第15話 死の島
都会の真ん中に佇む紅廊館。その二階には現在私が寝起きしている部屋があるわけだが、その手前、一階から階段を上がってから部屋にたどり着くまでの間に、短い廊下がある。廊下の右側には私の部屋があり、左側は庭が一望できるガラス窓になっている。そして正面突き当たりの壁には、一枚の絵が掛けられていた。
全体的に暗いトーンの絵で、中心には島が描かれている。白っぽい岩壁と、黒いイトスギの木立との対比が何とも言えない不気味さを醸し出している。背景の濃密な紺色も、吸い込まれそうになるほど鮮やかだ。そして白い小舟が、島の手前に浮かんでいる。
「アルノルト・ベックリンは素晴らしい画家です」
冨田は絵を見ながら言った。
「死という概念の持つ不気味さと恐ろしさ、そして美しさを一枚の絵で表現しているのです」
「死の持つ、美しさですか」
私は未だかつて、死が美しいものだと感じたことは無い。
「そう。死は深い眠り、永遠の安楽です。ほら、ここをごらんなさい」
冨田は島の岩壁にいくつも口を開けている四角い穴を示した。
「これらは皆死者の眠るお墓です。舟で島まで運ばれた彼らは、ここで永い眠りにつくのです。誰にも邪魔のされない、静謐な空間で」
外界からほとんど隔離された静謐な空間と言えば、この紅廊館にも似たようなものを感じる。
「実際、そうなのかもしれませんな」
私の考えを話すと、冨田は頷いた。
「妖と死とは切っても切り離せないものです。死という過程を経て、妖になるものたくさんいます。もしかした死の島にも、そういった妖がたくさんいるのかも知れません」
その日の夜、自分の部屋で寝ていた私はふと目を覚ました。誰かに呼ばれた気がしたのだ。冨田が呼んだのかも知れないと思い、耳をそばだてる。しかし誰の声も聞こえなかった。
その代わり、どこからかぴちゃん、ぴちゃん、という水音が聞こえてきた。
「雨・・・?」
なにせここは古い建物なので、雨漏りぐらいはすることもあるだろう。その間にもぴちゃん、ぴちゃんという音は続いている。しかしそれは雨粒が落ちる音というよりも、水面に何か固いものをぶつけたときに出るそれに近かった。私は音の正体が知りたくなり、布団から起き上がると部屋の襖をそっと開けた。
向かい側にガラス窓が見えたが、その後ろは真っ白だった。戸の隙間から覗いている自分の顔だけが映っている。私は部屋を出るとガラスに顔を近づけた。ミルクのように濃い霧が窓の外でうねっている。いつも見えるはずの日本庭園はまったく見えない。
ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん。
音はやはり外から聞こえてくるようだ。しかもさっきより大きくなった気がする。縁側に出れば何か分かるだろうか。
私は一段一段気をつけながら階段を降りて、縁側へと向かった。
障子を開けると、霧がどっと流れ込んできた。いくらか水分を含んだ冷気が頬に纏わり付いてくる。これでは何も分からないので、とりあえず庭に出ようと思った私は、いつも下駄が置いてある辺りの地面に足を下ろそうとした。
ぼちゃん。
さっき二階で聞いていたよりも低い音がして、私の右足はずぶ濡れになった。
「水?」
私は縁側の縁にしゃがみ込むと、その下に今度は恐る恐る手を伸ばした。いつもなら地面があるあたりの高さのところで、指先が冷たいものに触れる。思い切ってさらに深く突っ込むと妙に粘着質な水が手を包んだ。
その時、一陣の風が私の周囲の霧をふわりとはねのけた。縁側の向こうにいつもの庭は無く、その代わり黒々とした鏡のような水面が広がっていた。
「どうして・・・」
紅廊館が突然大海原のど真ん中に移動したのだろうか。起きている出来事を真面目に受け止めようとすればするほど、意味が分からなくなっていく。
その時、さっきのちゃぷん、ちゃぷんという音がまた聞こえてきた。海の向こうを見据えると、霧の中にぼんやりと小さな光が浮かび上がっているのが見える。そしてそれは音と共に段々近づいてきた。
ちゃぷん、ちゃぷん、ちゃぷん。
やがて光源の主が姿を現した。ボートの舳先に吊り下げられたカンテラだ。舟が動く度、中の炎が頼りなく揺れる。
