第18話 夜道の怪
「これ、今週の分です。よろしくお願いします」
「分かりました。いつもありがとうございます」
いつものように悦子さんからメモを受け取って確認する。我が紅廊館の台所を取り仕切っているのは彼女だが、食材の買い出しはもっぱら私の仕事だ。最近は日中の猛暑がとにかく激しいので、日が陰った後に近所のスーパーマーケットに行って済ませることが多い。
「では、行ってきます」
冨田と悦子さんに見送られながら、私はまだ太陽の熱を手放していない夕暮れの大気の中へ飛びだした。
「えっと豚肉、長ネギ、トマト、ピーマン・・・」
メモには旬の夏野菜や疲労回復に効果のある食材が並んでいる。こうして買い物をしていると、毎週の献立や残り物の量まで悦子さんの中では緻密に計算されているのが垣間見える。長い主婦生活の中で培われたその技量は本当に偉大だと思う。
会計を済ませて店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
等間隔に街灯が並んだ帰り道をぽくぽくと歩いていると、向こう側から誰かがやってくるのが見えた。身長は私より少し低いぐらいで、頭から黒いフードのようなものをすっぽりと被っている。そのため輪郭がぼんやりと闇に溶けて見えた
少々不気味に感じた私は、道の片側にできるだけ身を寄せて相手とすれ違おうとした。黒いフードの人物は私の方を見ることも無く、そのまま横を通り過ぎて行くように思えた。
目の端から黒いフードが消え、安心して胸をなで下ろしそうになったとき、不意にうしろから「もし」という声が聞こえた。
一縷の望みを持って周囲を見回すが、残念ながら視界に入る限り私と相手以外誰も居ない。残念ながら「もし」の相手は私のようだ。
「随分なお荷物ですな」
また声が聞こえた。低く、少ししゃがれた男の声だ。
「ええ、まあ」
私は声のする方を向いてよいものかどうか判断しかねていた。古来よりこうした状況で振り向いてしまったがために、化け物に石にされたり喰われてしまった逸話には事欠かない。
「ご安心なさい。取って食ったりはしません」
私の心中を読んだのか、妙に丁寧な口調で相手は言った。しかしその言葉がより一層私の不安をかき立てる。さっさとここを後にした方が良いと、本能的に頭が警報を鳴らし始めた。
「すみません、先を急ぎますので」
私は早々に会話を終わらせて、その場を立ち去ろうとした。
「まあまあ、そう言わずに。もう少しお話しませんか」
粘っこいしゃがれ声が耳に纏わりついてくる。声は年老いた男のものだが、冨田のように穏やかで人を安心させるものではない。むしろ背中を枯れ枝で撫であげられる不快感を伴っていた。
「結構です」
私は荷物を持ち直すと、相手の制止を聞かずに一歩踏み出した。
その時、うしろから「シャラン」という鈴の音が聞こえた。
私は思わず、歩みを止めた。
途端に、道の先の、一番遠くに見える街灯が消えた。そしてそこから順番に他の街灯も次々に消えていき、まるで夜そのものがにじり寄ってくるかのようにして、私たちの周囲を闇が覆っていった。街灯が光を失うのと同時に、家の窓や軒先の灯りも消える。
いつの間にか私たち二人は、たった一本の街灯だけが投げかける、頼り無い光の円の中に閉じ込められてしまった。
蒸し暑かったはずの気温が、一気に10度も下がった気がする。
「これで逃げられませんよ」
耳のすぐ近くで、黒フードの男が囁いた。自分の背骨がきゅっと音を立てて引き延ばされるのを感じた。
「どういうつもりですか」
私はその人物に正面から向かい合っていた。先程の言葉に嘘は無かったらしく、相手の方を向いても彼は私を取って食おうとはしなかった。ただ深々と被ったフードが鼻先まで垂れているので、依然として顔色は全く窺えない。その上フードと同じ素材の真っ黒な服が全身をすっぽりと覆っているので、体の輪郭すらもあやふやであった。
「そうしゃちこばることはありませんよ」
フードの男はクククと笑った。
「ただ少し、あなたと遊んでみたかっただけです。見たところ、あなたはなかなか面白いものを持っているようだ。やはり、かの紅廊館の使用人は伊達ではないようですね」
どうやら相手は私の素性を見抜いているようだった。
「今から、ちょっとしたゲームをしましょう」
提案する彼の口調は軽いが、灯の輪に閉じ込められたこの状況では拒否することなど到底考えられなかった。
男はどこからか朱塗りの小さなお椀をとり出した。中には白っぽい豆が3粒入っている。
「今から私が手の中にこの豆を握ります。どちらの手に、何粒入っているか、正確に当ててください。3回成功すれば解放してあげましょう」
非常に簡単なルールだ。必要な相手を見る観察力と推理力、そして運。
「分かりました」
私は勝負を受けることにした。紅廊館の使用人という名を背負っている以上、こんなところで得体の知れないものに負ける訳にはいかない。
相手が何者であれ、立ち向かわなければ。
「それでは始めましょうか」
男はまず1粒だけつかみ、残りの2粒が入ったお椀を地面に置いた。
そして前へならえをするように、両手を握ったままつきだした。
「さあ、どちらに入っているか。当ててください」
手の中に豆は1つ。右か左か。
私は差し出された黒っぽい手をしばらく見比べた。よく見ると僅かに右の方が震えている。それだけ力んでいる証拠だ。ということは・・・
