第17話 モスマン
ある日、紅廊館の黒電話に1本の電話がかかってきた。
「はい。はい。なるほど、そういうことでしたら是非。はい。よろしくお願いいたします」
冨田はいつものように終始穏やかに会話を済ませると、静かに受話器を置いた。
「何かご用事ですか?」
「はい。なんでも私に鑑定を依頼したいとか」
「鑑定ですか」
確かに冨田は骨董品店の奥に座って壺や掛け軸を眺めていても十分通用しそうな見た目をしている、というか実際に似たようなことをしているが、人に頼まれて査定をしている印象はあまり無い。
「古物の知識に関しては私よりももっと優れた方がたくさんいらっしゃいますから」
老人はあくまで謙遜だ。
「今回鑑定を依頼されたのは、曰く付きの写真なのです。妖らしきものが写っているが本物かどうか知りたい、とおっしゃるので、お引き受けすることにしました」
「心霊写真ってことですか?」
「それはまだ分かりません。案外、コティングリー事件のような妖精の写真かもしれません。彼らは人間にいたずらをするのが好きですからな。たまに勝手に写り込んでしまって大騒ぎになることがあります」
妖を見慣れている私たちにとってその存在は当たり前のものとなっているが、いきなり写真に写ったりしたらきっと普通の人は肝を潰すだろう。
「ああいった写真の中には、実は本物もたくさんあるのですよ」
そういうわけで私たちは、その客人が持ってくる写真に写っているものに少し期待をしていた。
数日後の午後遅く、1人の男が紅廊館を訪れた。男は真夏であるにもかかわらず、 真っ黒なトレンチコートを着て、つばの広い帽子を被っていた。そして片手には小ぶりな革製のトランクを提げていた。
「ようこそいらっしゃいました。どうぞお入りください」
玄関で客人の到来を待っていた冨田は、和やかな笑みを浮かべたまま自ら男を近くの和室まで案内した。
「ありがとう」
男は低い、不機嫌そうにも聞こえる声で礼を言うと部屋までやってきた。そして軽く周りを見回した後、来客用の紫色に染められた座布団に座った。
しかしそれでも上着と帽子を取ろうとはしなかった。
「今日はお暑かったでしょう。上着をお預かりしましょうか」
「いいえ、このままで。お気遣いどうも」
男は静かに冨田の申し出を一蹴した。
「さようですか」
2人の男は座卓を挟んで向かい合った。そして私は少し離れた部屋の隅からその様子を見つめていた。
「それで」
しばしの沈黙の後、冨田が口を開いた。
「本日は私に鑑定してほしいものがある、ということでしたが」
「そうだ」
男は短く答えると、畳の上に置いたトランクの金具をパチンパチンと音をたてて開け、中からガサガサと何かをとりだした。
「これなのだが」
男が取りだしたのは油紙に包まれた3枚の白黒写真で、裏に書かれた日付はもう40年以上昔のものばかりだった。
「ここに写っているものについて、あなたのご意見を伺いたい」
「何が写っておるのですか?」
老人は目をしょぼしょぼさせながら、写真を目に近づけたり離したりしていた。どうやら思いの外、老眼が進んでいるらしい。
「この場にあるのは皆、モスマンに関係するものだ」
「ほう、モスマンですか」
モスマンは主にアメリカを中心に目撃される未確認生物の一種である。車で道を走っている時、突然前に飛んできたりしてドライバーを驚かせることで知られている。比較的最近の妖ということもあり、モスマンを写したとされる写真や映像はかなりたくさんあるらしい。
冨田は懐から拡大鏡を取り出し、写真をつぶさに観察した。
「そうだ」
嬉しそうに笑う彼の反応を見て、男は心なしか機嫌が良くなったようだった。
「しかし本物かと言われますと少々厳しいものがありますな。あなたもご覧になりますか」
冨田はそう言うと私がよく見える位置に写真を動かしてくれた。
最初に冨田が示した1枚は大きな鉄橋を片側の岸から撮ったものだった。
「ここだ」
男はひときわ高い柱の部分に指を置いた。
「このてっぺんにとまっているのが、モスマンだと言われている生き物だ」
