第4話 ケルピー

 初夏もいつの間にか過ぎ去り、梅雨がやってきた。

 その日はジメジメと降り続いた雨が久々に上がって、太陽が顔を出していた。雨が降っているときはきちんと庭掃除が出来ないので、私はこれ幸いとばかりに庭をきれいにし始めた。

 雨が降ると必ず蔓延るのがゼニゴケである。紅廊館の庭にはいろいろな苔があるがゼニゴケは他の苔の住処まで侵食していく厄介者なので、適当に間引かなければならない。地面にへばりついた苔を箸で少しずつはがしていく。腰にくる作業をしばらくしていると、裏庭の方から動物の鳴き声のようなものが聞こえた。

 紅廊館の裏には池がある。一般家庭の風呂桶二個半ぐらいの大きさは優にあるだろう広い池だ。赤と黒が入り混じった優雅な模様の金魚がたくさん泳いでいて、作業の合間に眺めるのが日々のちょっとした楽しみである。

 その池のほとりに、異質なものが立っていた。

 それは一頭の馬だった。しかし、体は白でも、黒でも、栗毛でもなく、透明感のある少し濁った水色だった。馬は私に気がつくと、鼻を鳴らして尻尾をパタパタと振った。元より都会の真ん中の紅廊館に馬などいるはずがない。しかしそいつは実際私の目の前にいた。

 馬は黒い目で私のことをじーっと見つめていたが、しばらくすると背を向けて池の水を飲み始めた。そうなるとこちらもむくむくと好奇心が大きくなってくるもので、私はこっそり馬の背中に近づいた。

 じっくり観察すると、その馬はやはりというかなんとというか、普通の馬ではなかった。よく見ると馬の体には不思議なマーブル模様が刻まれていて、しかも絶えず変化している。まるで水面のさざ波が常に動いてその形を変えるように、馬が動くたびに新たな模様が広がっていった

 しばらくすると馬は私に背を向けてしゃがみ、乗れというように首を振った。しかしもちろん。私は馬など乗ったことはない。どうすればいいのか悩んだが、せっかく馬がその気なのだ、ええいままよとばかりにその背中に跨った。見た目通りひんやりとしてはいるが、不思議と服が濡れるようなこともなく、私の体はしっかりと支えられていた。私を乗せると馬は立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。

 最初は庭の中をゆっくりと回っていたが、だんだん調子付いてきたのか駆け足になり、どんどん速くなっていった。周りの景色がメリーゴーランドのようにぐるぐると回る。

 そういえば子供の頃、デパートに行く度、母にねだって屋上のメリーゴーランドに乗せてもらっていたっけ。朧げにそんなことを思い出しながら、緑色にぼやけていく景色を私は見ていた。

 すると突然馬は動きを変え、一直線に走り出した。そして大きく跳躍し、そのまま池の中へと飛び込んだ。私は驚いて、思わず目をぎゅっと閉じた。

 大きな水音とともに身体中が投げ出され、ずぶ濡れになる感触がした。

 目を開けると私は池の中に尻餅をつく形で座っていた。もちろん馬など影も形もない。

「なんだったんだ…今のは」

 思わず一人で呟くと、

「また変なことやってるね、人間」

 聞き覚えのある声が上から降ってきた。見あげると、屋根の庇の上にいつぞやの猫又がいた。

「いや、馬に乗っていたら急に池に飛び込んで…」

「馬?ああ、ケルピーに騙されたんだね」

 そう言うと猫又はよっ、と池の前に飛び降りてきた。

「ケルピー?」

「西洋の水の精。出身は確かイギリスだったかな。たまに水脈を伝ってこの庭にも入り込んでくるのよ。いたずら好きでよく人を水に引きずり込むのさ」

「水に引きずり込む」

 もし池がもっと深かったら、私は溺れていたかもしれない。思わず背筋が寒くなった。

「あんた、命拾いしたねえ。あんまり知らないものにむやみに関わらないほうがいいよ」

 じゃあね、と言い置いて猫又は二股の尻尾を振りながら去っていった。


 しばらくぼーっとしていたが、大きなくしゃみが出て初めて、自分が水の中に座っていることを思い出した。

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