第14話 古椿

 今日も元気に蝉が鳴いている。朝の涼しい時間に庭仕事をやってしまおうと思っていたが、真夏の日本にはそんな時間など無きに等しい。あっと言う間に陽光が庭をくまなく照らしだし、動くたびに体力が削り取られていく。仕方がないので作業もそこそこに、庭の片隅に植えられている大きな椿の木の下に避難した。塀沿いで陰になっているので、一休みするにはちょうど良い場所だ。地面からひんやりとした冷気が伝わってくるのを感じる。

 ふと頭上に目をやると、深緑色の葉の間から赤いものが覗いているのが見えた。何だろうと思って目をこらすと、なんとこの夏場にもかかわらず花が咲いていた。椿は冬の花のはずだが、大きな枝の先に色鮮やかな花が一輪だけ付いている。

 これは珍しいこともあるものだと思って見ていると突然、

「どうされましたか」 

と声をかけられた。  

 驚いて声がした方向くと、いつの間にか和服姿の女性が私のすぐ近くに立っていた。黒地に赤い椿の柄が散りばめられた少し派手な着物が違和感無く馴染むほど、上品かつ華のある人だった。

「あなたは?」

「私はこの古椿に宿る精霊です。あなたは、いつもこのお庭のお世話をしてくださっている方ですね」

「はい」

 彼女の声には風にそよぐ風鈴のような透明感があった。

「実は」

 私は頭上の花を指さした。

「あそこに花が咲いているので、気になって見ていたんです。てっきり椿は冬の花だと思っていたのですが」

「ええ、その通りです」

 古椿の精は頷いた。

「しかし今日だけは、花を咲かせなければならない理由があるのです」

「理由?」

「気になるのなら、お話いたしましょう」

 そう言うと彼女は、自分の身の上を語り始めた。


 ずっと昔、椿の木はとある武家屋敷の庭に植えられていた。そこには、ある由緒正しい家柄の武士の家族が住んでいた。父親と母親、そしてその間に生まれた一人息子。この一人息子というのが、非常に剣の腕が立つ上に頭も良く、また見目麗しいので、両親にとっては自慢の子供であったらしい。

 そして古椿もまた、彼の成長を庭の片隅から見守っていた。

 彼女は家人たちを驚かさないため、外に出るのは夜だけだと決めていた。昼間は木の中で休み、夜は人間の姿で現れた。

「人間の姿になると世界がとても美しく、生き生きとして見えますの。それが楽しくて、どうしてもやめられなかったのです」と、古椿は語った。しかし、いくら人間の姿でも木のある場所から離れることはできないので、いつも枝の高いところへ腰掛け、夜空に浮かぶ月を見て過ごしていた。

 ある日の晩のこと、彼女は以前から気になっていたことを試してみようと考えた。自分がどれほど木から離れることができるのかが知りたくなったのだ。自分の座っていた枝から飛び降りると、月明かりの中、庭をそろそろと歩き始めた。辺りは静まりかえっていて、ただ虫の声だけが響いていた。

 彼女は少しずつ歩を進め、ついに家の縁側にまで達した。

 なんだ、大丈夫じゃないか。 

 彼女は思った。縁側に手をついて中を覗き込んでみたが、家人は皆寝静まっているらしく、しんとしている。

 もう少し、行ってみたい。いつの間にか木から離れる不安より、未知のものへの好奇心の方が大きくなっていた彼女はそっと縁側に足をかけ、家に上がり込んだ。

 縁側に沿ってゆっくりと進む。踏み出す毎にぎぃ、ぎぃ、と音を立てる板の間の床でさえ、彼女にとっては新鮮だった。

 ところが、そこで激しい目眩が彼女を襲った。その原因が椿の木から離れすぎたことであるに違いない。大急ぎで踵を返し、元の場所に戻ろうとしたが足が思うように動かず、派手に転倒してしまった。

 さっきとはうって変わって強い後悔の念が彼女を襲った。ああ、こんなことなら、おとなしく自分の居場所にいればよかったのに。薄暗い視界がぼやけていくのを見ながらそう思った。


「そこにいるのは何者だ」

 突然、闇の中から声が聞こえた。刻一刻と薄れていく意識の中で、古椿は声の主を見た。

 縁側に繋がる廊下の入り口に立っていたのは、あの武士の長男だった。片手には灯りを持ち、もう片方の手は腰に下げた刀にかけられていた。どうやら彼女の倒れた時の音が聞こえたので、不審に思って様子を見に来たようだった。

