第19話 異類の恋
しとしと雨が降っている。紅廊館の庭は天からの恵みを受けて緑に輝いていた。
外仕事ができないので、私は冨田の将棋の相手をしていた。もう五、六回負け続けている。そろそろ勝ちたい。
「王手、ですな」
言っているそばからまた負けてしまった。
普段は謙虚で物静かな冨田だが、こういう勝負事には手を抜かない性分らしい。おかげで駒の動かし方が分かる程度の私を相手に、全く大人気のない戦いを続けていた。「手加減をするなど、対戦するあなたに対して失礼でしょう」とのことだが、初心者を完膚無きまでに叩きつぶすのも間違っている気がする。
「一旦休憩にして、お茶でも飲みましょうか」
一旦、ということは、私は引き続きこの地獄に付き合わなければならないらしい。
「しかしよく降りますな」
「そうですね」
朝から降り続けている雨はいっこうに止む気配がない。
「そういえば昔、こんな日に変わった方と出会いました」
冨田が言うのだからよっぽど変わった人だったのだろう。
「このような生活をしている以上、大抵のことには驚かなくなっているのですが、いやはやあればかりは、今思い返してもなかなか突拍子もない話でした」
「そんなことがあったんですか」
「はい。もしよろしければお話ししますが」
「是非、お願いします」
私は老人の昔話を聞くべく、居住まいを正した。
あなたが紅廊館に来られるよりずっと前、私がもう少し若かったときの話です。今でこそこうして引きこもってばかりですが、その頃の私は全国を行脚しながら、妖やそれにまつわる伝承を調べていました。今風に言えばフィールドワークというものでしょうか。
その時私はちょうど、ある地方での調査を終えた帰りで、小さな私鉄に乗っていました。田舎を走る列車の車窓から見える風景は一面が田畑。そして遠くにうっすらと山の陰が見える程度です。
私は向かい合わせになった四人掛けの座席に座ってそれを眺めながら、今回の調査のことを思い返していました。調査の内容ですか?確か『子獲り箱』という呪いの伝承だったと思いますが、そのお話はまた別の機会に。
列車に揺られ続けている内に、いつの間にか外の天気が怪しくなってきました。黒い雲が頭上までやってきたかと思うと、たちまち大きな雨粒が窓を叩き始めました。
薄暗くなった車内を見回すと、近くの座席に一人の女性が座っているのが目につきました。
女性は田舎の小さな列車にはあまり似つかわしくない、値打ちの高そうな黒い服を纏っていました。そして手にはなぜか、男物と思われる黒色の無骨なこうもり傘がしっかりと握られていました。
その女性を一目見たとき、どこか奇妙な印象を受けました。その違和感は、薄汚れた私鉄と彼女の美しい装いの対比が醸し出すものだけではありません。
私は彼女が何らかの形で妖、もしくはそれに類するものに関わっていることを直感的に悟りました。そして同時に、彼女に対する好奇心がむくむくと頭をもたげ始めたのです。
すると私の視線に気付いたのか、彼女がこちらを向きました。そして目が合うと、微笑みを浮かべて上品に会釈をされました。その好意的な表情を見た私は、思いきって話しかけて見ることにしました。
「よく降りますな」
窓の外をそれとなく示しながら言いました。会話のはじめに天気の話題を用いるのは古今東西共通ですから。
「そうですね」
少しだけ顔を上げてこちらを見やると、彼女は鈴の鳴るようなか細い声で応えました。
「どちらまで、行かれるのですか?」
「うーん・・・」
女性は少し困った顔をしました。
「・・・特には決めていません。ですが出来るだけ遠くに行こうと思っています」
帽子の下から覗く顔は色白でとても美しいのですが、その微笑みにはどこか儚さが伴っておりました。
「なるほど。人は時に、目的の無い旅をしたくなるものですからな」
「そういうことではありません」
彼女は私の言葉を静かに、しかしはっきりと否定しました。どうやら私の言ったことが気に障った様子でした。
「私は、家を飛び出してきたのです」
「家出、ということですか」
「いいえ。どちらかというと駆け落ち・・・と言った方が近いかもしれません」
