第3話 猫又

 悦子さんが張り切って用意してくれた朝飯を食べ、私はいよいよ仕事に取り掛かった。

 最初は紅廊館の広い庭の掃除である。茶室から見える苔庭の落ち葉を一つ一つ、手で拾っていく。結構疲れるもので、なるほど冨田老人がもうできないと言うのもなんとなくわかる気がする。今後は外仕事や力仕事を私が担当し、室内の家事を悦子さんが担当することになるらしい。

 二時間ほど働いて一休みしていると、庭の塀の上を一匹の茶色い猫が歩いていた。何気なく「やあ」と声をかけると「やあ」と返ってきた。この猫は人の言葉を喋るらしい。幸いこの手の現象には昨日から遭遇しっぱなしなので、割とすんなりと受け入れられた。

「お前は喋れるのかい?」

 改めて聞いてみる。

「もちろんさ」

 口調は荒っぽいが若い女の声だった。

「だって猫又だもの」

「猫又?」

 昔高校の古典の教科書に載っていた気がするが、詳しくは知らなかった。

「猫はね、長生きすると猫又になるのさ。ほらこの通り」

 そう言って猫又は自分の尻尾を見せた。なるほど、二又に分かれている。だから猫又か。

「人間は大変だね。長生きしたって何にもなれないのに、やたらめったら寿命が長い」

 確かにその通りである。

「別に私は、何にもなりたくないよ」

 私は言った。

「なぜだい?」

「今以外の自分が考えられないから、かな」

「臆病だね」

「そうかな?」

 私は聞いた。

「臆病さ。変わって次の段階に進むことを、あんたは怖がってる」

「確かにそうかもしれない。でも今のままで良いと思えるなら、そのまま続けるのもありなんじゃないかな」

 深く考えず、私はそれっぽいことを適当に言い返した。それを聞くと猫又はふん、と鼻を鳴らして行ってしまった。

 よく分からないやつだが、その背中からは年を経た独特のものが滲み出ているのを感じた。


 だが昼飯時に残り物の魚を悦子さんからもらっているのを見て、やっぱり猫だなと思い直した。

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