目を凝らしてみると、確かに柱の先端に、翼と長い足を持つ人間のような形をしたものがいるのが、かろうじて見てとれた。
「ふーむ、これは」
虫眼鏡を覗く冨田の表情が、心なしか真剣なものになった。
しかしいくらもしないうちに、彼は顔を上げて言った。
「どうも、私は違うと思います」
「なに?」
男は彼の答えが気に入らなかったのか、その眉毛が震えるようにぴくぴくと動いた。
私は目の前に置かれている写真を、もう一度注視した。しかし、冨田が何を見てそう判断したのか、分からなかった。
「おそらくですがこれは、鵜の仲間でしょう」
「ウ?」
「はい、水鳥の鵜です。鵜の仲間は水に入った後、翼を広げて乾かす習性があります。おそらくこれは、その途中に撮られたものかと」
「だが、」
男はさらに食い下がった。
「鵜がどんな鳥かぐらいは私も知っているぞ。鵜の足はこんなに長くはない」
確かに翼の下の胴体に生えている足は、人間のそれと同じぐらい長く見える。
「そうですな。しかし、これは足ではないですから当然でしょう」
「足じゃない?じゃあ何だと言うんだ?」
「避雷針です」
冨田はきっぱりと言った。
「背の高い構造物の上には避雷針が設置されます。写真を見る限り、この橋の橋脚は近辺の建物の中でもかなり高い部類に入るものと思われますから、設置されていてもおかしくはありません。避雷針の上に羽根を広げた鵜がとまっている。それがこの写真の真相です」
彼の理路整然とした説明に、男は反論できないようだった。
「他におっしゃりたいことが無いのなら、次の写真を見せていただきます」
男が黙ったままなので、冨田は残っている写真のうち、1枚を取り上げた。
今度はどうやら家族の記念写真らしく、海を背に父、母、子供の3人が写っていた。後には観光客と思われる人々も行き交っている。そしてちょうど一番右側にいる父親の真上辺りに、飛行しているモスマンらしき黒いものがいた。
先程のものより距離が近いらしく、大きな翼と下半身にニュッと突き出た足に加え
顔の辺りに目のようなものすらうっすらとあるのが分かる。
「これも偽物ですな」
冨田は拡大鏡をほとんどかざした瞬間に言った。
「どうしてそう思う?」
「ここです。微妙に色が違っているのが分かりますか?」
指摘されて見てみると、確かに写っているモスマンと空との境界で微妙に色が変わっているところがあった。
「それがどうかしたのか?」
「これは影です」
顔を上げた老人の視線がきりりと引き締まるのが分かる。
「空を飛んでいるはずのモスマンの影が、空に落ちているのです。おかしくはありませんか」
影は壁や床などの平面に落ちるものだ。宙に浮かんでいるモスマンの影が、空間である空に映っているこの状況は明らかにおかしい。
「これではまるで、空が壁のような平面だということになってしまいます」
「どういうことだ?」
男はまた苛立ちを露わにし始めた。
「つまりこれは合成写真です」
「合成だと?」
「はい。おそらく普通の写真の上にモスマンの形を描いた紙を張り、それを丸ごともう一度写真に撮ったものです。この方法をアナログで行うとどうしても光の加減で境目に影ができてしまうのですが、これがまさにそれなのです」
こうして2枚目の写真も本物でないことが分かってしまった。
「それでは最後のものを見せていただきましょう」
3枚目は今までのものとは比べものにならないほど真に迫った写真だった。カメラの前で大きく羽根を広げた生き物が、まん丸に目を開いてこちらを見ている。
「これもまた真贋怪しいですな」
冨田は拡大鏡を使う前から既に判断を下しているようだった。
「そもそもこの写真は翼と顔しか写っていませんし、その上大きくぶれてしまっています。詳しいことは分かりませんが、おそらくフクロウか何かを接写したものではないかと思われます。従ってこれもモスマンではありません」
冨田は言い切って写真を置いた。
向かい側に座っている男の反応をさっきから見守っていた私は、彼がさぞかし怒り出すだろうと思った。