ゴンドラのように反り返った船首の奥に、二つの影が見えた。
私から見て手前に座っているのは黒い服を着た男だった。顔が見えなくなるほど髭をぼうぼうに伸ばしている。そのごつごつした両手にオールがしっかりと握られているところを見ると、どうやら彼がボートの漕ぎ手のようだった。
一方奥にいるのは全身に白い布を纏った、男と女ともつかない人物だった。舟が波に合わせてゆらゆらと揺れているにも関わらず、全くの直立不動を保ったまま舟の中心辺りに陣取っている。
小舟は舳先で水を切りながら縁側のすぐ近くまで流れてきた。舟が停まると、髭もじゃの男が顔を上げてこちらを見た。そのとき初めて、髭の奥に鈍く光る、黄色い目が見えた。
「乗らねえのか?」
出し抜けに男は言った。
私はどう答えたら良いのか分からず、黙っていた。
「乗らねえのか、って聞いてんだよ。あんた」
男がもう一度言った。がらがら声はさっきより少し苛立ちを含んでいる気がする。
「乗る・・・と言われましても」
まだ状況が飲み込めず、まごまごしている私を、男はじっと見つめた。
「なんだあんた、生きてるじゃないか」
「えっ」
当然と言えば当然なことを言われ、私は面食らった。
「おい、誰だよ。ここに死人がいるって言ったのは」
男は舟の上に立ったままの白服めがけて悪態をついた。しかしその人物は何も答えようとしない。
「ったく、無駄骨だぜ。でもおかしいな。確かにこっちに死の匂いはしてたんだがな」
それは多分、ここが紅廊館だからだろう。それよりも私はこの二人組に、妙な既視感を覚えることが気になっていた。
「まあいいや。死人もいねえなら帰るぜ。早く帰って休みてえんだ」
男は鼻を鳴らすと、またオールを握り直してボートをこぎ始めようとした。
「ちょっと待ってください」
私は思わず彼を呼び止めた。
「あ?」
「あの、帰るってどこへですか?」
「・・・俺たちの帰る場所は、一つしかねえ」
男は言った。
「死の島だ」
それから数分後、私は舟の舳先に座って、揺れるカンテラを見つめていた。
「お前さんも変わってるな」
黒い男が両手を動かしながら言った。
「死が、見たいなんて」
私は死の島へ帰ろうとする彼らに聞いた。死とは冨田が言うように、本当に恐ろしくも美しいものなのか。男は、そんなことはただの渡し守である自分は知らない、と言った。それについては舟の上に立っている白い人物の方が知っているはずだとも言ったが、残念ながら白い人物は何も離してはくれなかった。
「そんなに気になるんだったらついてくれば良い。夜明けまでには帰れるようにしてやる。まあ、何も無ければの話だが」
男は言った。その口調は、私に度胸が無いことを見透かしたような、やや軽蔑を含んだものであった。
私は彼に返事をする代わり、無言で舟の縁をまたいで、船首近くの板に座った。男は驚いたように唇をヒュゥと鳴らしたが、私の意思が変わらなさそうなのを見てとると、やがてオールを手にかけ、舟を縁側から引き離した。
しばらくは一メートル先も白い壁に遮られた状態で進んでいたが、徐々に霧が薄くなっていった。ふと上を見あげると、黒いベルベットを広げたような空に、いくつか我の強い星が瞬いているのが見えた。
「ここから先はもう生者の世界じゃねえ。何が起こってもおかしくないから、覚悟を決めろ」
黒い男が静かに言った。
その間にも私たちを乗せた舟は、黒く真っ平らな平面を粛々と滑っていた。時たま舟の下をゆっくりと何か大きな生き物が通り過ぎていった。黒い男は夜明け前までには私を元の場所に送り届けると約束したが、あくまでもそれは私の身に何も無かった場合のことだ。彼の言葉にそうした保険がかけてある以上、ある程度は自分の身を自分で守る努力をしなければならない。
「あんまり覗くなよ。落ちたら二度と帰って来られねえぞ」
「水の中には何がいるんですか?」
私はできるだけ身を乗り出さないようにしながら水面を見ていた。
「化け物だよ。でかい蛇とか、足のある鯨だとか、目がスープ皿ぐらいの魚とかだ。そいつらは皆人間が大好物でな。水の上までは襲って来ないが、乗り出しすぎるとそのまま体持ってかれるから気をつけろ」
