第16話 テケテケ

「ねえ、ミッちゃん」

「どうしたの?ユーコ」

「やっぱり、東京の大学に行くの?」

「…うん」

 とある小さな町の片隅で交わされた会話である。

 真冬の午後5時。陽光が最後の一条まで地平線に没した頃だった。

 会話の主である2人の女子高生は、学校からの帰り道を歩いていた。

「山崎先生は今の成績なら大丈夫だって励ましてくれたし、頑張ってみようと思う」

 ミッちゃんと呼ばれた少女は薄茶色の雪に覆われた路面を見つめながら言った。

「そっか」

 ユーコは少し残念そうな顔をした。

「私はやっぱり、店を手伝わなきゃいけないみたい」

 ユーコの家は祖父母の代から続く『池谷食堂』という定食屋を営んでいた。近くに工場の密集している地域があり、そこの労働者たちが昼夜足を運ぶので大層繁盛している。そして常に人手を必要としていた。

「お父さんに何度か言ったんだけどね、やっぱりダメだって」

 ユーコの父親は近所でも評判の頑固者だった。その意固地な性格ゆえ、ユーコの母が嫁いできて店に立たなければ、彼の代で食堂は終わっていた、などと噂する者すらいたほどだ。

「だから私の分も勉強頑張ってね」

「うん、もちろん」

 友人の励ましと羨望が入り混じった言葉を受け、少女は大きく頷いた。

 それから2人の話はすぐに別の話題へと切り替わった。彼女たちの頭上を覆っている藍色の空は、刻一刻とその黒さを増していった。


「じゃあ、また明日ね」

 分かれ道まで来ると、少女はそう言ってユーコに手を振った。

「うん、また明日。バイバイ」

 少女の家はその道を右に曲がってすぐの所に、ユーコの家はもう少し先にある線路を渡った向こう側にある。ユーコが踏切に向かって歩き出すのを見送ると、少女も自分の家に向かって歩き出した。彼女の耳にはいつものように、単調に繰り返す踏切の鐘がカンカンカンという音が聞こえてきた。


 その日の夜遅く、少女は家の二階にある自室で勉強をしていた。受験まであと2ヶ月も無い。志望校に合格するための最後の頑張り時だった。そういう訳で彼女は、階下で突如電話が鳴り響いたことにも、それに応答する母親の声にも特に関心を示さなかった。

 電話を終えたらしい母親はゆっくり階段を上がってくると、いきなり襖を開けて少女の部屋に入ってきた。

「お母さん、入る時は声かけてって言ってるでしょ」

 机の方を向いたまま抗議する彼女の声も聞こえないかのように、母親は黙ってそこに立ち尽くしていた。

「ねえ、どうしたの?」

 母親の様子に違和感を覚えた少女は振り向いて聞いた。

「今、池谷さんから電話があったの、あのね」

 母親はそこで言葉に詰まった。僅かに声が震えている。

「お母さん、どうしたの?何かあったの?」

「あのね」

 母親は同じ言葉を繰り返すと、大きく息を吸い込んだ。

 そして言った。

「ユーコちゃんが、列車に轢かれたって」


 誰が置いたのか、踏切の端にはもう花束が供えられていた。きっとこれからもっと増えていくのだろう。

 ユーコこと池谷裕子の訃報は小さな町を瞬く間に駆け巡った。口から口、電話から電話、戸口から戸口へ。近くの踏切で撥ねられたらしい。列車はブレーキをかけていなかった。足を滑らせて線路で転けたから。いや、実は自殺じゃなかったのか。池谷食堂の頑固親父とは元々反りが合っていなかったから。やっぱり店を継ぐのが嫌だったのかねえ…

 町中に渦巻くそんな噂から顔を背けるようにして、少女はただ1人、踏切の前に立ち尽くしていた。お互いの家を行き来することもあれば、家族で池谷食堂に食事をしに行くこともあった。その時に何度も渡った踏切を、まさかこんな形で訪れることになるとは。少女は、涙すら出なかった。ツンと尖った風に頬を撫でられながら、ただ今日も同じように沈んでいく夕陽を浴びる遮断機を見つめていた。