「ほう。駆け落ち」
私は思わず周りを見回しました。駆け落ちなら、彼女のお相手が近くにいるはずだと思ったのです。しかし相変わらず薄暗い車内には、私と彼女の二人しかいません。
「・・・お相手は、どのような方なのですか?」
「とても、優しい方です」
彼女は顔を赤らめ、手にしている傘の柄をぎゅっとにぎりしめました。
「いつも私のことを考えて、守ってくれます。彼がそばにいると本当に安心するんです」
「なるほど。素敵な方なのですね」
私は相槌をうちながらも、内心彼女に対して不信感を抱き始めていました。先ほどから彼女は駆け落ちだと言いながら、一人で座っています。そして彼は「いつも私を守ってくれる」にも関わらず、おおよそ車内にはいる気配がありません。
それでも、彼女の顔を見ると真剣そのもので、とても嘘をついているようには見えません。
また、彼女から妖の気配がずっとしているのも気になります。もしかしたら悪い妖に憑かれているのではないか、とも考えました。しかしまだ何も悪いことは起こりそうにないので、ひとまず様子を見ることにしました。
「それで、どうして駆け落ちなど考えられたのですか?」
「あの人が、私に対して許せないことをしたからです」
「あの人、と言いますと」
「世間的には、父と呼んだほうが良いのかもしれません。しかし、私はあの人にそこまで親しみを感じておりませんゆえ」
「なるほど・・・しかし、それはその・・・お父様にもいろいろと思うところがあったゆえではないでしょうか?」
「違うのです」
彼女は私の言葉をまたしてもやんわり切り捨てました。
「あの人がきちんと常識ある範疇で行動していたなら、私は仮にも父として敬うことができたかもしれません。しかしあの人はそうではありませんでした。あの人は自分の情動に任せて動く、ただの野獣だったのです。ですから私は、彼に食い殺される前に、その元を飛びだしたのです」
ここまでを一気に話すと、それきり彼女は黙ってしまいました。
やがて、列車は小さな駅に停車しました。
ホームに着いた途端、窓の外が騒がしくなったのに気付きました。なにやら黒い服をきた男たちが何人も蠢いています。ふと見ると、女性の顔が真っ青になっていました。
「どうかされましたか?」
「外にいるのはあの人の部下です!私を連れ戻しに来たのです!」
「なんと!」
そうこうしているうちに扉が開いて、男たちが車内になだれ込んできました。
「お嬢様。ここにおられたのですか?」
先頭の男が言いました。
「ご自宅でお父様がお待ちです。お戻りください」
「そうです。今ならまだ間に合います」
「どうか、我々とご同行ください」
後ろの男たちも口々に続けます。
「嫌です!」
彼女が叫びました。
「そう言わず、どうかここはお戻りください。お父様も心配しておられるのです」
「あの人を父だと思ったことは一度もありません!私は戻りたくありません!」
私が仲裁に入ったほうが良いのかどうかを考えあぐねていると突然、別の低い声が車内に響き渡りました。
「やめろ!」
皆の動きがぴたりと止まりました。
男たちは周りを探るように目を泳がせています。
「嫌だと言っているだろう!」
そして彼女の手に握られていた傘が突然跳ね上がったかと思うと、先頭の男の鳩尾に食い込みました。
男は「ぐっ」というような奇妙な声を上げて床に倒れました。
「この人が嫌だと言っているのだ。お前たちこそ、早く立ち去れ!」
声を発しているのが傘そのものであることは、もはや明白でした。私が感じていた奇妙な印象は彼女のものではなく、彼女の持っている傘から発せられる妖気によるものだったのです。
傘は彼女の手を離れると、勝手に車内を暴れ回り始めました。そしてあっという間に男たちを一人残らず叩き伏せてしまいました。
最後の一人を片付けてしまうと、傘はすぅっと戻ってきて、彼女の手に元通り収まりました。
「お分かりになりましたか?」
彼女は、とばっちりを受けないよう座席の後ろへと避難していた私の顔を見て言いました。
「彼はいつもそばにいて、私を守ってくれるのです」
