第8話 メリーさんの電話
ある日の夕刻、紅廊館の古びた黒電話が凛々と鳴り響いた。
「すみませんが、代わりに出ていただけませんかな。ちょっと今、手が離せないもので」
「はい、分かりました」
冨田に頼まれ、私は受話器を取った。
「もしもし?」
「…もしもし」
向こうから聞こえてきたのは、まだ幼さの残る女の子の声だった。しかし子どもの割には妙に冷たいと言うか、無機質な響きを持っていた。
「私はメリーさん、今ゴミ捨て場にいるの」
ブツッ。
たった一言で電話が切れた。
「もしもし?もしもし?」
何度か呼びかけてみるが返事がない。完全に切られている。
「いたずらかな」
「どうかされましたか」
冨田がやってきたので、事情を説明した。
「なるほど、メリーさんですか。なかなか面白いですな」
老人はなにやら得心がいった様子でにやにやしているが、こっちはさっぱりだ。
「どういうことですか?」
「いや、今に分かります」
冨田の言葉に首を捻っていると、また電話が鳴った。
「もしもし?」
「…もしもし」
受話器を取ると、さっきと同じ声が聞こえた。
「私はメリーさん、今郵便局の前にいるの」
ブチッ。
場所は変わっているが他は同じだ。一体どういうことだろう。
しばらくしてまた電話が鳴った。
「私はメリーさん、今白いマンションの前にいるわ」
そして、
「私はメリーさん、今橋を渡ったところよ」
次に、
「私はメリーさん、今広い道の交差点を左に曲がったわ」
ここまでくると私にも彼女の言葉の意味が分かってきた。
メリーさんは、紅廊館を目指して歩いて来ている。
真夏の昼間に馬鹿なんじゃないかとも思うが、どうやら歩きらしい。
「私はメリーさん、今美容院の角を曲がったわ」
これは紅廊館のすぐ近くにある老舗の美容院のことだろう。
いよいよ近づいてきた。
「私はメリーさん、今玄関の前にいるの」
来たか。
「どうしましょう?玄関の前にいるそうです」
私は冨田に聞いた。彼女の声の感触から、メリーさんもまた人非ざるものであることを確信していた。
「ならば、迎え入れてあげるのが筋でございましょう。来るものは拒まず、ですから」
冨田はにっこり笑って言った。
そう言えば以前猫又に聞いたところによると、冨田は古今東西のあらゆる妖怪や精霊、呪物などを節操なく迎え入れてしまうので、紅廊館の周囲には怪しげな磁場のようなものが発生しているらしい。そして、それが更に面倒なものを引き寄せてしまうという。
しかし、ここは冨田の意思を尊重し、彼女を迎え入れることにした。
引き戸をガラッと開けると、そこには誰もいなかった。ただ真夏のほのかに甘く、重い空気が流れ込んでくるのみである。
「誰もいない…?」
やっぱり悪戯だったのか、などと考えながら戸を閉めて奥へ戻ろうとした矢先、また電話が鳴った。
「…もしもし」
彼女の声だ。
「私はメリーさん、今、あなたの後ろにいるの」
今までのどのセリフよりも冷たい声で言った。私は反射的に振り向こうとした。
その時、
「振り向いてはなりません!」
という鋭いと声とともに、私の後で稲妻のようなものが光った。
それと同時に、女の怒号とも悲鳴ともつかぬ叫び声が聞こえた。
「…危ないところでしたな…」
静かに冨田が言った。
振り返ると廊下の真ん中に光の柱のようなものが現れ、それを挟んで向こう側に冨田が立っている。
「あまりこういうものは慣れていないのですが。芸は身を助ける、というやつですな」
冨田が手を差し伸べると光の柱は消えて、中から赤い塊が現れた。
そして柱の根元から何枚かのカードが飛び出し、冨田の手元に収まった。
「昔西洋の魔術師から教えていただきました、敵の動きを一時的に封じる結界だそうです。閉じ込めた相手をある程度弱体化させることもできます」
そう言うと冨田は足元の赤い塊を見下ろした。
「さあ、お話を聞きましょうか。メリーさん」
柱の中から解放されたのは、高さ50cm程の赤い服を着た人形だった。こういうのをビスクドールと言うのだろうか。金髪で青い目をしている。そして恐ろしいことに、彼女の小さな手には錆びたカミソリがしっかりと握りしめられていた。
「なぜ…分かったの?」
地面に倒れた彼女は床に手をついて体を起こしながら、怒りを押し殺した低い声で言った。
「この紅廊館は私の体のようなものですから、すぐに分かるのです。あなたを入れるも締め出すも、私の意思次第なのですよ。まあ、そちらには分からなかったみたいですがね」
そちら、というのが私を指しているのは明白だろう。気づかぬうちに後ろを取られていたとは。
「じゃあ何で?何で私を中に入れたの」
冨田の方にキッと鋭い視線を向けながらメリーさんが言った。
「貴女が、助けを必要としているように思いましてな」
冨田はゆっくりと言った。
「助けなんて…」
否定しながらも、メリーさんは急に気弱になったように目を伏せた。
「ではなぜ、うちに電話をかけたのですかな」
「分からない、前の持ち主の所に行きたいと思ったのに、なぜかここの電話にかかった」
「前の持ち主に、今までの縁を切られて不安だったのですね」
冨田の言葉を聞きながら、彼女は俯いたままいた。しばらくして、
「…ずっと一緒にいたんだ」
と、口を開いた。
「でもある日、もういらないって言われて、捨てられた」
器物の存在価値は誰かに必要とされ、そばに置かれて使われること。それが失われた時、彼女を襲った絶望は計り知れないぐらい大きなものだっただろう。
「悲しかった、いつまでも大事にしてもらえると思っていたから」
「なるほど、それはお辛かったでしょう」
「だから」
彼女の言葉と同期してカミソリを持った手がビクリと震えた。
「許せなかった、私を裏切った人を。死ねば良いと思った。殺してやりたいと思った」
冨田はしゃがんでメリーさんの手を優しく握り、カミソリを取り上げた。
「あなたの心中はお察しします」
彼女は得物を取られても抵抗しようとはしなかった。
「しかし、仮に元の持ち主の方を殺めたところで、あなたの居場所が戻ってくるわけではないのです。そのくらいは、お分かりでしょう」
「でも」
「いいですか」
冨田が人の話を遮るなんて滅多に無いことだが、その口から出た言葉には有無を言わせぬ響きがあった。
「あなたを捨てた方にも大事な家族があり、人生があります。ほとんどの場合、人間にとって器物の優先順位はそれらよりも低いのです。残念なことではありますが、それがこの世界の理であり、器物に生まれた運命なのです。おわかりですか」
「…分かった」
メリーさんは素直に頷いた。
「でもそれなら、これからどうすればいいの」
彼女の声に嗚咽が混じり始めた。涙を流さずに泣いているのだ。
「ここにいれば良いのです」
「えっ?」
メリーさんは驚いたような顔をしたが、冨田ならそう言うと思っていた。
「ここに?」
「ええ、ここは紅廊館。行き場を失った妖が集う場所です。メリーさん、貴女をその一員として歓迎いたしましょう」
そう言って冨田はにっこり笑った。
「でも…」
メリーさんはしばらく逡巡していたが、やがておずおずと言った。
「じゃあ…よろしく…お願いします」
こうして紅廊館にまた1人、いや1つ怪異が加わった。
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