ところが2枚目の写真の真贋を判定したときには不機嫌そうに顔を歪めていた男は、今は寧ろ気分が良さそうだった。
「どうかされましたか?」
不審な空気を感じ取ったのか、冨田が聞いた。
「いやいや」
男は不敵に思える笑みさえ浮かべながら、こちらを見ている。私たちに向けられた視線には、なぜか軽蔑が含まれていた。
「妖や化け物に詳しい男がいると聞いてわざわざ来てみたが、この程度か」
掠れた声があざ笑うように言う。
「何が言いたいんですか?」
我慢できなくなった私は聞いた。
「いや、こんな簡単なことも分からないんだと。そう思っただけだよ」
「だから何が・・・」
彼を問いただそうとしたとき、冨田の手がすっと私を制した。
「分かっておりますよ。あなたのおっしゃりたいことは」
冨田は静かに言った。
「ほう。じゃあそれが何か言ってみろ」
男はまだ挑発的な態度を崩さない。
「問題があるのはこちらの写真ですな」
冨田は2枚目の家族写真を取り上げた。するとにやけていた男の頬がピクリと痙攣した。
「はっきり申しますと、これは素人目で見ても少し時間をかけて調べれば、すぐに合成だと分かるような代物です。ですがあなたは、あくまでも私に鑑定を依頼しました。なぜなのでしょうか。それは私のことを、本当にこの写真の真の意味が読み取れるか試していたからではないですか」
すっと人差し指を立てて、写真の中の一点にそっと触れる。
「モスマンはいわばミスディレクション。そして後の2枚の写真も適当に場をつなぐためのはったりです。あなたが本当に見て欲しかったのは。この写真のこの部分ではないですか?」
彼の指は家族のうしろを歩く一人の観光客を示していた。
画質が悪いが、つばの広い帽子と黒っぽいコートを纏い、手には小ぶりのトランクを提げているのがかろうじて分かる。
「あっ!」
私は思わずそれを目の前の男と見比べた。
「同じだ・・・」
まるで写真の中から出てきたかのように、写真の中の人物とこの怪しげな来客はそっくりだった。
「そして、この写真の撮られた年です」
白黒写真の裏に書かれている日付は40年以上も前のもの。しかし今私たちと対峙している男は写真と一切変わっていない。
「あなたはこのときから年をとっておられない。普通の人では考えられないことです。あなたが、妖でもない限りは」
冨田の静かな声がじんわりと部屋に広がる。対する男の顔に、もう笑みは浮かんでいなかった。
「あなたはおっしゃいましたね。私に電話をかけてきたとき、『曰く付きの写真を調べてくれ』と。本当はモスマン写真の真贋ではなく、この写真に写っている自分の姿を私が見抜けるかどうか。それを確かめたかったのではないですか」
男は黙ったままだ。
「それだけではありません。あなたはもう一つ、重要な手がかりを残していました」
冨田は続けた。
「写真を出したとき、『この場にあるのは皆、モスマンに関係するものだ』とあなたは言いました。『ここにあるのは』ではなく、『この場にあるのは』。少々不自然な言い回しです。しかし『この場にある』ものを写真に限定しなければ、自ずと答えを導き出すことができます」
冨田は男のほうをまっすぐに見据えて言った。
「あなた自身が、モスマンなのですね」
その後起きたことを、私はおそらく一生忘れないだろう。
冨田の言葉にその不気味な男はニヤリと笑った。
そして次の瞬間、彼がバラバラバラバラになった。まるで風によって岩が砂塵になっていく様子を何百倍速で見るように、男の顔が、体が、サラサラと細かい何かに変わって崩れていった。
彼の体を形作っていたのは、なんと無数の小さな蛾だったのだ。
一度部屋中に広がった彼らは、やがて微かにパタパタと音をたてながら障子の隙間から外へと出て行った。
「なるほど」
蛾が皆出ていったのを見届けると、老人はまた静かに呟いた。
「モスマン、日本語に訳すと蛾人間です。まさか蛾のような姿をした人間ではなく、蛾で形作られた人間とは。流石に私も思い至りませんでしたな」
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