「女?」

 縁側に横たわっているのが見慣れない女性だと気付くと、長男は少しだけ警戒を緩め、近くまで寄ってきた。

「お前は誰だ。ここで何をしている」

 しかし彼女は彼の質問に答えることは出来なかった。ただ断続的に、微かなはあはあという声を出すのが精一杯だった。

「どうした。具合でも悪いのか」

 異変を見て取った彼は、更に近づき古椿の傍らにしゃがみ込んだ。 

 彼女は力を振り絞って腕を伸ばし、庭の椿の木を指さした。

「あそこに・・・連れて行って・・・」

 長男は彼女の願い出にしばし困惑していたが、指さしていた腕の力が抜け床に叩きつけられたのを見て、状況が逼迫ひっぱくしたものであることを理解したようだった。

 彼は灯りを床に置くと、両手を倒れている相手の体の下に差し込んで、そろそろと持ち上げた。そしてそのまま、裸の足が汚れるのも構わずに縁側から庭に降りた。 

 彼女は抱きかかえられながら、徐々に呼吸が楽になっていくのを感じていた。

 男は彼女を木の横にある石の上に、そっと下ろして座らせた。

「ありがとうございます。助かりましたわ」

 調子が良くなった古椿は男に礼を言った。

「あなたは一体、何者なのだ」

 長男はまだ彼女に対する警戒を完全には解いていないようで、彼女を降ろした後は椿の木から少し離れたところに立って話していた。

「私はこの椿に宿る精霊です」

「まさか、物の怪の類いか」

 男は反射的に刀の柄に手をやって身構える。当時は京の都にも度々妖が出現して、人間に悪さをすることがあったのだ。  

「ご安心ください。あなたに害をなすようなことはいたしません」

「化け物の言うことなど信用はできん。以前、女の姿で人間をたぶらかす妖の噂を聞いたことがある。さっき私に助けさせたのも、何か謀があってのことか」

 さっきとはうって変わり、長男の鋭い視線には殺意が混ざっている。

「いえ、そのようなことは」

 古椿は石から立ち上がった。

 長男が刀を握る手に力が入る。

「どうしても、信じられないですか」 

 彼女は音もなくすっと近づくと、男の右手を自分の手で包み込んだ。

「っ!」

 男は体を捩って彼女を引き離そうとしたが、想像以上に強い力で押しつけられ、刀も抜けない。こうなると妖と対峙する方法を知らない者が勝つのはまず不可能だ。

 古椿は左手を男の後頭部に添えて優しく引き寄せると、耳に顔を近づけてそっと囁いた。

「あなたの優しさには感謝しておりますゆえ、今夜は許して差し上げます。今後もあなたやご家族を害するつもりはありません。どうか手をお引きください」

 次の瞬間、男は体に力が戻るのを感じた。

 慌てて周囲を見回すがもう誰もいない。ただ闇の中に椿の古木がそびえ立っているだけである。男はしばらくそこに立ち尽くしたまま、それをじっと見つめていた。


 それから何日か経った夜のこと。古椿が外に姿を現すと、縁側で男が佇んでいた。この間と同じように灯りを携えているが、刀は下げていなかった。

「私に何か、ご用ですか」

 彼女が男の方向を見ると、男は黙ってすいと視線を逸らした。

「あの時は咄嗟のこととは言え、大層ご無礼なことをしてしまいました。まだそのことを怒っておられるのですか」

「いや、それはもう良い。今宵は、あなたに会いに来た」 

「私に?」

 夜風が二人の間を通り抜け、古椿の髪を揺らした。

「あの夜、あなたは私の右手に触れた。その滑らかな感触が、どうしても忘れられない」

 男はそこで初めて、彼女を正面から見据えた。

「私のこの気持ちは、間違っているのだろうか」

 それを聞いた古椿はあの時と同じように、音も無く男に近づいた。ただ以前と異なり、男もそれに抵抗することは無かった。

「いえ、間違っていることなど何もありません」

 少し歪な月の下で、二人はそのまま縁側に倒れ込んだ。


 それから男は、夜ごと古椿の元に来るようになった。二人は静かな庭で逢瀬を重ねた。夜更かしが続いたため長男はいつしかげっそりと痩せ、常に疲れた顔をするようになった。それでも彼は、彼女に会うのをやめようとはしなかった。


 ところがその時、彼の家では年頃になった長男の結婚話が進んでいた。当時結婚は本人の気持ちよりも家の存続などを目的としたもの多く、夫婦になる者同士が結婚式当日まで互いの顔を見たことが無いことすら多々あった。彼の両親も例外ではなく、彼の知らない間に粛々と準備を整え、とある有力な武家の娘との縁談をこぎ着けていたのであった。


「それでは、その方と結婚を?」

 ある晩、話を聞いた古椿は彼の真意を尋ねた。

 長男もその日の昼に両親から聞いたばかりであり、気持ちが激しく動揺していた。

「これも武士の家に生まれた運命。潔く受け入れなければならないのだろう」

 男はそう言いながらも、彼女の背中に腕を回した。

「だが、私はもうあなた無しには生きられない。この気持ちをどうしたら良いのだろうか」

 抱き寄せられた古椿は、彼の厚い胸板越しに心臓がいつも以上に強く波打っているのを感じた。彼女はそれをなだめるかのように、そっと指を這わせた。

「私も、あなたを愛しておりますわ」

 そして二人はまた熱い抱擁を交わした。

 