しばらくすると霧もすっかり晴れて、紺色の闇が私たちを包んだ。そして前方には、うっすらと白い岩の塊が見えはじめた。
死の島だ。
広い海原の真ん中にぽつんと浮かぶそれはまさに絶海の孤島と呼ぶにふさわしく、額に入った絵で見る何倍も、孤独感と寂寥感を漂わせていた。周囲を囲む岩肌は、まるで巨大な髑髏の顎のように見えた。そしてそれに抱かれ、たくさんの死者が眠りについているのだ。私がそんなことを考えてやや感傷に浸っている間にも、舟はどんどんと島に近づいていった。
その時、人間とも獣ともつかない叫び声が静寂を破った。半円状に島を囲んだ岩山に反響するせいで、どこから聞こえてくるのかは分からない。
「バンシーだ」
声の主を探してきょろきょろしていると、男が言った。
「人が死ぬと甲高い声で泣く化け物だ。多分、昨日に来た死者の後を追っかけてきたんだろう。また追い出しておかないと」
それからも島に近づいていくうちに数回、バンシーの声は聞こえた。
舟はやがて、島の正面にある小さな石の門の前に停まった。
「さあ、降りろ。のたのたしていると帰れなくなるぞ」
私は慌てて舟から飛び降りた。後に白服、最後に黒い男が降りた。男は舳先のカンテラを外すと、私たちの先頭に立ち、
「ついてこい」と言った。私たちは島の前面を覆っている糸杉の林の中へと入った。
死の島は異常なほどに静かだった。
普通は無人の林でも、鳥の声や虫の羽音、木が風にそよいで擦れ合う音などが常に聞こえるものだが、この島ではそう言った環境音が一切しない。ただ足を踏み出す度に落ちている小枝を踏んで、パキリ、パキリと音がするだけである。しかし、前を進む白服はするすると滑るように進んで行くだけで、足音すら立てていなかった。
「ここから上がる。足元に気をつけろ」
男に言われて前方を見あげると、岩を削って作った階段が、岩壁の中腹まで続いていた。私たちは階段を上り、いよいよ崖に掘られている死者たちの寝床に近づいて行った。
カンテラが真っ暗な闇を照らすと、部屋の中にあるものが浮かび上がった。トンネルのように細長い部屋の両側に、木で作られた三段ベッドのようなものが並んでいる。そしてその一つ一つには、布に包まれ、棺に納められた死者たちが眠っていた。しかしその光景を前にしても不思議と少しも嫌な気持ちにならず、死体特有の不快な匂いもしなかった。
「どうだ?これが美しいか?それとも恐ろしいか?」
男は聞いた。
「いや、それほど」
「その通りだ。生きてる連中は死を大げさに考えすぎなんだよ。死んだら残るのは乾いた抜け殻だけなんだ」
「抜け殻?」
「そうだ。ここに納める前、こいつが」
そこで男は初めて白服を指さした。
「死者の中身を調べる。それで中にもしも思念や未練が残っていたら、全部吸い出して正真正銘空っぽにする。だから、ここにいる死者たちはもう何も感じないし、幽霊になって誰かの所に現れることもない。ただ静かに、この島で永遠に眠り続けるだけだ」
「吸い取った思念はどこにいくんですか?」
「そいつは俺も知らん。ただ」
男は白服の方を再び振り返って、今度は相手の腹に手を当てた。
「この中に入って、もう二度と出てこないっていうこと以外は、な。さあ次に行くぞ」
どの部屋を覗いても、そこには整然と魂を抜かれた残渣が並べられているだけであった。冨田が何か耽美なもののように語っていた美しい死の形は、どこにも無い
「あっ、こら!」
突然、黒服の男が何かを見つけて墓室の入り口に駆け寄った。
「やっぱりお前か、バンシー。ここは神聖な眠りの場だ。出て行け」
男はそう言うと墓室の入り口にうずくまっていたものを乱暴に蹴って外に追い出した。
黒いローブをすっぽりと被ったそれは男に追い立てられ、あの甲高い叫び声を一声あげるとそのままどこかに走って行った。
「まったく、ここのはまだ処理してないのに・・・」
男は逃げるバンシーの背中が、闇に消えていくのを見ながら呟いた。
