深海先生の幼馴染

 いつものまにか足もとばかりを見つめて階段を上っていた俺は、ふと、上を仰いだ。

 錯覚だろうか。――光が、注いでいるように見える。いや……錯覚ではないのか? やはりここは地下だったということで……ようやく地上にたどり着く、ということだ。



 俺は足を止める。そして、自分でも変だと思うことを思う。

 この景色を俺は知っている。いや……、

 この景色に似たなにかを俺は知っている。



 りんと鈴の音が鳴ったような気がした。ひらり、とその金髪が輝いたような気がした。



『悦矢はまったくしゃーないやいねえ』

 その声。そのすがた。小さいくせに巨人と言われたその、すべて。

 俺はいつでも見上げていた。

 うざったかった。とても。眩しかったのだ。……すごく、

 そう、まるで、この景色みたいに――、





「……昴」





 螺旋階段の半ばで立ち止まったまま、気づけば俺は呟いていた。

 その瞬間、俺の足もとから、黒かったはずの階段が鮮やかに色づいていった。螺旋階段は鮮やかな色、色、色に染まっていく。どういうことなのかわからない。けれども俺はとりあえずとりあえず、その先を目指してもっともっと駆け足になる。ガンガンガンと虹色の階段を蹴り飛ばすほどの勢いで蹴り上げるようにして俺は駆け上っていく。すさまじい速さだった。だが一歩も踏み間違えないし、足がもつれることもなかった。





 呼び声はやがて叫び声になっていく、

「昴。昴。昴――!」





 目に痛いほどの強烈さをもったはずの色たちよりも俺は光のほうがだいじで、だからやがて求めるようにして手を伸ばして――、

 荒くなってきた呼吸のなかでも右手を光に重ねたその瞬間。



 階段は、終わった。

 ぶつ切りのように。



 俺はいつもの校舎――教室棟の一階に、立っていた。

 振り向くと、そこにはたしかに階段があった、……ただしどう見ても螺旋階段ではないし、立ち入り禁止と書かれた柵が置いてある。踏み越えればたとえば教師に対して暴力を振るったほどの深刻な校則違反となり、内申点が著しく下がるということで、ふだんは生徒が近づきもしないところ、――生徒たちのあいだで恐怖半分苛立ち半分で、【地獄】と、そう呼ばれているところだった。


 そしてもういちど視線を前に向けると――角谷先生が、いた。長い茶髪も組んだ腕もその手に持った指揮棒も、すべてが、はるか古いことのようにさえ思えた。たかだかここ数ヶ月の話なのに。


 角谷先生の背景は一面ガラス張りの窓だ。……あの中庭が、映画のスクリーンみたいにくっきりと見渡せる。太陽の陽射しがさんさんと降り注ぐその中庭には、――人が人だかりになるほどにたくさん集まっていて、またしてもなにかの事件なのかもしれない、……鬼ヶ原にとって事件などいうのは日常だとも言えるのだけれど。



 ああ。この感じ。

 懐かしい、



「矢野悦矢」



 その傲慢な響きの呼びかけさえも。



「矢野。……おまえは、勝利したぞ」

「は……? なんだよ? っていうかなんでいるんだよ? 俺になにか用だった?」



 はっはっは、と角谷先生は高らかに笑った。



「なるほどなるほど、……おまえは【地獄を往く】ほどの器だったんだなあ。やはり私は間違っていなかったようだ」

「え? あの……え?」



 角谷先生は笑顔はそのままに、ほんのわずか視線を伏せる。



「おまえをこの学園に入学させたことは、やはり私の英断だった、と言うべきだな。……正直、深海からおまえのことを頼まれたときにはどうしようかと思ったが」

「……先生が? あ、その、先生っていうのはいま喋ってる先生の、……角谷先生のことじゃなくってさ」



 ああ、と角谷先生は茶髪を揺らしてうなずいた。



「いまだから言えるが。……私はおまえの開発を頼まれていた」

「かい……はつ?」

「ああ。より正確に言うのであれば、改良、とでも言おうか。……エモーショナルプログラムを負の方向に暴発させたゆえ、感情兵器としてバケモノとなってしまったおまえを改良することだ。……おまえのエモーショナルプログラムは強すぎる。そして、早すぎるんだ、――エモーショナルプログラムは、人類には早すぎた。そういうことが、往々にしてこの世のなかにはあるのだよ」



 いつもの角谷先生だ。

 語り口調は音楽室の黒板に怠く怠く音符なんかを書いていくときのそのまんまで。ハスキーな声で。このひとは、音楽教師だというわりにはだれもその歌声を聴いたことがなくて。じつは音痴なんだと生徒たちはくすくす笑うけれども。

 ただその背景が黒板ではなく、白く黄色く空間をぼかしてしまうほどの光だというただそれだけのことであって。

 ……いつもの角谷先生のはずなのだけれど。



「深海からおまえについて相談を受けたとき、私は深海に言ったよ。……即刻廃棄処分すべきだと、それも、……法を適用して生かしておくべきではないと。世界人類社会のことを考えれば、エモーショナルプログラムのファーストプロトタイプであり【失敗作】である矢野悦矢は、あまりにも――危険だと。……ひとつの個体の、それも感情などという恣意的でもっとも研究の光が追いついていないところで、人類に危害が及んだらどうやって責任を取るつもりなんだ、と」




 知らない……こんなことは。

 俺はいま、知らない話を聞かされている。

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