やがて少女は、家に帰ろうと踵を返した。

 どれだけここに立っていても、ユー子が帰ってくる訳でも無い。現実を受け入れるために半ば強引に、体と意識をそこから引きはがそうとしたのだ。

 その時、彼女はまだ気づいていなかった。

 自分の後ろを、微かにカサカサという音を立てながら追いかけてくるものがいることを。


「…はぁ」

 机の前で少女は溜息をついた。

 やはりこんな状況で勉強になど集中できるはずがない。さっきからもう一時間以上、問題集は同じページを開いたままだし、ノートも五行しか進んでいない。

(私の分も勉強頑張ってね)

 ユーコの声が頭の中にこだまする。

 何度も、何度も、何度も。

「分かってるよ、分かってるけどさ」

 何も死ぬことないじゃん。

 なんでよりにもよってユーコなんだろう。

 ペンを握り直して必死に問題集に意識を向けてみたが、またすぐにくじけてしまった。

 自分の中の何か大事なものがすっぽり抜け落ちてしまったような感覚を、彼女は味わっていた。このまま受験して、大学行って。果たして意味があるのだろうか。

 いや、もうそもそも自分が生きている意味だって、今はあるのかどうかすら分からない。そんなことすら考えてしまう。

「あー…もうやめよ」

 少女は椅子から飛び降りて、床に横になった。カーペットの細かい繊維がちくちくと顔を刺すのも構わず、全身を床と平行にひっつける。

「…はぁ」

 今日何度目になるか分からない溜息が漏れた。ごろりと体を反転させて仰向けになる。一度その体勢になると、もう起き上がって勉強しようという気は無くなってしまった。疲れがどっと出て、そのまま彼女は眠りへといざなわれていった。


 どのくらい経っただろうか。

 少女は突然、目を覚ました。

 寝ている間に母が来たのだろう。いつの間にか部屋の電気は消され、体に毛布がかけられていた。ここで体調を壊しては受験に差し障ると思った彼女は、暗闇の中手探りで押入れを開け、敷き布団を引きずり出そうとした。

 その時ふと、誰かに見られているような気がした。何気なく振り返った彼女の視線は部屋の一点に吸い寄せられ、その顔はみるみるうちに真っ青になった。

 少女が見ていたのは、窓にかかったカーテンの隙間だった。

 そして、カーテンの隙間も彼女を見ていた。

「・・・っ!」

 少女は息を飲んだ。彼女がいる部屋は二階。窓から外を見ても、そこにあるのは家々の屋根ばかりである。ところが普通なら絶対にあるはずのない場所に人間の顔があったのだ。

 僅か五センチばかり開いた隙間に、白っぽい人間の顔が覗いている。ガラスにほとんど押しつけられるように近づき、目をほとんどまん丸になるまで見開いている。そしてその目の中から赤い液体が溢れたかと思うと、異常に白い頬の上をつーっと流れていった。

「きゃぁぁぁぁぁぁぁあああああ!」

 彼女は叫んでしゃがみ込んだ。

「どうしたの!」

 彼女の悲鳴を聞いて飛んで来た母親が襖を開けたとき、そこには床にうずくまって泣いている娘しかいなかった。ガクガクと震える指で彼女が指す先を見ても、ただカーテンが揺れているだけだった。日頃そこまで動揺を露わにしない娘だけにただ事ではないと思った母親は、窓を開けて外を見回した。しかし夜分のことで視界が悪く、怪しいものが見えるはずもない。ただ窓を閉めようとしたとき、どこかで誰かが走っているような、テケテケテケ・・・という音が風に乗って微かに聞こえてきたという。


 長い夜を越え、朝がやってきた。恐怖のあまり眠れなかった少女だったが、あったことをなるだけ早く忘れてしまいたかったので、母親が止めるのも聞かずに学校に行った。しかし授業中も休み時間も脳裏をよぎるのは、昨夜窓に現れた白い顔のことばかりであった。夜中にあんなものを見てしまえば誰だって一生続くようなトラウマを植え付けられてしまうだろう。

しかし少女は同時に別の恐ろしさも感じていた。

窓から覗いたあの顔を、自分は知っている。しかも今まで何度も見て親しんだ顔だ。

ただそれを認めてしまったら…

「嫌だ、そんなはずない!」

彼女は頭を抱えて机に突っ伏した。自分が見たものをどうしても認められなかった。いや、認めたくなかったのだ。

ガラスに張り付いていたのは、紛れもなくユーコの顔であったことを。

「ねえ、大丈夫?体調悪いの?」

 彼女の様子を見て、隣の席のマユミが心配そうに声をかけた。

「え、ああ、うん。大丈夫。気にしないで」

「ねえ。ミッちゃん」

「何?」

「その、ユーコのこと。やっぱり悲しいよね」

 マユミはそう言って、未だに空席のまま残されているユーコの机に目をやった。クラスメイトたちはついこの間まで隣にいた人間の死を受け入れたくないのか、誰もそこに近寄ろうとせず、極力話題に出すのも避けているようだった。そのため、会話そのものが少なく、どこか居心地の悪い空気が常に全体を覆っていた。