「右です」
「それでいいですか?」
男はいやらしい口調で問いかけた。
「はい、右です」
私はきっぱりと言った。
男はパッと両手を同時に開いた。右手から豆が落ち、カランと下に置かれていたお椀に入った。
「正解です」
あと2回だ。
2回目は豆を2粒に増やしての挑戦だった。しかしよく見ると両手が共にぷるぷると震えている。それに気付くと簡単だった。右と左に1つずつだ。
答えを言うとこれも正解だった。
3回目になると男は3粒の豆を手に1度に握りこんだ。
「どちらにいくつあるか、当ててください」
私は男がごそごそと両手の間で豆を動かすのを見つめていた。
「はい。それでは当ててください」
準備ができたらしく、男はまた両手を突き出した。
3粒もの豆を1度に握ろうとすると、流石に拳の大きさに差が出る。私はその違いを見極めて答えたつもりだった。
「左、3粒です」
答えを言うと、男はまた「それでいいですか?」と聞いた。
「はい」
ところが男はクククと不気味に笑うと、右手を開いた。
右手の上には白い豆が3つ乗っていた。
「えっ・・・」
意表を突かれ、私は言葉を失った。
「残念でしたね」
男は素早く右手引っ込めると、両手を揉み手するように握り合わせて言った。
「また最初から、やり直しですね」
それからは何度も何度も同じことが続いた2回目まではほぼ確実に当てられる。でも3回目だけがどうしても当たらない。
「またはずれですね。残念でした」
豆を1粒ずつお椀に落としながら、男はクククと笑った。
しかしその時、私は彼の言動に違和感を覚えた。何かがおかしい。このゲームはどこか、公正に行われていない部分がある。この違和感の根源にこそ、この不毛なゲームを突破する手がかりがあるはずだ。
それからは負けの決まっている勝負を何度も繰り返しながら、彼のこれまでの言動を頭の中で反復して考えた。
豆を手に取り、両手の中で動かして、どちらかもしくは両方の手で握り込む。相手が答えるのを待って、持っている側の手を開く。豆が落ちる。お椀に豆が当たるカランカランという音。いや、そうでないときもあった。手を開いてそのまま引っ込めて・・・
ふと、頭の中にある考えが生まれた。
「そうか・・・そういうことか」
私は小声で呟いた。
全て分かった。このゲームの仕掛けも、そして相手の正体も。
程なくしてその時は巡ってきた。
「さあ、これでまた3回目ですね」
男は嬉しそうに3粒の豆をまた握った。私はその様子をじっと見ていた。
「当ててください」
私は突き出された両手の内、迷わず右手を指さした。
「本当に良いんですか?もっとよく考えたほうがいいんじゃないですか?」
「いえ。右です」
「そうですか」
男は左手をそっと開いた。3粒の豆が確かにそこにあった。
「正解は左です。またダメでしたね」
男はクククと笑っていつものように左手を引っ込めようとした。
その瞬間、私は手を伸ばして相手の手首をがっちりと捕まえた。
「どうしたんですか?」
男の声に微かに動揺が混じった。
「負けは負けですよ?」
「本当にそうでしょうか」
私は手を握ったまま言った。
「じゃあ左手に握っている豆を一度、地面に落としてくれませんか」
男はフードの奥で黙ったまま、ピクリとも動かなかった。
「落とせないんでしょう?あなたは今左手に豆なんか持ってないんですから」
私は握っていた手をゆっくりと動かし、手の平を上に向けた。
白い丸が3つ、そこにあった。
「あなたが見せていたのは豆では無く、自分の肉球ですね」
私は空いていたもう片方の手で、相手の黒いフードをそっと捲った。
「ばれてしまいましたか」
分厚い布の下から現れた顔には、尖った鼻と丸い耳がついていた。
「久しぶりに良い遊び相手が見つかったと思ったのですが」
街灯の光に照らされたイタチは、クククと喉を鳴らして笑った。
「それで無事に帰ってこられたのですな」
冨田は私の話を面白そうに聞いていた。
「近頃はイタチに化かされる人も少なくなってきましたからな。妖の見えやすい人は逆に術中に嵌まりやすいのかもしれないですね」
「そうですね」
私にいかさまを看破されたイタチは、次の瞬間私の手をするりとすり抜け、どこかへ走って行ってしまった。
またどこか別の場所で人間を化かし続けるのだろうか。
「それにしてもよくイタチのいかさまを見破ることができましたな。どこで気付いたのですか?」
どうやら老人はそれを早く聞きたいらしい。
「彼は3粒の時だけいかさまをしていました。豆を持っている手を指されたときに、反対側の手にある自分の肉球を見せてごまかしていたんです」
「しかしそれでは、指された手に本当に豆を持っている場合には対応できないように思えるのですが」
「その時は肉球の間に豆を押し込んで落ちないようにしてから、手を下に向けて何も持っていないかのように見せていたんです。その時に反対側の手の肉球を見せればなお効果的です。そしてこの一連の動きを自然に見せるために、1粒、2粒の時もいちいち下に置いたお椀の中に豆を落としていたんです」
「とても明快な推理ですな。流石です」
冨田はそう言うと静かにお茶を啜った。
「紅廊館の主人として、誇らしい限りです」
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