妖と人間の境を越えた恋愛は珍しい物ではありませんが、器物の妖でそのようなことがあるとは、私もまだ信じられませんでした。
「なるほど。それが、いや、彼が駆け落ちのお相手だったと、そういう言うわけですか」
「ええ」
彼女は愛おしそうに、太い柄のカーブに指先を這わせました。
「私は彼といられるなら、他には何もいりません」
「しかし、お二人はどうしてこのような関係になられたのですか」
外に目をやると、いつの間にか日が暮れていました。黒い鏡面となった窓が、橙色の車内灯に照らされた私たちを静かに映していました。背筋をすっとのばした彼女の像は、人間とも妖とも違う、独特の雰囲気を纏っていました。
「彼は、私の前の父の所有物だったのです」
使い込まれて色褪せた傘の生地が、彼女が指を動かすたび、カサリと微かに音をたてました。
「父は持病があって、ずっと体調が優れませんでした。しかし私たち家族のために、毎日骨折って働いてくれていたんです」
彼女の出身は雨の多い地域で、夏場は一日中降り続けていることも珍しくなかったそうです。そのため大きな傘は、お父様が毎日仕事にいくために欠かせないものでした。黒い傘を持つお父様の細い背中を、彼女は毎日見ていたのです。
「ですが、父の病気は日に日に悪化し、結局私と母を残したまま急逝してしまいました。私もまだ幼かったので、今度は母が、知り合いの口利きでお金持ちの家のお手伝いとして働き始めました。そして、そこであの人に見初められたのです」
彼女のお母様に近づいたのは、あるお金持ちの長男でした。まだ比較的年齢も若かったお母様は娘の将来を案じ、彼の結婚の申し出を受け入れることにしました。
「あの人はぱっと見ではただの良き父、良き夫でございます」
彼女は言いました。
「しかし、私たち母娘の持っている感覚とは微妙にすれ違うことが多々あったのです。あの人は会社の経営を任されているのですが、そこで働いてる人たちの扱いの一部には、理不尽に思えるものがあったと聞き及んでいます。時が経つうちに、その優しそうな面の後ろに垣間見える残虐性が、少しずつボロを出し始めたのです。そうしたことがいくつも絡まり合い、やがて私とあの人との間には超えられない壁ができていきました」
不安なときのことを思い出したからか、彼女は傘の柄をぎゅっと握り直しました。
「あの人に嫌われまいと必死に無理をする母は、昔ほど私のことを気にかけることはなくなっていました。そんな時、私のそばにいてくれたのは彼でした。彼は持ち物が少なかった父の、たった一つの遺品だったのです」
すると、今度はそれまで黙っていた傘が話し始めました。
「俺は、ご主人様と一緒に毎日家と会社の間を行ったり来たりしていました。いつもとても大事に扱ってくれて、置き忘れられたりしたことも一度もありませんでした。ですから、亡くなったときはとても悲しかったです」
持ち物にこれほど愛されるとは、彼女のお父様は本当に優しい方だったのでしょう。自分を長く使ってくれた人に愛着を感じる器物の妖は珍しくありませんが、その中でも彼の思いは格別に強いようでした。
「お母様の再婚相手の家に引っ越してから、俺はずっと物置小屋の中にしまわれていました。使われることがなくなって寂しい気持ちもありましたが、お母様とお嬢さんが幸せになれたのならそれで良いと思っていたのです。ところがある日、物置小屋にお嬢さんがやってきました。そして私のことを抱きしめ、今の父親をどうしても受け入れられない、前の父親が恋しい、と泣くのです」
私は黙って彼の話を聞いていました。
目をこらして見ると、黒い布の表面に、いくつも水滴の流れたあとが残っているのでした。それがただの雨粒なのか、それとも彼女が流した涙のあとなのか、私には分かりませんでした。
「お嬢さんの心は日に日に弱っていかれました。そしてことあるごとに私の元へ来て、品の無い義夫に対する自分の思いをさめざめと打ち明けました。私は、自分が人間であったらどんなに良かったであろうと、何度も思いました。そうであれば、悲しみに暮れているこの人を思いきり抱きしめることができるのに、と」
それを聞くと、お嬢さんは顔を少し赤らめながら、彼の言葉を引き取った。