「うん」

「そういえば、知ってた?」

 マユミが言った。

「ユーコね、事故の前にお父さんと大喧嘩したんだって」

「うん、知ってる」

 彼女たちが通っているのは片田舎の公立高校とはいえど、卒業後の進路は都会に出て大学に行くのが主流だ。しかしそんな中、ユーコの父親は頑なに娘の大学進学に反対していたのだという。事故の当夜も父娘の間で言い合いになり、耐えられなくなったユーコが家を飛びだした。怒りに満ちた彼女の耳には、甲高い踏み切りの鐘すら聞こえなかった。

「お父さん、寝込んでるらしいよ」

 池谷食堂は今も臨時休業中で、ユーコの葬儀が終わった後も再開の目処が立っていないという。一人の女子高生の死は、小さな町のいろいろなところに暗い影を投げかけ続けていた。


 図書室で勉強をしていたらまたこんな時間になってしまった。下校時間を知らせるチャイムを背中で聞きながら、少女はすっかり暗くなった道を歩いていた。できるだけ明るい内に帰るつもりだったのだが、少しでも昨晩のことを頭から振り払おうと問題集と向かい合っている内に、いつの間にか下校時間ぎりぎりになってしまった。

 ユーコと最後に話した帰り道を一人で歩くと、少女は胸が締め付けられるような気がした。あれが最後だと分かっていたら、ユーコの励ましの裏にある羨望や不満にも気付いてあげることができたのではないか。無駄だと分かっていても、彼女の頭の中はそんなことで一杯になった。

 その時。

 テケテケテケテケ。

 どこからか、あの不吉な音が聞こえてきた。

 少女は振り返った。

 しかし、そこには依然として黒く長い道路が横たわっているのみである。

 ところが、今度は反対側からテケテケテケテケ、と聞こえてきた。

「な、何?」

 テケテケテケテケ、テケテケテケテケ、テケテケテケテケ。

 少女は走り出した。家に向かって一目散に走る。

 テケテケテケテケ、テケテケテケテケ、テケテケテケテケ。

 しかし足音はどこまでもついてくる。

 テケテケテケテケテケ、テケテケテケテケ、テケテケテケテケテケ、テケテケテケテケ、テケテケテケテケテケ、テケテケテケテケ、テケテケテケテケテケ、テケテケテケテケ、テケテケテケテケテケ、テケテケテケテケ、テケテケテケテケテケ、テケテケテケテケ。

「いやっ!来ないで!」

 ひた走る少女の耳には今や、四方八方から不気味な足音が響いていた。

 テケテケテケテケテケ、テケテケテケテケ、テケテケテケテケテケ、テケテケテケテケ、テケテケテケテケテケ、テケテケテケテケ、テケテケテケテケテケ、テケテケテケテケ、テケテケテケテケテケ、テケテケテケテケ、テケテケテケテケテケ、テケテケテケテケ、テケテケテケテケテケ、テケテケテケテケ、テケテケテケテケテケ、テケテケテケテケ、テケテケテケテケテケ、テケテケテケテケ、テケテケテケテケテケ、テケテケテケテケ、テケテケテケテケテケ、テケテケテケテケ、テケテケテケテケテケ、テケテケテケテケ。

 ハアハアと息を切らせながら、少女はようやく家の近くの分かれ道までやってきた。後少し。とにかく家をめがけて走っていた彼女は、突然足を止めた。

 分かれ道の真ん中に、黒いものがうずくまっている。

 いつの間にか、そこらじゅうから聞こえていた足音は止んでいた。代わりに訪れた不気味な静寂の中、少女はその場にピンで留められたように動かなかった。

 黒いものがゆっくりと動いた。ぼんやりとした塊だったものから細い腕が二本飛びだす。ぎこちない動きで指が地面をひっかく。そしてじりじりと、少女の方に這いずってきた。少女はつま先から頭の先まで寒気が駆け抜けるのを感じた。逃げなければ、と頭では思うのだが、足裏が地面に吸い付けられたように動かない。