私はふと、バンシーがさっきまでうずくまっている所に置かれている遺体を見た。新しいものらしく、巻かれている布もなんとなく清潔だ。先ほど男が言っていた、昨日来た死体というのがこれなのだろうか。空っぽになった死体を見続けて感覚の麻痺しつつあった私は、横たわっている白い塊の胸の辺りに、なぜか吸い寄せられるようにして手を置いた。
その途端、指先から濁流のように情報が流れ込んできた。明滅する光、断続的に繰り返される爆発音、硝煙の匂い、鉄の味、全身を揺さぶる衝撃。五感全てに訴えかけてくる。私の周囲には一瞬にして戦場と化していた。
黒煙と炎で染め上げられた不気味な雲を背景に、死を背負った十字架が列を成して飛んでいく。生きながらにして身体の一部をもぎ取られた者たちの叫び声があちこちに響き渡る。私は思わず目を閉じ、手を耳で押さえてその場にうずくまった。しかしそんなことをしても、一度私の中に侵入した恐怖は、閉ざされた私の内側でいっそう荒れ狂うばかりだった。
「・・・い・・・おい・・・大丈夫か!おい!」
うんと遠くから聞こえてくるような微かな呼びかけと共に、私は頬に強い衝撃を感じた。
「おい!」
私ははっ、として目を開けた。髭もじゃの男がこっちを覗き込んでいる。
「くそっ、処理前の死体に触ったな」
私は起き上がろうとしたが、頭がガンガンと痛んで体を思うように動かせない。目を開けても視界に戦場の映像がダブり、ともすれば幻影の中に引き戻されそうになる。
「ちっ、よりにもよって戦死者に触りやがって。動いたらだめだ。死体から流れ込んだ残留思念がまだ抜けてない」
男は私を地面に押しつけた。
「仕方が無い。力ずくで引っこ抜くぞ。おい!」
ふと見ると、白服が横に立っていた。
「お前なら生者相手でも思念が抜けるだろう。早くしないと、手遅れになる」
白服は相変わらず男の呼びかけに何の返事もしない。その代わり、白い衣服の下からにゅっと何かが姿を現した。枯れ木のように細いそれはどうやら白服の手のようだった。二本あるうちの一本は地面に横たえられている私の頭をがっちり押さえ込んだ。そしてもう一本で、自分の頭の布をはねのけた。
白い布に包まれていたのは真っ黒い卵形の頭だった。口も鼻もなく、人間のそれより何倍もある大きな目が一つだけ、その真ん中に付いていた。
頭がゆっくりと傾き、巨大な目が私をもろに見下ろした。それを見てしまうと、なぜか私の目は開いたままになり、瞬きすらできなくなった。
「やってくれ」
黒い男が促した。すると巨大な目がどんどんと近づいてきて、私の視界いっぱいに広がっていく。半透明の黒い膜がどんどん生々しく、鮮明に見えてきた。猛獣に睨まれたときのような恐怖を感じた。しかし頭を抑えられているため、目を逸らすこともできない。眼球の中を走る毛細血管の一本一本すら、刻一刻とその太さを増しているように感じる。目の中に吸い込まれる。恐怖が最高潮に達した私は、そこで気絶した。
「どうされたのですか。こんなところで寝ては風邪をひきますよ」
「え?」
聞き慣れた声に、私の意識は一気に覚醒した。状況が把握できず、周りをきょろきょろと見回す。どうやら縁側で寝ていたようだ。
なんで?
「何ぼーっとしてんのよ。もうすぐ悦子さんも来るし、早く起きなよ」
冨田と共に私を見下ろしていたメリーさんが言った。
「うん、分かった。すぐ上がる」
私はそう言いながらも、頭の中は疑問符でいっぱいだった。確かに昨夜自室の布団に入った所までは覚えているのだ。どのタイミングで下に降りてきたのだろう。
妖の悪戯だろうか。
固いの間で寝たせいで、まだ悲鳴を上げている体を引きずりながら私は階段を上った。
自室に入ろうとしたとき、ふと廊下の端の絵が目に入った。
「うん?」
私は何か引っかかるものを覚えて、絵に近寄った。島の左下にはいつもと同じように小舟が浮かんでいる。そして舟の上には、黒い漕ぎ手と、白服を着て立っている人物が乗っていた。彼らを見たとき、私は何かひっかかるものを感じたが、それが何なのか、どうしてもあと一歩のところで出てこなかった。
しばらくそこに立って悩んでいたが、結局何も思い浮かばないので、諦めて自室に入った。
今日もまた、新しい一日が始まる。
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