 さらに時が過ぎ、いよいよ翌日が結婚式となった日のことだった。

 二人はいつものように椿の木の下で一時を共にした。 

「私のことを、忘れずにいてくださいますか?」

 身を重ねながら何度も男の耳に古椿は囁いた。

「ああ、私はあなたを忘れない。すぐにあなたの元に戻ってくる。だから、あなたも私を忘れないでほしい」

 男は彼女にそう言った。最後になるかもしれない二人の時間は、東の空がうっすらと白むまで続いた。

 そして明け方、古椿は男と別れて木の中で眠りについた。


 翌朝、長男が部屋にいないことを不審に思った屋敷の使用人たちが家中を探し回った。そして偶然、あの縁側を通った女中が椿の木で首を吊っている長男を発見した。


「私はとても後悔いたしました」

 古椿は話をしながら着物の袖で顔を覆い、涙を拭った。

「あの方はとても真面目で、誠実な方でした。ですからきっと、私を裏切って結婚することも、結婚した後に私の元に通うことも、許せなかったのでしょう。彼の『すぐあなたの元に戻ってくる』という言葉は、死をもって私の側に居続けるという意味だったのです」

 彼女は頭上の花を見あげた。

「ですから私は毎年あの方の命日に、死を悼んで一輪だけ花を咲かせることにしているのです」


 話を終えると、彼女は現れたときと同じように突然ふっと消えてしまった。私は男が首を吊ったという大枝を見上げながら、妖と人間の恋の悲しい末路に思いを馳せていた。

「何をしておられるのですか?」

 上を向いたまま突っ立っている私を不思議に思ったのか、冨田が声をかけてきた。

「いえ、実は・・・」

 私は今、古椿から聞いた言葉を冨田に話した。

「なるほど、古椿が現れましたか」

 彼はなぜか額に皺を寄せ、難しい顔をした。

「どうかしましたか」

「それであなたは、古椿の言うことを額面通り信じてしまったのですね」

「え?」

 私は冨田の問いかけの意味が分からなかった。

「どういうことですか」

「いえ。私も以前同じ話を聞かされたのですがな。実は彼女の話にはいくつか疑問点があるのです。まずは長男の自殺方法です。武士の自殺と聞いて、あなたが思い浮かべるものはなんですか」

「切腹、ですかね」

 時代劇等でよく見る武士の自害は大抵、刀で腹を割く切腹だ。

「その通りです。一般的に当時の武士が自殺するといえば、切腹なのです。自分で首を吊るというのはいささか変ではないですか」

 そうは言っても方法を決めたのは長男自身だし、切腹をするほどの度胸が無かったとも考えられる。首を吊れば死ねるという認識は、当時だっておそらくあっただろう。

「それだけではありません」

 冨田は続けた。

「なぜ彼は、わざわざ恋人との思い出の場であり、なおかつ現在も彼女が宿っているこの椿の木で自殺したのでしょうか?」

「それは・・・」

 そう言われて私は気付いた。考えてみれば不自然な話だ。いくら彼女への気持ちを表すためだとは言え、まるで思い人の家の前で首吊りをするような真似をこの長男はしている。

「いくらまだ若いとは言えど、彼も武士です。それなりのプライドもあったことでしょう。そんな人が、自分の決して美しいとは言えない死に様を、慕っている女性の前に晒すでしょうか。少し無理があるのではありませんか」

 私は気の利いた返答が思いつかなかった。

「これはあくまで、私の想像ではありますが」

 冨田はすっと人差し指を立てた。彼が自分の考えを語り始める合図だ。

「この長男を自殺に導いたのは、実は古椿本人なのです。いえ、それよりももっと前、長男が彼女と契りを結んだ時から、彼女の計画は始まっていたのです」

「古椿が・・・」

「長男は夜の逢瀬を始めてから、急激に痩せて疲れた顔をするようになったと言っていましたね。それはおそらくただの睡眠不足ではありません。彼女と契る度、長男の魂は削られ、吸い取られていたのです」

 私は先ほど彼女が着物の袖で顔を覆い、涙を拭っていたのを思い出した。もしかしてあの時、布の裏で彼女はにやりと笑っていたのではないだろうか。

 古椿は初めから、男のことを魂を吸い取る食料としてしか見ていなかったのだ。

「そして用済みになった男には自分の木で首吊り自殺をさせ、魂の最後の一片まで自分のものにしたのです」

「どうして・・・」 

 先ほど彼女の口から聞いたときにはただの悲恋物語だと思ったのに、冨田の解釈を聞いた途端、頭の中のそれはどす黒く濁っていった。

「それは、彼女がそういう運命の妖だからです。自分の存在を保つためには人間の魂が必要だった。その為の手段として、美しい女性の姿で男を幻惑したのです」

 冨田はそこで私の顔を見た。

「しかしあなたも危なかったですな。世間から隔てられた紅廊館に住んでいる人間など、次の標的としてはうってつけだったでしょうから。自分の過去を共感を誘うように脚色して語り、そちら側に引き込もうとしたのかもしれません」

 その時、何かがこつんと私の頭に当たって落ちた。

 

 見下ろすと、足元に転がっていたのは真っ赤な椿の花だった。

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