 黒い塊がさらににじり寄ってきて、その形がはっきりと見えはじめた。振り乱した長い髪が前に垂れているので顔は見えない。ただここまで距離が近づく、と一目で分かることがあった。

 この塊には、足がない。だから腕を使って這いずり回っているのだ。

 腰の上辺りで胴体が切断されているらしく、肉とアスファルトが擦れ合うズリ、ズリという音が嫌でも耳に入る。少女はその事実に気付いたとき猛烈な吐き気に襲われたが、それでもなお動くことができなかった。彼女の足先一メートル以内まで接近してきたそれは、突然動きを止めた。そして黒い髪に覆われた顔とおぼしきものを上に向けた。髪の間から血走った目と青白い肌が現れる。そして枯れ木が風で軋むような虚ろな声とも音ともつかぬものを発した。

「・・・ミッ・・・チャン・・・」

 それまで感じなかった死臭が一気に少女の鼻腔に流れ込んだ。なまじその正体が分かってしまったばかりに、吐き気と共に込み上げてくる嫌悪感が倍増する。

「ユ、ユーコ・・・?」

 掠れるような声で、少女は答えた。怖いはずなのに目が閉じない。それどころか彼女はこれ以上無いぐらいに目を見開いて、変わり果てた友人を見下ろしていた。

「・・・なんで」

 こんな姿に、と言おうとした彼女の言葉は途中で遮られた。足元のユーコ、だったものが腕をバネのようにして飛び上がり、襲いかかってきたからだ。

「きゃあ!」

 その時さっきまで動かなかった体に突然自由が戻り、少女はぐらついて尻餅をついた。無駄とは分かっていても反射的に顔を腕で覆ってしまう。 

 ところがいつまで経っても、何も起きない。

 少女がそろそろと腕を降ろすと、そこでは予想外の光景が展開されていた。

 

 少女の顔のすぐ近く、三十センチほどのところにユーコだったものが空中で静止していた。そしてその額には、節くれ立った二本の指が当てられている。額と指がぶつかり合っているところからは白っぽい光が発生していた。

「嫌な気配を感じて降りてみれば、こんなものに巡り会うとは」

 指の主は言った。少女が見あげると、そこには壮年の男性が立っていた。夕闇に紛れてしまいそうな銀鼠の着物を身に纏っている。

「ひとまずここは、退散していただきましょう」

 彼はそういうと指先に力を込めた。光がいっそう輝きを増し、ユーコの上半身が勢いよく後に吹っ飛ぶ。

 テケテケテケテケテケ。足音が遠のいていく。

「これで終わりではありませんが、とりえず一安心、といったところですな」

 男はそこで初めて足元に座り込んでいる少女に目をやった。

「ほら、腰を抜かしている場合ではありませんよ」

 彼は手を差し伸べた。

「・・・ありがとう、ございます」

 少女はその手を掴んで立ち上がった。この短時間の間、自分の身に起こっていることに頭がついていかなかった。ただ分かるのは、一時的ではあるにしろ目前の脅威が去った、ということだけである。

「あなたも面倒なものに憑かれてしまいましたな」

 男は幾らか憐憫を含んだ目で、彼女を見た。


「ようこそお越しくださいました。なにぶん田舎ですのでたいしたものはございませんが、どうぞごゆっくりしていってください」

 女将は満面の笑みを浮かべて貴重な来客を迎えた。

 少女はやや気まずさを感じながら、女将の案内に従って廊下を進む男の後を歩いていた。狭い町のことなので、この宿の女将とも彼女は知り合いだった。それが突然よそ者の男と共に訪れたともあれば、この後いろいろと変な噂が広がるのはまず間違いないだろう。

 そもそも男が「この辺りに良い宿屋はありませんか。そこの駅でふらっと降りたばかりなので、まだ自分がどこに居るのかも満足に分かっていないのですよ」などと言い出さなければこんなことにはならなかったのだ。少女が一人困っている旅人(それにしては端々に余裕の見え隠れする態度ではあったが)を放っておけるはずが無いと見抜かれていたのか、なし崩しで彼女は町で一軒だけ営業しているこの旅館に男を案内してきたのだ。

 しかし今の少女にとって、すがれるものがもはや目の前の男しかいないというのもまた事実であった。ユーコへの対応を見るに、彼はこうした事態に相当精通していると考えられる。このまままた怯えた夜を過ごすくらいなら、いっそこのどこの馬の骨とも分からぬ男に信頼を委ねてみるのも手だと、少なくともその時の彼女には感じられた。実際前を歩く彼の背中は、先程の勇姿も相まってとても大きく感じられた。

