第6話 夜泣き石
紅廊館で夜を過ごしていると、時々しじまを破ってしくしくという泣き声が聞こえてくることがある。特にしとしと雨の降る晩などにそれが耳に入ると、場所が場所だと分かっていても、気分の良いものではない。
「それは夜泣き石のことですな」
泣き声のことを話すと、冨田はそう答えた。紅廊館の庭の隅に置かれている、私の膝ぐらいの高さの石がどうやらそうらしい。
「昔、あの石の近くを通った女性が侍に斬りつけられたのです。女性はそのまま死んでしまいましたが、その理不尽な結末を呪い、怨念となってあの石に宿ったのです。もともとはどこかの山道にあったものですが、付近の村の再開発に伴って撤去することとなったため、うちで引き取ったのですよ」
この手のものは動かさないのが吉と相場は決まっているが、なにぶん他にもいろいろ呪物やいわく付きのものを集めるのが趣味である冨田のことだ。好奇心が抑えられなかったに違いない。
「じゃあ、あそこには今でも彼女の怨念が」
「さようでございます。特に初夏の今頃は泣き声が頻繁に聞こえてきます。きっと彼女が殺された時期なのでしょう」
その夜も、また女のすすり泣く声が聞こえた。
しばらくそれに耳を澄ませていた私は、なぜか彼女の元に行ってみようと思った。
サンダルをつっかけ、湿った庭に降り立つ。周りの木やコケから、昼には見られない怪しげな妖気が漂っている。そちらの松の木の上には鬼火が、あちらの榊の木には木霊が、という状態であった。大きな椿に至っては幹の表面に見たことない人面模様が浮かんでいる有様で、夜の庭はたいそうにぎやかだ。
その中を突っ切って泣き声のするところを目指して行ってみると、やはり例の石からそれは漏れていた。そっと耳を近づけると、すすり泣きに混じって微かに女の声が聞こえてきた。
「・・・し・・・ちゃん・・・いそう・・・」
か細く断続的な声が染み出すように石の中から聞こえてくる。
耳を濡れた石の表面にぴったりくっつけると、声はより鮮明なものとなった。
「私の…赤ちゃん…かわいそうな…」
それを聞いて私は合点がいった。彼女はただ自分の不運を恨んで泣き続けていたわけではないのだ。殺された時、彼女は妊婦だった。そして自分が斬り殺されるのと同時に、お腹の子も殺されてしまった。そのことがいたたまれなくて、今もなお泣き続けているのだと。
「なるほど、そういうことでしたか」
朝になり冨田にそのことを話すと、彼はまだ寝ているような細い目をしながらゆっくりと頷いた。
「ご存知なかったのですか?」
「そうですな。何分耳が少し遠くなっておるもので、最近は妖たちの声も聞こえにくいのです」
冨田は恥ずかしそうに言った。
「なんとかしてあげられないでしょうか」
「なんとか、と言われましても」
そこまで考えてはいなかったのだろう。冨田は目尻に少しシワを寄せながら答えた。
「おそらくあの石を泣き止ませるには、亡くなった子供と引きあわせるしか方法がないでしょうな」
しかしそんなことは不可能である。
「いや、そうでもないかもしれません」
冨田の言葉に私は顔を上げた。
「確かあの石の近くには、水子塚があったはずです」
水子塚とは、流産などで死んでしまった胎児を埋葬した場所のことである。昔の村ではよく子供の「間引き」が行われており、その時に殺された子供も水子塚に埋められたという。
「再開発に伴って、中の骨壺が近くのお寺に引き取られたらしいと聞きましたが、もしかしたらその壺の中身は…」
泣き石の子供かもしれない。
「壺はまだ寺に保存されているはずです。問い合わせてみましょうか」
「はい、ぜひ」
私は彼女の無念を晴らしたい、と真剣に考えていた。
時代遅れの黒電話に向かいながら冨田は言った。
「もしもし、どうもご無沙汰しております。冨田です…はい…その節はどうも…」
数日後、厳重に梱包された荷物が紅廊館に届けられた。紐解くと中から、お札がベタベタと貼られた小さな壺が出てきた。
「本来このようなことは許されないのですが、向こうの和尚様のご意向で特別に手配していただきました」
大きさこそ小さいものの、底知れぬ妖気というか邪気のようなものが梱包を解いた途端に溢れ出しているのが分かる。
「現在は妖怪封じのお札を蓋に貼り付けているため、中からいきなり飛び出すことはございません。ご安心ください」
私の心中を察してか、冨田が言った。
「これをどうするんですか?」
「万が一水子が暴走しても良いように、庭の石の周りに結界を貼ります。そのあと封を開けましょう」
夜の帳が下りる頃、結界の設置が終わった。
石をぐるりと囲むようにしめ縄が貼られ、外側の四隅には塩が盛られている。いつもは庭で遊んでいる妖たちも、屋根や木の上から遠巻きにその様子を見つめていた。
そしてその中央に、壺を捧げ持った人間がいる。
私である。
なぜ冨田ではなく私がこの重大な役割を担うことになったのか。理由はとても簡単なことである。魔除けの為に張った結界の中に冨田は入れないのである。
なんだか深い事情があるらしいのでそれ以上は追求しなかったが、彼がただの人の子でないことは、今までの流れでうっすらと気づいていた。
普段はなんとでも言えるが、いざその状況になってみれば人間とは弱いものだ。私の手足はさっきから田舎の脱穀機のような震えを一向に止めようとしない。
何はともあれ、私はこの古より呪われし壺を開封しなければならない。
中に入っているのは子供だ、ただの子供だ。そう自己暗示をかけつつ、蓋に張り付いたお札に手をかける。その時壺が痙攣するようにビクンと動いた。
確かに中に何かいる。
後ろを振り返ると、冨田がこちらをじっと見つめて立っている。そこにいるのはありがたいが、何もしてくれないので結局いてもいなくても一緒な気がしないでもない。
いつもは穏やかな庭に流れる、張り詰めるような空気にはとても長時間耐えられそうにない。私は大きく息を吸うと、ひと思いにお札をベリベリと捲った。
その途端、蓋を突き破ってなにやら一陣の風のようなものが、凄まじい勢いで飛び出してきた。壺を持っていた私は勢い余って背中から地面に転けてしまった。
転けたまま上を見上げると石の上に白い不定形な霧の塊のようなものが浮かんでいる。
「お母さん…お母さん…」
霧の中から微かに声が聞こえた。
「赤ちゃん…私の」
夜泣き石の声が聞こえたかと思うと、石からも湯気のように白いものが立ち上がり、2つの白い霧が絡まりあった。そしてそのままずっと上の方に上がっていった。後には、静かな庭と尻餅をついている私だけが残された。
どこかで子供の笑い声が聞こえた気がしたのは私だけだろうか。
「行ってしまいましたな」
霧の消えていった中空を見つめながら、冨田がしんみりと言った。
「…終わったんですね」
私はそう言うと、急に体の力が抜けてしまい、夜露に濡れた地面にまた背中から倒れこんだ。
夜空にはいつもより多くの星がまたたいていた。
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