「それでも、私はまだ義夫の元を離れることは考えてはいませんでした。所詮は血の繋がっていない他人。すれ違うところが会っても仕方が無いし、彼の個人的な性格にまで、自分がどうこう言える立場では無い。そう思って無理矢理自分を納得させようとしていました。ところが昨晩、私が物置小屋にいると、彼が入ってきたのです」
彼女の端正な顔が明らかに歪んだのが分かりました。それに併せて、傘の先端が小刻みに震えています。
「彼は、一人でいる私を見つけると、値踏みするかのようにじろじろと見つめてきました。『なんなのですか?』と私が聞いても、気味悪くにやにや笑うだけで応えようとしません。私は彼の横をすり抜けて、出て行こうとしました。ところが、彼は手で私を阻むと、顔を私の耳にひっつくほど近づけてきました」
そのことを思い出して気分が悪くなったのか、彼女は手で口を押さえるようなそぶりをしました。
「あの人は、『誰のお陰で生きてられると思ってるんだ?』、と威圧的ににじり寄ってきました。『その点は、感謝をしているつもりでございます』と私は背中を這い上る不快感に必死に耐えながら応えました。もう怖くて怖くてたまりませんでした。すると、あの人は私の手を握りました。そして、恐ろしい一言を言いました。『じゃあ、俺を受け入れてくれるな?』と。そしてそのまま私を押さえつけようとしたのです」
彼女の義夫がどれほどおぞましい魂胆を抱いて、その行動に及んだのかは知りませんが、彼女の恐怖は想像に難くありませんでした。遡って考えると、彼女が義夫に対して常に感じていた違和感や不信感というのは、彼が自分の娘に対して常日頃から持っていたよこしまな気持ちを、敏感に感じとっていたからなのかもしれません。
「私は咄嗟のことでどうしていいか分からなくなり、おもわずぎゅぅっと目を瞑りました。ところがその時、あの人の手から急に力が抜けていくのに気付きました。思い切ってふりほどくと、彼はドサリと床に崩れ落ちたのです」
いつの間にか、彼女の震えは止まっていました。そして優しく傘の布の部分を掴んで持ち上げると、そっと腕の中に抱きました。
「彼が自分の柄であの人の頭を打ち、助けてくれたのです。そして『もう、大丈夫ですよ』と言ってくれました。私はほっとして、そのまま床に座り込んでしまいました」
「そして今朝、お嬢さんは家を出る決心をしました。俺と一緒ならどこまででも行ける。この人がそう言ってくれたので、俺はこの人の所有物として、共に経つことにしました」
いつの間にか、列車は小さな駅のホームに止まっていました。
「では私たちはこの辺で失礼いたします。良い旅を」
彼女はそう言うと降車口に向かっていきました。
「どこへ行かれるのですか」
「さあ、どこでしょう」
雨の中に黒い傘がふわりと開きました。
「ここではない、どこか。俺たちが静かに暮らせる場所へ」
落ち着いた声で傘が言いました。
「・・・人と妖が契りを結ぶと、良い結果にはならないといいます。これからあなた方の歩む道は必ず多難なものになるでしょう。それを受け入れる覚悟は、おありなのですか」
そう尋ねると、彼女は少しの間足を止めていました。そして振り向かずに言いました。
「私は彼と共に人生を歩めるのなら、それで幸せなのです。例えどんな犠牲を払うとしても」
細かい雨が降りしきる中、二人は薄い闇の奥へと消えていきました。
「それで、その人たちはどうなったんですか?」
「さあ、それきり会っていませんからな」
冨田は湯飲みを口に運びながら言った。
「真実の愛は全てに勝つ、と言いますが、彼らの場合はどうなったのでしょう。幸せになっていて欲しいところですが」
ふと外を見ると、いつの間にか雨が止んでいた。
「じゃあ、雨がやんだので庭の方に・・・」
私がそう言って席を立とうとすると、
「いえいえ、せっかくですからあともう一勝負やりましょう。一度も勝たないでは、あなたも楽しくないでしょうから」
冨田は逃がしてくれなかった。
こうしてまた、緩やかな地獄は続いていく。
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