「こちらのお部屋になります。お食事は後でお部屋まで運ばせて頂きます。どうぞそれまでごゆっくり」

 愛想の良い笑顔を絶やさない女将の顔は、襖の向こうに消えていった。その足音が廊下を遠のいていくのを聞きながら、二人は部屋の真ん中に置かれた座卓を挟んで向かい合った。

「さて」

 先に男の方が口を開いた。

「それでは今あなたの身に起こっていることについて、お話を聞かせていただけますかな」

 男はそう言いながら懐からペンと帳面を取りだして構えた。

「・・・その前に」

 少女は見知らぬ男性と一つ部屋に入ってしまったことを今更後悔し始めたのか、そわそわと膝を動かしながら切り出した。

「どうかされましたか?」

「あなたは、一体何者なんですか?」

「私ですか?」

 意表を突かれたのか、男の目が驚いたように見開かれた。

「なぜそのようなことを」

「だって・・・」

 少女は素性の分からない男と同じ部屋に居るのは嫌だと言うこと、そして後で両親に言い訳をするときに変な説明ができないことを話した。

「なるほど。私の気遣いが足りていなかったようですな。申し訳ない」

 男は謝った。

「いえ、そんな」

「しかし、私が何者かと問われますと・・・」

 男は自分について語るのは余り好きではないらしく、帳面の表紙をペンで何度も叩きながら視線を空中に泳がせた。

「さしずめ研究者、といったところですかな」

「研究者?」

 少女はまた眉をひそめた。目の前の着物姿の男は、少女が抱えていた研究者のイメージとは大きく乖離していた。

「そうですな、はい。研究者です」

 男は同じ言葉を反芻するものの、どこか歯切れが悪い。

「ご専門は?」

「妖です」

「アヤカシ?」 

「はい。妖怪と言った方が、お嬢さんには分かりやすいですかな」

「ようかい・・・」

 少女の頭の中では瞬時に研究者と妖怪が結びつかなかったのか、眉間に皺を寄せ、不審なものを見るような顔をしている。

「妖怪の何を研究するんですか?」

「そうですな。現在は各地方に伝わる民話や伝承を収集し、全国規模の妖怪生息地図を作っています」

「生息地図・・・」

 まるで実際に妖怪がいて、日本に生息しているかのような口ぶりだ。

「もちろんいますよ」

 少女が問うと、男は涼しい顔をして答えた。

「あなたがさっき見たのも、それに近いものですよ」

「でも、あれは」

 少女の友達のユーコ、だったものだ。あの夜列車に轢かれるまでは。

「なるほど、ご友人でしたか。それであなたに憑いているのですな」

 男は帳面を開いてペンを走らせながら言った。

「憑いてるって」

「そうではないのですか?あなたの様子を見るに、下半身の無いご友人に遭遇するのは今日が初めてではないでしょう」

 彼は全てを見透かしたような口ぶりだ。

「確かにそう、ですけど」

 しかし少女はユーコのあの姿を見ても、まだ友人が人あらざる何かに変わったということを信じたくなかった。

「列車事故の本当の怖さを、お嬢さんはご存じですか?」

 男は帳面から目を上げた。

「いえ」

「列車に轢かれると、その瞬間に死亡すると考えておられる方がおられるようですが、残念ながら現実はそれほど甘くはありません」

 右手に持っているペンを列車に見立てて、左手にぶつけるようなジェスチャーをした。

「最悪の場合、意識が残ったまま体がバラバラになり、とてつもない痛みに苦しみながら死ぬことになるのです」

 特に大きな抑揚をつけることもなくさらっと恐ろしいことを言った。

 考えただけでも心臓がギュッと痛くなった少女は、膝の上に置いた手を強く握りしめた。

「ユーコさんは死ぬ直前、激しい未練を抱えていたのではないですか」

 思い当たる節は大いにあった。

「はい。本当は大学に進学したかったのに、親の反対で諦めざるをえなかったんです。一度決まってからは本人はあまり気にしてない風だったんですけど、本当は相当我慢していたんだと思います」 

