」

 冨田はそう言うと、日誌のあるページをポンポンと指で叩いた。

 そこにはこんな文章が書かれていた。

「一九四五年五月二五日。十一時頃、校舎内にてピアノの音。様子を見に行けど、異常は無し」

「夜間にピアノの音…」

 今この学校で起きているのと同じ事が、半世紀以上前にも起こっていたのだ。

「読み進めていくと、このような記述が何度も登場します。しかしピアノを弾いているのは依然として誰か分かりません。ただ音が聞こえるだけだったようです」

 謎のピアノは宿直の担当者にとって悩みの種であったらしい。

「そしてどうやら、その答えになりそうなことがここに書かれています」

 冨田はあるページを開いた。

『一九四五年七月二九日。空襲警報発令。米軍機の音が絶え間無く、防空壕へと避難。本校の校庭に焼夷弾が投下されるも、程なくして鎮火。校舎の一部にも火の手は及んだが大事には至らず。しかし本校の女子、雨宮千代がこれにより焼死』

 先程見た焼け跡が脳裏をよぎる。あれは校庭に投下された焼夷弾から飛んできた火の粉によってつけられたものだったのだ。そして末尾に書かれた文言がその事実をさらに重たいものにしていた。

「これ以降、夜のピアノに関する記述はないようです」

冨田は最後のページまで目を通すと、日誌をぱたりと閉じた。

「これが何を意味しているか分かりますか。斎藤君」

まるで教師が生徒に質問するように、冨田は聞いた。

「雨宮千代というこの女の子が度々夜の学校に侵入してピアノを弾いていたと。そうおっしゃるのですね」

「そうです」

「なぜそんなことを」

「当時はピアノなど家にあるのはごく一部の富裕層に限られていました。雨宮千代の家は、それほど裕福ではなかったのでしょう。それに」

冨田は閉じた日誌の縁を指で撫でながら言った。

「戦時下の日本では、西洋の音楽などおおっぴらに演奏することはできませんでした。だから彼女は夜にそっと学校に忍び込み、人目につかないように、おそらくは可能な限り小さな音でピアノを奏でていたのでしょう。昔の学校は戸締りも今より緩かったのですから、忍び込むこと事態は案外、簡単だったのかもしれません」

「でもどうして校庭の焼夷弾で彼女が」

焼夷弾が落ちたのは周りにものが少ない校庭だったため、校舎が丸焼けになるような事態は避けられたようだった。しかし、この日誌には、彼女は焼夷弾によって焼死したとはっきり書かれている。

「ご存じでは無いかも知れませんが、焼夷弾というのは地面に着弾したあと、その周囲に火の玉をまき散らすようにして炎上します。この日誌にも校舎の一部にも火の手は及んだと書かれていますから、校舎まで飛んできた火の玉がいくつかあったのでしょう。その時窓かなにかから飛び込んだ火の玉が、あのピアノの焼け跡を作ったのでしょう」

「そして同じように校舎内にいた雨宮千代にも火の玉が…」

 残酷な光景を想像したくないのか、斎藤は頭を左右に振った。

「おそらく、この日誌を書いた宿直の職員は、校舎の火を頑張って消そうとしたのでしょう。そしてその尽力で被害は最小限に済んだ。しかし校舎の中に忍び込んだ女の子には流石に気付かなかったのです」

 重い沈黙が教具室を満たした。いつの間にか日が陰り、窓から射し込む日光も少しずつ赤みを増している。

 斎藤がしばらくして口を開いた。

「冨田先生、僕はどうすれば良いのでしょうか」

「どうすれば、とは」

「僕は子どもたちに音楽の楽しさを伝えたいと思って、今の仕事に就きました。音楽教師というのは、もしかしたら家庭では音楽を楽しめないかもしれない子どもたちにも、その楽しさを教えてあげられる仕事だと思っています。だからこうして、音楽に対して未練を残したまま死んでしまった彼女が気の毒で仕方がありません。未練を晴らすために、僕に何かできることはないでしょうか?」 

 冨田はじっと斎藤の顔を見つめた。

「あなたのその気持ちを、雨宮さんに分かるような仕方で示すのが最善かと思われます。そうすればきっと彼女は応えてくれるでしょう。しかし私は生憎ピアノというものが分かっておりませんのでな。どのような方法をとるかは、あなた自身が考えなければなりません」

「分かりました」

 斎藤の目に決意が宿った。


 その晩、斎藤は一人で音楽準備室に入っていった。

「大丈夫でしょうか?」

 暗い部屋の中で一人、ピアノに向かい合っている斎藤の姿が目に浮かんだ。

「大丈夫でしょう。彼ならきっと」

 冨田がそう言った時、部屋の中からピアノの音が聞こえてきた。

 なるほど、酷い音だ。

 音は狂っているし、錆び付いた鉄の玄が上げる悲鳴のような音があちこちに混じっている。音が抜けているように感じるところは、もう鳴らなくなった鍵盤を叩いているのだろう。

 だがその音色には、普通のピアノにはない儚い響きがあった。

 雨宮千代は、夜の音楽室で、一人でこれを練習していたのだ。ろくな指導も受けられず、楽しみを共有できる同志もいない。たった一人、孤独にピアノに向かっていた。

 その時の彼女は、きっとそれで満足していただろう。

 しかし曲を弾き終わったとき、空っぽの部屋に広がる残響が次第に消えていくのを感じながら、ふと寂しさを覚えるようなことが無かったのだろうか。

 舞台の上で拍手喝采を受ける自分を夢想したことが一度も無かっただろうか。

 雨宮千代の目には、何が見えていたのだろう。

 

 突然、聞こえてくる音の数が増えた。

 メロディーの底の方をずっしりと支える低音が加わり、元の音楽をそっと持ち上げていく。寂しげだった音楽が少しだけ豪華に、そして楽しそうになった。

「ほう、連弾ですか」

 冨田が呟いた。

 私は四本の手が鍵盤の上を滑るように動く様を想像する。しかも新たに加わった手はピアノの整理不良や劣化を巧みに覆いながら、雨宮千代の奏でるメロディーを損なうことなく美しいものへと変えていく。斎藤が即興で彼女の音に合わせ、一つの美しいメロディーを作り出しているのだ。

「子どもに静かに寄り添い、歩調を合わせる。斎藤君らしいですな」

 時を超えて出会った二人の音楽は絶え間なく生み出されていった。 

 ふと窓の外に目をやると、いつの間にか青白い三日月が雲の隙間から顔を覗かせていた。月はまるで彼らを見守るように、淡い光を投げかけ続けていた。

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