 明るくふるまっていたユーコの顔を思い出しながら少女は言った。

「おそらく列車に轢かれて肉体的な死が訪れたのをきっかけとして、ユーコさんの内に蓄積していた未練が彼女を妖に変えたのでしょう」

「ユーコが、妖に」

 事故のにあう前の彼女の笑顔を思い出しながら、少女は涙ぐんだ。

「もうあの子を、ユーコを助ける方法は無いんでしょうか?」

「助ける、とは?」

「それは・・・」

 もう一度妖から人間の姿に戻すこと、だろうか。

「しかし彼女の肉体は既に火葬に回されているでしょう。彼女を人間として蘇らせる方法はもう残されていません。死は不可逆ですから」

 男は残酷な事実を何のためらいもなく言い放った。

「やめてください、そんな言い方!」

 少女は座卓の天板をバン、と叩いて叫んだ。

「ユーコはまだ死にたくなんてなかったんです!私だってユーコと離れたくなかった。ユーコはずっと私の友達だから。だから」

「ではあなたはなぜ、あの時ユーコさんから逃げておられたのですか」

 よく研いだ刃物のような男の言葉が少女の心を貫いた。

 彼女は思い出したのだ。先程ユーコが迫ってきた時、彼女は嫌と叫んでそれを思い切り拒否したことを。女子高生ではなく、人間ですらない何かに変貌した友人を受け入れることを生理的に拒んでしまった。

「あなたも、もう分かっておられるでしょう。どんな手を尽くしたって、ご友人は元には戻らないということを」

 茶を啜る音が8畳の和室に響く。

 少女はずっとおし黙ったままだったが、やがてそろそろと口を開いた。

「でも、あんな姿でいつまでも彷徨うなんてかわいそうです。私の大事な友達だったのに・・・」

「もちろんです」

 湯飲みを置いて男は言った。

「だからこそ、私はこうしてあなたの話を聞いているのです」

「あなたに、何かできるんですか」

「おそらくは」

 男はすっと人差し指を立てた。

「ただしそれには、お嬢さんの助けが必要です。ご友人のためにも協力していただけますか?」

 それを拒否する理由も勇気も、彼女には無かった。


「そうですか。ここでユーコさんが」

 男は踏み切りの脇に供えられた花に向かって手を合わせた。

 時刻は間もなく午前0時。旅館から一度家に帰った少女は、両親が寝静まるのを待って再び抜け出してきたのである。

 雪こそ降っていないもの、張り詰めたような冷たい空気が二人を包む。

「今晩中にカタがつけば良いのですが」

 男は古式ゆかしい懐中時計を取りだして眺めていた。

「あの」

 彼の隣に並んで立っていた少女は言った。先程から手を寒そうに擦り合わせている。

「あなたは、いつもこんなことをしているんですか?」

「こんなこと、とは」

「その、なんて言ったらいいんだろう。除霊?」

「除霊はあまりしませんな」

 懐中時計をしまって彼は少女の顔を見た。

「先程も申しました通り、私の専門は妖怪ですから。霊媒師やイタコではありません」

「でも、さっきは魔法みたいなことを」

 ユーコを退けたときの白い光のことを少女は思いだしていた。

「あんなもの、少し修行を積めば誰にでも習得できますよ」

 男は自嘲気味に言った。

「じゃあ、妖怪退治ですか?」

「退治、でもないですな。私は妖怪が大好きですから」

 その時、彼らの後を電車が派手な音を立てて通過した。まもなく終電だ。

「ただ妖と人間の関係と言いますか、その距離感を調整している、というのが一番近いのかもしれません」

「距離感?」

「はい。人間には人間の暮らす領域があり、妖には妖の暮らす領域があるのです。そしてその二つは複雑に入り交じっており、時として重複したりぶつかったりします。その時に発生する人間と妖の衝突を止め、両者にとっての最善の結論が出せるよう手助けするのが私の役割だと、勝手ながら思っております」

「なんだか難しそうですね」

「そうですな。時として、人間も妖も傷つかざるをえない結果になってしまうこともあるのですが、そうしたときにはやはり無力感を覚えますな」

「傷つく・・・」

 少女はこれから対面する予定の友人を案じた。

「ユーコの場合は、どうなんですな」

「そうですな。非常に難しいですが、一つ答えは出ています」

 その時、二人の耳にあのテケテケテケテケ、という音が聞こえてきた。

「来たっ」

「来ましたな」

 男は少女を自分の背中に庇いながら周囲を見回した。

「彼女の姿が見えますか?」

「見えないです!」

 その間にも足音は続き、だんだんと大きくなっていった。

「近づいてきた!」

「落ち着いてください」

 男は目を閉じて、ゆっくりを首を左右に振った。

 そして。

「そこですね!」

 暗闇の一点に手を伸ばした。 

 ギャアともグエともつかぬ声がして、男の手に生ぬるい塊が飛び込んだ。

 それを骨張った指ががっちりと捕らえる。

「捕まえましたよ」

 少女が見ると、男は両手を広げ、それぞれの手で何かを掴んでいた。

「ユ、ユーコ!」

 そこで初めて、少女は友人の変わり果てた姿をまざまざと見ることになった。

 街灯に照らされたユーコの上半身は、両手を男に捕まれてもなお、彼に飛びかかろうとするように、その半身を空中でくねらせていた。

「ユーコさん」

 男は眼前に迫った亡者の目をしっかりと見つめながら言った。

「もう、こんなことはおやめなさい」

「ミッ・・・チャン、ミッチャ・・・ン」

 宙で悶えながらユーコは友人の名を呼んだ。

「ユーコ・・・」

 しかし真っ赤に充血したユーコの目はもう生の輝きを失っていた。ただ機械的に近くにいる少女の名を繰り返すだけだ。

「あなたは、もう死んだのです」 

 男は静かに言った。

「これ以上生者を煩わすのはおやめなさい」

 踏み切りの鐘が光り、男も周囲の雪も、断続的に赤く染まる。まるで飛散した血しぶきのように。

 その中で少女は見た。血ではない透明のしずくが一筋、真っ赤なユーコの頬を流れていくのを。

「お別れです」

 男は言うと、全身で振りかぶって掴んでいたものを投げ飛ばした。

 ユーコの半身は勢いよく遮断機を飛び越え線路の上に落ちた。





 そして最終電車が轟音と共に上を通過した。






 翌日は土曜日だったが、少女は朝早く起きて踏切に行った。

 そこには昨日のことを思い出させるものは何も残っていなかった。ただいつもと同じように、献花の上に白い霜が降りているだけだ。

「大丈夫ですか?」

 後から声をかけられて振り向くと、あの男が立っていた。

「はい、なんとか」

 目の前で何が起こったのか、彼女は未だによく分かっていなかった。

「我々がどう行動したところで、ユーコさんの未練を晴らすことはできません。そこで『列車に轢かれた』という事実を彼女に再確認させることにより、彼女に死を受け入れさせ、また同時に生を諦めさせたのです」

 その為に男は踏み切りの側を選んだのだ。

「しかし、あなたのご友人に対しては手荒なことをしてしまいました。心よりお詫び申し上げます」

 男は少女に頭を下げた。

「いえ。あなたが来てくださったから、私は助かったんです。もし私一人だけだったら、ユーコも私もずっと苦しみ続けるばかりだったと思います」

 最終的にユーコという存在は消滅してしまったが、この場合はそれが最善の解決策だったのだと、少女は思った。

「それを聞いて安心しました。私が言うのもなんですが、あなたはきっと乗り越えられると思っております」

 男はそう言うと荷物を持って立ち去ろうとした。

「もう、行ってしまうんですか?」

「元々私はこの先にある村に用事があったのです。先方をお待たせしておりますから、できるだけ早く行かなければ」

「ちょっと待ってください」

 少女はなお彼を引き留めた。

「なんですか?」

「まだ、あなたのお名前を聞いてません。せっかくの恩人の名前も知らないままなんて、私はいやです」

「名前、ですか?」

 男は少し困った顔をした。

「そうですな。別に名乗るような大層な名前はありません。それより私の方こそ、まだお嬢さんのお名前を存じておりませんが」

「あっ」

 少女は自分が名乗ってないことに今の今まで気付いていないようだった。

「ごめんなさい。すっかり忘れてました」

 彼女はばつが悪そうに言った。

「私、道長悦子って言います。友達にはなぜか名字からとってミッちゃんって言われるんですけど・・・」

「悦子さん、ですか」

 男はその名前を反芻するように繰り返した。

「良いお名前ですね」

「ありがとうございます」

「しかしあなたに名乗られたのなら、私も言わない訳にはいきませんな。本当になんてことはない名前なのですが。」

 彼は少し恥ずかしそうに頭を掻いた。

「私の名前は、冨田と申します」




 小さな町の片隅で出会ったこの二人は将来再会することになるのだが、それはまだずっと先の話である。

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